特集  中日の心をつなぐ24式太極拳 
                                                               

ますます太くなる友好の絆

  中国から日本に伝わった24式太極拳は、中日の相互理解と友好の増進に大きな役割を果たしてきた。とくに国交正常化前の困難な時代、スポーツの交流が両国の人々の相互理解を推し進めた。そしていま、中日間に難しい問題が起きても、太極拳の交流はいっそう盛んになっている。

周総理の決断で始まる

24式簡化太極拳をつくった李天驥さん

 1959年10月、日本の国会議員代表団が中国を訪問した。周恩来総理が宴会を催し、代表団を歓迎した。その宴席に一人の武術家が出席していた。当時、まだ45歳だった李天驥さんである。彼はすでに太極拳の名人といわれ、政府の委託を受け「24式簡化太極拳」をつくりあげた人だった。

 宴会で、李天驥さんは団長の松村謙三さんや古井喜実さんと知り合いになった。松村団長が「太極拳が習いたい」と言うと、周総理は喜んでこれを受け入れ、李天驥さんに教えるよう言い付けた。

 李天驥さんは、代表団が北京に滞在中、何回も宿泊先の北京飯店に行き、日本の友人たちを指導した。北京市人民対外友好協会の馬恵麗さんは、このときのことをはっきり覚えている。

北京・八宝山の人民公墓に行き、24式太極拳の創始者である李天驥さんの墓に詣でた日本の愛好者たち

 「日本の代表団の人たちは、北京飯店の屋上で太極拳を学びました。70歳を過ぎた松村団長と古井先生がもっとも熱心でした。みんな汗をびっしょりかきましたが、休もうという人はいませんでした。最後に代表団は、先生の動作をすべて撮影し、日本に持ち帰りました」

 送別会の席上、李天驥さんは24式太極拳の動作を描いた掛け図セットと太極拳の書籍を松村団長に贈った。松村団長は喜んで「帰国したら必ず、日本の地に太極拳が根付くようがんばりたい」と答えた。

日本から来た太極拳愛好者たちは、劉連有さん(中央)の指導で、太極拳を真剣に学んだ

 古井さんはその後何度も訪中したが、来るたびに李天驥さんから太極拳を教わった。1968年には、日本太極拳協会が設立され、古井さんが理事長になった。この協会は多くの太極拳愛好者を集め、多くの指導員を養成した。こうして24式太極拳は日本へ伝えられたのである。

 古井さんの下で、太極拳の普及に奔走したのは、小池勤さんである。彼は、さらに中日両国の友好交流を進めるため、1982年に日中太極拳交流協会を創設した。そして中国から数人の優秀なコーチを日本に招いた。李天驥さんもこの年、日本にやってきた。彼の娘の李徳芳さんは、日本に10年以上滞在し、太極拳を教えた。

北京飯店の屋上で、李天驥さんから太極拳を学ぶ古井喜実さん(右)(小池勤さん提供)

 1986年、この協会が主催する「健康と友好交流」大会が、東京・代々木の国立屋内総合競技場で開催され、全国各地から千人近い太極拳愛好者が参加した。その後、この大会は毎年一回、開かれ、韓国・朝鮮人や欧米人、華僑・華人の太極拳愛好者たちも参加するようになった。

 また、東京・文京区の日中友好会館に、日中健康センターを開設し、李徳芳さんをはじめ中国から招聘した専門家の指導による太極拳教室を運営、ここから数多くの太極拳士が巣立った。

普及に尽くした中国の武術家たち

今年、23回を迎えた日本太極拳選手権大会(写真・王浩)

 日本で太極拳が普及した陰には、日本に行き、それを教えた多くの中国の武術家たちの努力があった。

 1985年、北京武術協会は、李天驥さんの弟子の劉慶洲さんを日本に派遣した。彼はもともと北京の工場労働者だったが、 式太極拳の学習班に参加して以来、ずっと李天驥さんの下で24式太極拳の普及のために働いてきた。

太極拳の指導をする李徳芳さん(左)(写真はいずれも王浩)

 東京で劉慶洲さんは一軒のヨガのフィットネスクラブに招かれ、ここに太極拳クラスを開設し、コーチになった。当時、太極拳を知る日本人は少なく、参加する人はほとんどいなかった。数カ月間、太極拳クラスは赤字だったが、劉慶洲さんは落胆した様子もなく、みんなを励ましてこう言った。「太極拳の良さを知りさえすれば、人は必ずやって来る」

 ある日、50過ぎの夫婦がクラブにやって来た。夫はひどい不眠症だったので、運動で眠れるようになりたいと思っていた。「それなら太極拳がよろしい」と劉慶洲さんは勧めた。半年後、不眠症は明らかに好転し、医者さえも不思議に思うほどだった。

