新たな発見が新たな謎を呼ぶ

先輩の説を覆す

安家瑶さんが含元殿遺跡で発見した石柱の礎石(安家瑶さん提供)

  59歳になる安家瑶女史は現在、中国古跡遺跡保護協会の副主席である。1990年、彼女は馬得志さんを引き継ぎ、唐の長安城の考古隊長になった。安さんは「馬先生が残したしっかりした基礎があってはじめて、私は、彼が確認した遺跡の上で、そこを深く掘り下げて発掘することができたのです」と言っている。

 しかし、安さんは馬さんに感謝すると同時に、心の底に一抹の悲しさを秘している。それは、彼女の深く掘り下げた発掘によって、馬さんの研究の結論の一部が覆されたからである。

 1995年、安さんは、含元殿前の広場を大規模に発掘し、これによって含元殿に登る「竜尾道」を2本、発見した。それは含元殿の東西の両側にあった。

 それ以前に、馬さんもボーリング調査でこの道を発見していたが、彼は皇帝が政務を執る含元殿に登る通路が2本しかないはずがないと考えた。そこで後世の宮殿の様式に基づいて、この2本の「竜尾道」の中間にさらに一本の皇帝専用の「御道」の「竜尾道」があると推測した。馬さんのこの推論は、国内外の考古学界から認められ、含元殿には3本の「竜尾道」があると、ずっと信じられてきた。

 しかし、安さんは、自らの発掘を根拠に考証し、この観点を否定した。彼女はこのことを、北京の馬さんに直接告げた。70歳を超していた馬さんは最初、ほとんど定説になっているこの説が誤りであるとはまったく信じなかった。しかし、自ら西安に出向き、安さんの発掘現場を仔細に調べた後、ついに彼女の結論が正しいと認めた。

 それから数年後、馬さんは振り返ってこう述べた。「当時、私は確かに悲しかった。長年の辛苦の結果が誤りになるとは、まったく信じられなかった。しかし、考古学者の道義と職責から考えれば、事実は常に第一でなければならない。安さんが歴史の真相を発見できたことを、私はうれしく思う」

唐の長安城と西安市の位置関係を示す模型。明かりが当たっている部分が唐の長安城の遺跡

北京の天壇と違う唐の天壇

 西安市内の南にある陝西師範大学のキャンパスに、円形の大きな土の丘がある。1999年、安さんはここを調査し、この高さ8メートルの土の丘が4四層に分かれており、周囲から頂上に通じる12本の階段は、まるで時計の文字盤のように並んでいることを発見した。もし頂上に一本の測量竿を挿せば、まるで古代の日時計のように、時間を表すことができる。文献と照らし合わせた結果、安さんはこの珍しい構造物は、唐代に天子が天を祭った天壇の圜丘(円い丘)であると断定した。

 唐代では、皇帝が毎年、ここに来て天を祭り、気候が順調で、国が連綿と栄えるよう祈った。天を祭るときには、土を突き固めて造られた圜丘の表面に石灰の粉が真新しく塗られ、皇帝は南の正面の階段から圜丘の頂上の層に登り、香を焚いて礼を行った。随行の大臣は官位の高低に照らして、それぞれの階段の上に立った。この圜丘は、現在までに中国で発見されているもっとも古い皇室の天壇である。

 唐代の圜丘が再現されたことは、安さんを喜ばせたが、困惑をももたらした。中国の古代人の思想では、天は陽を表し、地は陰を表し、奇数は陽数、偶数を陰数と称した。しかし、天を祭る圜丘はどうして四層からなっているのか。どうして奇数の層ではないのか。

 北京の天壇にある圜丘は、東西南北の四方向に4本の階段が造られていて、明確な空間の概念を含んでいる。どうして唐代の圜丘は、時間の概念を彷彿させる12本の階段を造ったのか。唐代の人と後世の人とは、天に対する理解にどのような違いがあったのか。これは、今日でもなお検討すべき、興味ある問題である。

発展が地下の長安を壊す

 安さんが唐の長安城の発掘に奮闘して二十数年。その中には、成功の喜びもある反面、深い悲しみもあった。西明寺遺跡の破壊は、彼女の心の中で、永遠の痛みとなっている。

 西明寺は、唐代の長安城内にあった四大名刹の一つである。唐の僧、玄奘は、インドから経典を持ち帰ってから、ここで経典を翻訳し、それを講じた。日本の空海和尚と円仁和尚もここで修行したことがある。

 この寺の敷地面積は1万4000平方メートルあり、大量の仏典を収蔵する唐代の仏教の大図書館であった。しかし、唐の武宗のとき廃仏毀釈にあい、破壊されてしまった。

発掘された、唐代の工匠の指の跡が残っているレンガ

 1985年、安さんらは、西明寺を発掘したとき、室内に掘られた古井戸を探し当てた。井戸の口径は1メートル近くあり、その中から十数センチの金銅仏が200体以上、出土した。さらに和尚が入浴したという内容の石刻も発見された。

 このことから安さんらは、そこが西明寺の和尚の浴室であり、井戸の中の仏像は、「武宗の廃仏」のときに、井戸に投げ込まれたものであろうと推測した。

 さらに面白いことには、井戸の中から一組の石の茶臼が見つかったことである。唐代の人々はおそらく今日の日本のように、茶を飲んでいたのだろう。茶葉を臼で挽いて粉末にして、それに湯を注ぐか、煮るかしたのであろう。

 安さんたちがこうした発見に夢中になっているときに、西安市の電力部門はここに変電所を建設しようとしていた。馬さんや安さんらは断固反対したが、激増する西安の電力需要を満たすため、変電所は最終的に建設された。後に、西安市政府は、唐代の朱雀大街を復元するため、昔の朱雀大街の上に住んでいた住民の住宅を壊し、移転先の住宅を西明寺の遺跡の上に建設した。これによって西明寺の遺跡は、徹底的に破壊されたのである。

 今日、このことを思い起こすたびに、安さんの気持ちは穏やかではない。「当時、私たちは腹が立ったが、どうしようもありませんでした。唐代末期の戦火は地上の長安を壊しましたが、現代の発展はまたも地下の長安を破壊したのです」と彼女は言っている。


 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。