溶けた鉄がつくる勇壮な火花の祭り
魯忠民=文・写真

 北京から北に向かい、八達嶺の万里の長城を越え、さらに西へ約200キロ、切り紙の里として名高い河北省蔚県に着く。さらに蔚県の県城から西へ15キロ行くと、「中国歴史文化名鎮」の一つに指定されている暖泉鎮がある。

 この数年、このひなびた鎮が、にわかに脚光を浴び、内外の観光客がやってくるようになった。古い町並みがよく保存されているうえ、農暦(旧暦)の正月14日の夜に行われる勇壮な火花の祭りが、次第に世に知られるようになってきたためである。


鍛冶屋たちが「打樹花」に使う鉄を溶かしている 光の雨の中、「打樹花」をする大男はまるで、銃弾が雨のようにふり注ぐ中に立つ勇士のようだ


元宵節に賑わう温泉の鎮

 暖泉鎮は、鎮の真ん中に温泉の源があるのでこの名がついた。面積は57平方キロ。元(1271〜1368年)の時代から鎮が造られ始め、明清時代(1368〜1911年)には「三堡、六巷、十八荘」が形成された。「堡」は砦、「巷」は横町、「荘」は村落である。

元宵節の期間中、暖泉鎮は民衆の娯楽演芸で賑わう
 「三堡」とは北官堡、西古堡、中小堡のことで、三つとも独立した小さな「堡」である。「六巷」は三つの「堡」の中にある商業街区で、「十八荘」は「堡」を取り巻く18の村々のことだ。

 農暦の正月15日に祝われる元宵節の日は、灯ろうが高くつるされ、祭りのにぎやかな雰囲気を醸し出す。鎮の中心にある広場は、正月用品や食べ物を売る屋台がたくさん集まり、人で身動きがとれないほどになる。突然、銅鑼や太鼓、チャルメラの音がわき起こり、村のヤンコ踊りの隊列が次から次へとやってきて、空いた場所を見つけてそこを舞台にし、ヤンコ踊りやロバ乗り踊り(竹や黒い紙で造ったロバの模型を腰に結びつけて踊る)、船漕ぎ踊り(竹と布で造った船の模型を腰に結びつけて、歌いながら練り歩く)、竜灯舞などの民間遊芸の出し物を上演する。元宵節の大衆娯楽演芸の賑わいは、中国の民間のカーニバルと呼ばれている。 明清の建築が残る西古堡  暖泉の西古堡は、面積は広くないが、古い「堡と寺廟と芝居の舞台と民家」が一カ所に集まっていて、昔の蔚県にあった800の「堡」の中で、保存がもっともよい。近年、多くの学者や画家、観光客がここにやってきたし、中国映画の『鬼が来た』(姜文監督)など十数の劇映画やテレビドラマがここで撮影された。

暖泉鎮の真ん中に元代に建てられた書院である涼亭と魁星楼が残っている
 西古堡は、土をつき固めた城壁で周囲を囲まれ、南北2つの門がはるかに向かい合っている。「堡」の中には一筋の灰色の石を敷き詰めた南北に伸びるメーンストリートがあり、東西にはおのおの小さな横町が3本あって、「国」という字の形をしている。

 2つの門にはともに整った「甕城」(城門の外に突き出した防護用の小城壁)があり、南の「甕城」の上には三義廟、馬神廟、観音殿、魁星楼が、地上には古い舞台と地蔵寺が建てられている。地蔵寺には、閻魔十王の泥人形の神像と壁画が祭られている。

暖泉鎮は温泉があるのでその名がついた。冬になっても、池の辺には毎日、多くの人が集まって洗濯をする
 西古堡の民家の表門はみな、大きく開け放たれていて、誰でも自由に屋敷の庭の中に入って行き、明清時代の四合院の建築の素晴らしさを鑑賞し、その家の所有者の暮らしぶりを理解することができる。母屋の脇には目立たない小さな「門楼」(門の上に建てた櫓)があり、その上に「小自在」という文字が彫られたり書かれたりしているのを見つけることができる。「自在」とは自由自在のことである。

 櫓の小さな門を開けると、さらに驚くことには、狭い廊下を通ってまた一つの四合院が目の前に現れる。ガイドの説明によると、西古堡の中には今も、明清時代の風格を持つ民家が180カ所も保存され、いくつもの住宅が連なった比較的大きな邸宅は5カ所ある。

元宵節の期間中、暖泉鎮は祭りの雰囲気に包まれる
 張家大院は、現存するもっとも立派な邸宅で、9つの住宅からなっているので「九連環」といわれる。それは明代に建てられたもので、当時のこの家の主人がある王族の娘を娶ったので、こんな立派な邸宅と「甕城」、4つの寺廟があるのだと言われている。

 しかし、西古堡の中を歩くと、美しいレンガ彫刻と壊れた反り屋根が作り出す不調和な情景によく出くわす。これらを見終わって心から美しいと感嘆するが、それに続けて「修理しなくては」とため息が出る。長い間、修理されず、保護が足りなかった結果、多くの古民家が倒壊や建て替えの危機に直面している。「全国歴史文化名鎮」に選ばれた後、暖泉鎮は再生の転機を迎えている。 火花の飛び散る「打樹花」  農暦の正月、暖泉鎮のもっとも華やかな出し物は、北官堡で一年に一度行われる「打樹花」の行事であるといえる。

 夜の帳の中に立つ北官堡の門は、あたかも古城の城門のようであり、飾り提灯が10メートルの、土を突き固めてレンガで覆った城壁と屋根の反り返った門楼の輪郭を浮かび上がらせる。

