特集  世界の屋根に初めて鉄道が走った 
                                                               

困難を極めた鉄道建設

  青蔵鉄道のゴルムドーラサ区間は、高地の寒気と酸素の欠乏の中、高地の永久凍土地帯を走っている。これほど長く、こうした地帯を走る鉄道は、現在、世界でここしかない。この鉄道建設は「有史以来、もっとも困難なプロジェクトであった」と内外のメディアは報じている。

測量は「足」が頼り

建設中の青蔵鉄道(青海省外宣弁公室提供)

 青蔵鉄道の設計技師長の一人、李金城さんは、測量を担当した。2000年、彼はその任務を受け、2001年の着工の前までに全線の測量を完成し、期日どおりに調査結果の測量図を提出しなければならなかった。
 
  青蔵鉄道建設が直面した最大の技術的難問は、高地の凍土の問題だった。青蔵高原は、中・低緯度で海抜が最も高く、面積がもっとも広い永久凍土が分布している地域である。
 
  凍土は冬季には凍結し、温度が下がるにつれて体積が膨張するので、凍土の上に造られる路盤とレールは凍土によって下から突き上げられる。逆に夏が来ると、凍土が融けて体積が縮小し、路盤とレールは沈下してしまう。
 
  凍土の凍結と融解の繰り返しによって、レールには多少、高いところと低いところができ、これが鉄道の安全運行にとって脅威となる。
 
  李金城さんは凍土区間と湿地を重点に、測量隊員を率いて青蔵鉄道建設予定地沿線のすべての山や川を踏破し、冬、春、夏の3回に分けて全線を測量した。測量は、200メートル間隔に一つの温度測定の穴を設け、全線くまなく行われた。
 
  彼と隊員たちは、海抜4500メートルの高地でまる7カ月間、仕事に従事したが、そのうち人跡稀な「無人区」での仕事は3カ月の長きにわたった。
 
  2000年9月、測量は、タングラ山越えのプランを制定する最後の段階に入った。そこは海抜5000メートル以上で、道路から遠く離れた「無人区」だった。測量隊員たちは機材を背負い、一カ所一カ所、測量を重ねた。彼らは酸素を吸いながら、重い足取りで前進した。
 
  ある小さな川を渡るとき、李金城さんは足元が軟らかく、尻もちをついて冷たい水の中に漬かってしまった。急流が彼の身体を打った。みんながあわてて彼を取り囲み、よってたかって彼を水から引っぱり上げた。
 
  李金城さんは喘ぎながら「苦しい。君たちは測量を続けなさい。工期に遅れてはならない」と言った。しかし隊員たちは「あなたをここに置いていったら、死んでしまう。死ななくても、狼に食われてしまうだろう」と言って同意しなかった。ついに、みないっしょに彼を強引に持ち上げて、「無人区」から出た。測量の過程で、こうした九死に一生を得るような事態を、李金城さんと隊員たちは何回も経験した。
 
  測量隊が累積した大量の実測データは、科学研究者たちが凍土の特性を研究し、正確に凍土の変化する状況を把握し、工事の対策を制定するうえで、重要な根拠となった。
 
  研究の結果に基づいて、最終的に凍土という難問を解決する一連の対策が制定された。それは、複雑な地質の区間を避けて通り、不安定な凍土の区間は、「道の代わりに橋を架ける」というものだった。
 
  統計によると、青蔵鉄道は、この「道の代わりの橋」が675あり、その全長は156.7キロに達する。7キロごとに一つの橋がある計算になる。
 
  「道の代わりに橋を架ける」ことによって、凍土の問題が技術的に解決されたばかりではない。独特の高地の風景が形成された。 
 
  青蔵鉄道は正式に運行後、時速100キロで凍土区間を通り抜けた。これは、世界の凍土地帯を走る鉄道の最高時速の記録を40%も更新するものだった。

「高山病死亡ゼロ」を達成

青蔵鉄道の沿線には、防風や砂の固定、凍土の対策など、さまざまな措置が施され、鉄道の安全運行を保証している

 高地の酸素不足は、青蔵鉄道を建設する人たちが直面した大きな問題だった。青蔵鉄道第二期工事(ゴルムド―ラサ間)の1142キロの中で、84%の工事は海抜4000メートル以上の高地で行われた。
 
  ここの大気の酸素量は、海水面のそれの3分の2にも達しない。高山病が知らないうちに襲ってくる。食べられない、眠れない……青蔵鉄道建設者たちは身体の限界に挑戦した。長期間、青蔵高原で働く人たちの挨拶の言葉は、「酸素吸いましたか」であった。
 
  風火山トンネルは、現在、世界でもっとも高い、海抜4900メートルの高地の凍土地帯に造られた。全長1338メートル。ここの自然条件はきわめて過酷で、年間平均気温は零下7度。空気中の酸素量は、平地の半分にも足りない。
 
  中国鉄路総公司(中鉄)20局の青蔵鉄道指揮長の況成明さんは、風火山の工事が始まったばかりのころの体験をこう語る。
 
  「工事現場につくやいなや、鼓膜が脹れて痛み、眩暈がした。夜、テントの中で身体を丸めて、酸素の袋を抱いていても、なお呼吸ができず、息が詰まった。顔は真っ青になり、唇は紫色になって、頭は裂けるように痛んだ。吐き気でほとんど食事ができず、スープしか飲めなかった」
 
  鉄道建設に当たる人々が、酸素不足の中で安全に工事ができるようにするため、工事現場に三カ所の酸素製造ステーションが建設された。一カ所で、毎時20立方メートルの酸素を生産でき、これをトンネル内に送り込んだ。これで工事現場の酸素量は、ここより1000メートル下の量とほぼ同じになった。
 
