【慈覚大師円仁の足跡を尋ねて】 24回フォトエッセイA
阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳
      揚州滞在
     
 


能修和尚(左) 大明寺現住職、能修和尚は国際交流を奨励し、仏教研究センターを寺院内に設立しようと精力的に計画しておられる。その暖かな物腰と魅力的なお人柄に接して、私は、かつての高僧たちの発するオーラもこうであったろうと感じた。
唐石塔(右) 838年建造のこの石塔の後ろには樹齢1200年の銀杏の老樹が立っている。私は、いまもこうして唐代遺物が市の中心部に保存されているのを見て嬉しかった。円仁は、近くの揚州市場で砂金を中国銭に交換するにあたり、持参の砂金が秤に掛けられるのを眺め、交換比率は、砂金2両=中国銭9貫400文、これを用いて購入した白絹2疋は銭2貫、僧侶の衣は銭1貫700文であったと記録している。

 円仁と遣唐大使一行は、838年旧暦7月25日ようやく揚州にたどり着いた。それはゆっくりと3週間かけて、あるときは休み、あるときは、当時淮南道の地方政庁であったこの大都市と海とをつなぐ入江や運河を探りながらの行程であった。当時、日本の船頭たちの間には「揚州に到ればすべてよし」という言葉が流布していた。遣唐使一行に関するかぎり全くその通りで、彼らは政府レベルでも各地の寺院でも暖かくもてなされた。

 円仁は寸暇を惜しんで中国仏教を学ぼうとしていた。彼はいくつかの寺で講義を聞き、写経している。「揚府に40余寺有り」と円仁は書いている。さらにこれらの寺が輪番制で仏法供養の食事会を催すさまを記している。また僧侶たちが、写経し、仏画を模写し、暦を買い、或いは新年を祝う様子などをこと細かに語っている。「日暮れ時、僧籍にある者も世俗の者もいっせいに紙銭を燃やし、夜半に一般家庭では爆竹を鳴らして爆音とともに『万歳』と叫ぶ。通りの店では、あらゆる種類の食べ物を、いつになく豊かに並べて売っている」

大運河をゆく運搬船の列 円仁は、何隻もの運搬船がひとつなぎに連なって長い列をなし、水牛に曳かれて運河を上る光景に、強い印象を受けた。古港であった場所に立ってみると、いまも同様の輸送船団が、水牛に代わってモーターの力で、大運河のこの地域を往復しているのが見えた。円仁は、唐に留まる許可が得られなかったため、839年旧暦2月21日、揚州府港から小舟で出発する遣唐使一行に、気に添わぬまま同行した。一行は運河に沿って北に進み、山東半島から日本に向かう船に乗り込もうというのであった。

 円仁はさらに、寺院の業務の一つに「選米」があると述べている。良い米と割れたクズ米とを選別し、最上米は政府に献上するというのである。別の日、明け方に彗星を目撃し、中国人が不吉な予兆と噂しているのを耳にしたと記録している。

 彼はこの国際都市に驚嘆もしている。通詞として一行に加わっていた新羅人の他に、この都市にはペルシャ人やアラブ人もいたのである。今日の揚州は、きちんとした都市計画を施行している。運河網を浄化し、旧市街では建物の高さを制限している。しかし、円仁が体験した往年の国際都市ではない。

大明寺の栖霊塔(左) 私は、当時の栖霊塔が市を鳥瞰するのに最適の場所であることを発見した。最上層から暑い夏の午後の靄にかすむ唐代城壁遺跡が一望できたのである。遺跡からは、当時の揚州府が地方首都として、或いは交通の要地としていかに規模が大きく重要であったかが見てとれた。
大明寺の鑑真和尚像(右) 753年、果敢に海を渡って来日した高名な中国僧・鑑真和尚が、かつて揚州の大明寺住職であったことはよく知られていた。円仁は開元寺「東塔院」にあった「渡海和尚」の画像を見ている。鑑真和尚彫像は、いまもその栄誉を讃えて本堂内に祀られている。この写真には、2006年3月に開かれた私の円仁写真展開会式に向けて、鑑真堂内でテープの準備をする僧たちが写っている。鑑真ゆかりの寺で、円仁の巡礼行にまつわる写真展を開くのは、私にとって特別に意味のある出来事であった。ものごとは廻り廻ってもとに戻ってくるようだ。

 円仁は、自ら所属する天台宗の総本山・天台山で学ぶ許可を得たいと7カ月余も揚州に留まった。しかし、請願はいつも却下された。彼の地位はすでに学問を修めた「還学僧」であり、今日でいう「学生ビザ」を取るには高位すぎる、というのが理由であった。彼は、融通の利かない官僚の形式主義にがんじがらめになっていた。不運なことに、揚州都督は円仁に特恵待遇を与えようとしなかった。勅許無しに移動することはできない。円仁は諦めて、すでに長安への公式訪問を終えた遣唐使一行と帰国することとした。

慈覚大師円仁
 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。

 円仁は794年栃木県壬生に生まれ、44歳で中国に渡った。中国では一日平均40キロを踏破し、現在の江蘇、山東、河北、山西、陝西、安徽各省を経巡った。大師について学び、その知識を日本に持ち帰ろうと決意。文化の境界を超えて、あらゆる階層の人々と親しく交わり、人々もまた円仁の学識と誠実さを敬った。

 私たちはその著作を通して、日本仏教界に偉大な影響を与えた人物の不屈の精神に迫ることができる。彼は後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた

     


阿南・ヴァージニア・史代

  米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。

 

 
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