「放河灯(灯ろう流し)」は各地によくある習俗で、水中の鬼を済度する仏教の教えに源を発している。一般に7月15日に行われることが多いが、暖泉鎮では農暦の正月14日に行われる。温泉があるためだろう
 堡門の前の広場には、鉄を溶かす大きな炉があって、火がぼうぼうと燃えている。いままさに、千斤(500キロ)以上の銅や鉄の屑が溶かされている。近くの農民や遠くからわざわざやって来た観光客がつめかけ、もはや身動きもできない。

 数人の大男たちが歩いてきた。彼らは頭に麦わら帽子を被り、羊の毛皮の裏が付いた服を着て、腰に荒縄を巻いて、威風堂々、あたかも古代の勇者のようだ。

北官堡の北側の城壁の上から見た堡門
 炉の口を開いて、まばゆいばかりの溶けた鉄を、小さな鉄の鍋の中に注ぎ込む。鍋がいっぱいになると、2人の大男がそれを急いで城門の下に運ぶ。

 また彼らは水桶を手に取る。水の中には十数本の長柄の柳で作った柄杓が浸けられている。柳の木は水辺に生えるので、本来、火に強い性質があるといわれる。使用する前、柄杓は一昼夜、水の中に浸けておいたものだ。柳の柄杓でドロドロに溶けた鉄を汲むのは、鉄が柄杓の中でまるで油のようにつるつると滑り、燃えたりないからだ。そして、力をいれずに遠く、高く、溶けた鉄を投げることができるのである。

 ふと見ると、一人の大男が落ち着き払って前に進み出て、桶の中から柳の柄杓を手にとり、鉄の鍋の前に行って、腰をかがめて溶けた鉄をひと汲みし、そして腰と腕を振って、柄杓にいっぱい入った溶けた鉄を、城壁に向けて投げつけた。

 その瞬間、ドロドロの鉄は金色の弧を描いて飛び、高温の鉄が冷たい城壁に当たるとたちまち鉄の火花が四方にはね跳んだ。そして光の雨が天からザーッと降るかのように見え、そして瞬時にまるで天を覆う幻想の大木のように見えた。なるほど、当地の人々がこれを「打樹花」と呼ぶのもうなずける。このときの光の輝きで、堡門の全体が、赤く、明るく照らし出され、観衆はみな、思わず驚きの声を発した。


 大男は、柄杓に溶けた鉄を汲んでは投げ、また汲んでは投げて「打樹花」を続けた。鍋が空になると、彼は引き下がり、別の大男が登場し、また溶けた鉄を入れた鍋が運ばれてくる。こうして3人の大男が順繰りに「打樹花」を行う。

細かい彫刻が素晴らしい古民家の「影壁」(表門を入った所にある目隠しの塀)のレンガの彫刻
 彼らはそれぞれ経験も腕前も異なる。やり方も違う。だから飛び散る鉄の火花も同じではない。その1人、56歳になる王富さんはこう言う。

 「ドロドロに溶けた鉄をぶっかけるにはまず体力がいる。柄杓一杯の溶けた鉄の重さは7斤(3.5キロ)もある。姿勢を正し、手でしっかり柄杓を握り、足に力を入れてしっかりと立ち、腕を伸ばして振り回さなければならない。こうして溶けた鉄を正確に、城門の上に放り投げれば、きれいな火花ができる。ただし、特に注意しなければならないのは、万一、うっかりして1300度の溶けた鉄を人ごみに撒いてしまったら、その結果は考えるだけで恐ろしい。でも数十年、こんな事故は起こったことがないよ」

今年61歳の鍛冶屋の薛さん。代々、鋳物業を営み、「打樹花」に使う鉄はみな彼の工房で作られたものだ
 暖泉一帯は昔から、農耕民族と草原の民族が集まるところで、旅人の行き来も頻繁だったし、戦争も多かった。だから、この地には、犁の刃を造ったり、刀や槍、馬蹄鉄を打ったりする鋳物工房がことのほか多かった。鋳型に溶けた鉄を注ぐとき、溶けた鉄が地面に落ちて火花が飛び散るのがよくある。

 新年や祝祭日を迎えるとき、金持ちは花火をあげることができるが、貧乏な鍛冶屋たちは、炉の中に残った溶けた鉄を壁にひっかけ、色とりどりの鮮やかな色を出して、人々を喜ばせた。そしてこれがだんだんに「打樹花」の習俗になったといわれる。

 しかし、「打樹花」にはお金がかかる。金持ちが主宰してはじめてこの行事を行うことができる。


 「打樹花」がいつ始まったかは、よくわからない。4、500年前とも、千年以上前とも言われる。昔は、農暦の正月15日の前後、3日間、「打樹花」が行われ、火の神や炉を祭る儀式を挙行しなければならなかったが、現在は普通、農暦の1月14日の夜に一回だけ、行われる。

 「打樹花」は何のために行われるのか、と鍛冶屋さんに聞いてみると、「当然、吉祥と五穀豊穣を祈るためだが、今の人たちは、見て楽しみ、にぎやかなことが好きで、楽しいみたいと思っているだけだ」との答えが返ってきた。
西古堡の中を南北に走るメーンストリート 地蔵寺は清代の村民、董氏が建てたもので、閻魔十王が10人の貧しい男に姿を変えて、董氏に設計図を渡し、これが完成するとここに帰ってきたという言い伝えがある 昔は立派だった四合院だが、今はその多くが壊れてしまった 西古堡の「甕城」の中にある古い舞台(左)と地蔵寺(正面)

 
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