  また、トンネル内に酸素車を据え付け、作業員がいつでも酸素を吸えるようにした。こうして風火山トンネル工事は、作業員の酸素不足という難題を解決したばかりでなく、世界の高地における酸素製造技術の空白を埋めた。
 
  このほか、沿線に多くの衛生ステーションが設立された。施工期間中、毎年、500人を超す医療関係者が勤務し、累計でのべ2000人が工事現場に赴いた。作業員百人に対して、医療関係者は1.5から1.8人に達した。
 
  こうして青蔵鉄道の建設は、「高山病による死亡ゼロ」を達成したのである。

先行した環境保護

車窓から見えたココシリの広野のチベットガゼル

 青蔵高原は、中国では生態環境のもっとも脆弱な地区の一つである。動植物の種類は少なく、生長する期間は短い。生物の数も少なく、食物連鎖は単純である。このため、青蔵高原の生態は、ひとたび破壊されれば、再生・回復することができない。
 
  ここに鉄道を建設すれば、生態環境を破壊するのではないか、中国と東南アジアの自然や気候に、回復不可能な悪い結果を作り出さないか、ということに世界の目は注がれた。
 
  工事がまだ始まらないうちに、環境保護が先行した。
 
  それは@青蔵鉄道建設には、環境保護のために、総投資額の4.6%を占める15億4000万元の投資を実行するA野生動物の移動通路を初めて建設するB高地における植被の移植を初めて行うC工事には初めて環境保護の監督管理を導入し、第三者に委託して、青蔵鉄道全線で環境保護の監督・コントロールを行う――というものだった。このような環境保護の措置は、中国の鉄道建設史上、かつてなかった。
 
  青蔵鉄道は11の自然保護区を通る。ここはチベットカモシカ、チベットノロバ、野生のヤクなど希少動物の楽園である。毎年、春と夏の繁殖期には、チベットカモシカは集団で南から北へと移動し、出産する。そして子どもを連れて戻ってくる。野生動物の自由な移動を確保するため、青蔵鉄道には、沿線に33カ所の動物の通路が設けられた。
 
  通路が造られる前、科学者たちは、動物たちが自ら進んでここを通るかどうかをめぐって論争を続けた。多くの学者は、青蔵高原の野生動物は非常に敏感なので、移動する沿線の景色が変化していることを発見すれば、通路を通らないだろう、また、列車も野生動物を怖がらせるだろう、と考えた。
 
  鉄道部門は、動物の通路の上にビデオカメラを設置し、観察した。その結果、一年目(2003年)は確かに影響が出た。当時、一部のチベットカモシカはやってきたが、遠くまで行こうとせず、引き返してしまったり、通路の前を徘徊したりした。しかし2年目は、大部分のチベットカモシカがここを通って行った。3年目になると、基本的になんら影響が見られなくなった。
 
  ココシリ管理局のツァイガ局長は「現在、チベットカモシカと青蔵鉄道は互いに邪魔をし合うということはありません。2006年5月中旬以来、すでに千頭を超すチベットカモシカが、安全、順調に青蔵鉄道をくぐってココシリ保護区の奥にやってきて子を産んでいます」と言っている。
 
  列車が草原地帯を走るとき、線路の路盤の両側は一面の緑に覆われていて、周囲の環境と渾然一体となり、工事で残されたむき出しの土の穴などは見られない。施工前、作業員たちはまず、生えている草を土ごと四角に切り取って、フォークリフトで移植区に運び、専門の人がこれを保護した。そして路盤が完成した後、草を土ごと路盤の脇の斜面に運び、移植した。統計では、沿線の草の移植の費用だけで2億元以上かかり、移植された草の面積は数千万平方メートルに達した。

 高地の湿地は、「高地の腎臓」と言われる。2003年、中鉄13局は、海抜4700メートルのナッチュ県に駅を建設したが、駅は一部の湿地の上に建てる必要があった。そこで13局は、110元を投資して、植生のまばらな土地にこの湿地と同じくらいの窪地を掘り、湿地の水をここに引き込んだ。そして駅の用地になる土地の草をここに移植した。今では、8万平方メートルの人造湿地となり、水草が繁茂し、周囲の自然の湿地と見分けがつかない。これは世界で最初の、高地寒冷地帯における人造湿地の成功例である。

資 料
 青蔵鉄道建設の歩み

  1956年1月 蘭州からラサまでの2000余キロの路線に対し、全面的な測量と設計を開始。

  1958年9月 西寧―ゴルムド区間で、西寧と関角トンネルでそれぞれ着工。ゴルムド―ラサ区間は1957年末、路線選定計画案が可決され、1960年にはすでに全線の初歩的な設計と部分的な測量による位置の決定、部分的な施工設計が完成した。

  1961年 青蔵鉄道建設は暫時停止。
 
  1973年7月 西寧―ゴルムド区間のハルギュ―ゴルムド間652キロの建設復活。
 
  1974年3月 西寧―ゴルムド区間の建設復活。
 
  1975年3月 ゴルムド―ラサ区間の測量、設計復活。
 
  1978年8月 ゴルムド―ラサ区間の工事、暫時停止。
 
  1979年9月 西寧―ゴルムド区間のレール敷設完成。
 
  1984年5月1日 正式開通。
 
  2001年2月7日 ゴルムド―ラサ区間の建設、再び全面開始。
 
  2001年6月29日 ゴルムド南峠駅とラサ駅、同時着工。
 
  2006年7月1日 ゴルムド―ラサ区間、列車の正式運行。青蔵鉄道全線開通。

 


 
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