日中太極拳交流協会の小池勤理事長

 太極拳が身体に良いことが口コミで伝わり、次々に太極拳を学びたいという日本人がやってきた。太極拳クラスは一挙に三クラスになり、受講時間も一日1時間から一日4時間に増えた。最後には、ヨガが主だったクラブが「太極拳学校」と名前を改めた。

 劉慶洲さんは十数年間、東京、埼玉、山形などを転々とし、至るところで太極拳を教え、普及に努めた。現在、日本のあちこちの太極拳教室で活躍している指導員の多くは、彼の教え子である。

 劉慶洲さんの外にも、李天驥さんの甥の李徳印さん、それに葉書勲さん、劉高明さん、崔仲三さん、李士信さんら多数の武術家が日本に来て太極拳を教えた。

ほぼ半世紀ぶりの里帰り

TFAの修練風景

 24式太極拳が作られてから今年で50年。これを記念して、6月23日から7月1日まで、日本のNPO法人・太極拳友好協会(TFA)の113人が北京を訪問した。一行は、24式太極拳の生みの親である李天驥さんが祭られている北京・八宝山の人民公墓に詣でた。

 6月25日には、北京・阜城門の歴代帝王廟で、TFAの団員と北京市民合計300人以上がいっしょに、太極拳の交流演技を行った。ここは1531年に建てられた明朝の歴代皇帝を祭ったところで、300人を超す人々が白い衣装に身を包み、赤い壁や青い瓦を背景に、太極拳の型を披露した。

 参加した比田井絵里さんは「緑の木々に囲まれ、帝王の廟の中で演技するのは、太極拳の境地にぴったり合うと感じました」と言い、鈴木祐子さんは「今回は、2年前に日本で知り合った『拳友』と再会し、新たな友人もできたので、来た甲斐がありました」と言った。

遣唐使の使命感で

日本の生徒に太極拳を真剣に指導する劉慶洲さん(左)

 小池義則さんが李天驥さんら多くの太極拳の名人たちに会ったのは、1981年初めのことだった。その年、北京は異常に寒く、零下14度の寒さの中で、先生と弟子はいっしょに、ホテルの中庭で太極拳を修練した。「超一流の名人から直接指導をいただくことはめったにないことです。私は当時、遣唐使のような使命感を持って、正統な太極拳の型を日本に持ち帰ろうと思ったのです」と回顧する。

 1991年、小池さんは、繁盛していた建築設計の仕事をやめ、日中友好太極拳協会を立ち上げ、夫人とともに太極拳の普及に没頭した。東京と埼玉に太極拳教室を開設した。無料で開く太極拳の講習会の宣伝のため、チラシを撒いたり、戸別訪問をしたりした。

太極扇を使って演技する百余人の日本から来た太極拳愛好者たち

 そうした努力が実って、現在、協会の会員数は1800人以上になり、太極拳教室は90以上になった。さらに中国からコーチを招聘し、「長拳」などの武術クラスを開設している。

 今回の中国訪問について小池さんは「成功だった」と総括。「今年11月23日には、私たちが中国の友人を招待して、東京・代々木公園で『太極拳祭り』を催し、2000人の24式日中合同演技を披露する予定です。これは中国の文化部が主催する『中国文化フェスティバル』の一環の行事で、きっと多くの日本の観衆を魅了するでしょう」と言っている。

 中国の太極拳

TFAの小池義則会長(中央右)は、自ら太極拳を指導している

 太極拳は、17世紀の明朝末から清朝初めころ、河南省温県陳家溝の陳王廷によって創設された拳法の一種。その理論を古代思想の「太極説」(陰陽理論)に求めた。

 腹式呼吸を使い、修練すると汗が背中に流れるが、喘ぐことはない。約80の動作が連結した型があり、ゆっくりした深呼吸にあわせ、緩やかな円形運動を行うところに特徴がある。「意識」「呼吸」「動作」の3者を一つにする協調運動である。

 太極拳には陳式、楊式、呉式、孫式、武式などの流派があるが、楊式と陳式が比較的広く伝えられてきた。

 中国の国家体育運動委員会は1954年から武術の研究を始め、李天驥さんに太極拳の簡略化を依頼した。1956年、「簡単明瞭、学び易く修練し易い」という方針に基づいて、中国初の国家武術教材『24式簡化太極拳』が完成した。

24式簡化太極拳の特徴

  1、伝統的な楊式太極拳から型を選んで縮小した。
 
  2、すべての型に24の動作があり、練習時間は4〜6分。内容は、伝統的な型の3分の1〜4分の1。
 
  3、伝統的な太極拳の主要な技術内容と基本的規格を残している。
 
  4、内容の配列は、昔の順序をやめ、簡単なものから複雑なものへ、易しいものから難しいものへと並べてある。
 
  5、重点を置く動作には、左右対称の修練を増やした。


 
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