【あの人 あの頃 あの話】(23)
北京放送元副編集長 李順然

かけがえのない私の宝石箱

  「一生懸命」という言葉は、昔は「一所懸命」だったそうだ。一カ所に命を懸けて働くというわけだろう。昨今では、あの職場からこの職場へと渡り歩くのが、「才能」の見せ所みたいな風潮もあるが……。

 これといった才能のない私は、文字通り「一所懸命」、半世紀も一つの職場のお世話になってきた。北京放送局日本語部である。

 指折り数えてみると、この職場で、この半世紀に、名前を覚えている人だけでも200人ほどの人といっしょに仕事をしたことになる。中国人もいれば日本人もいる。南は広東省から北は黒竜江省まで、西は新疆ウイグル自治区から東は上海市まで、中国各地の人がいる。もう定年退職したが、台湾省の人もかなりいる。満州族、朝鮮族、蒙古族、シェ族といった少数民族の人もいる。

 こんなわけで、北京放送局日本語部の新年などの集いは、中国の歌もあれば日本の踊りもあり、中国各地の民謡もあれば少数民族の踊りもありで賑やかだった。フィナーレは、全員が輪になっておどる「阿波踊り」。この素人の「阿波踊り」が有名になって、中国のテレビの全国ネットで紹介されたこともあった。

「阿波踊り」を踊る北京放送日本語部の中国人スタッフ

 北京放送局日本語部ファミリーには、偉くなった人もいる。筆頭は、中国の前外交部長(外相)で、国務委員の唐家セン氏だろう。外交部副部長(外務次官)や駐日大使を歴任した徐敦信氏も、北京放送局日本語部ファミリーの一員である。

 北京大学日本語学科卒業の両氏は、もともと外交部(外務省)の幹部だったが、中日関係が正常化されていなかった1960年代初期の外交部では、対日関係の仕事はあまり忙しくなく、そうかといって日本に留学する道もなかった。そこで、日本人と日本から帰ってきた華僑が多く、オフィスでは日本語が「公用語」となっている北京放送局日本語部に「国内留学」してきたのだ。唐氏は主に音楽・文芸番組を、徐氏は主にニュース・論評番組を担当していたように記憶している。

 例の「文化大革命」では、ご多分にもれず、北京放送局日本語部スタッフも三つの造反派に分かれたが、仕事となると一致団結。「文革」の後期には「三派連合」で番組の改善と取り組み、リスナーに喜ばれる多くの好番組をスタートさせた。北京放送局日本語部が全国より一足先に「文化大革命」にピリオドを打った感じだった。

 数年前には、日本や米国、香港に定住した元日本語部スタッフも里帰りして、北京に日本語部ファミリーが大集合した。そして、清王朝のサマーパレスのあった河北省の承徳まで一泊旅行したが、小学生の遠足、中学生の修学旅行のように楽しいものだった。

 振り返ってみると、北京放送局日本語部ファミリーは、1人1人がそれぞれ輝く宝石のようなものを持っていた。年を取れば取るほど、こうした想いを強くしている。ひとことで言えばみんながみんな「和の心」をとても大切にしていたのだ。顔や姿は百人百様、千差万別だったが、その根底には「和の心」があったように思う。私の人生にとって、北京放送局日本語部は色とりどりの宝石の入ったかけがえのない宝石箱なのである。


 
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