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北京の味 日本人の舌

前門の全聚徳の店内(写真・劉世昭)
  北京を訪れた日本人に「なにが美味しかったか」と聞くと、十中八九、「北京ダック」と答える。

 作家で、北京を舞台にした『蒼穹の昴』などの作者である浅田次郎氏は、北京前門の全聚徳の「北京ダック」を世界一うまい食べものだとし、「1年に1度のこの絶世の美味は、理屈ぬきの幸福をわたしにもたらしてくれる」と書いている。

 ところで、昨今の北京では街のあちこちに北京ダックを食べさせる店が出現し、浅田氏のいう前門の全聚徳も、王府井や和平門などに分店を出しているし、ホテルでも北京ダックを食べさせてくれるところもある。だが、浅田氏は清朝の同治3年(1864年)に創業した全聚徳直系の前門の全聚徳にいたくこだわっている。なぜだろう。

 浅田氏はこう書いている。「この店は、さほど敷居の高い感じはない、勿体ぶったところもない。いかにも大衆的な名物料理の店……」

 そうなのだ。前門の全聚徳には有名料理の老舗だという偉ぶった気どりがない。店に入ると、料理屋独特のざわめきがBGMのように流れ、人なつっこく、すんなりと迎えてくれる。有名な料理店に入ったのだという緊張感がほぐれるのだ。ウェーター、ウェートレスの応対も庶民のしぐさ、庶民の言葉なのもうれしい。前門の全聚徳の北京ダックが美味しい秘訣は、こんなところにあるのかも知れない。ここにはホテルのなかの宮殿のような豪華なお店では、絶対に味わえない庶民の心、庶民の味があるのだ。

 ところで、前門の全聚徳の一帯では、このあたりを老舗が軒を連ねる歩行者天国にする工事がすすめられている。この工事で取り壊され、移転する店もあるそうだが、全聚徳はもとの場所で営業を続けるとのこと、安心した。この場所でがんばり、敷居の低い、庶民の心と味を忘れない店として、一代一代、バトンタッチしていってもらいたいものだ。

街角のお粥屋さん
 北京の庶民の味といえば、食に関する随筆も多く、海外旅行ではうまいものをさがして歩くという作家の阿川弘之氏の「北京のうまいもの」は、さらに庶民的である。阿川氏は「北京のうまいもの」として、朝の街頭の屋台の揚げたての「油条」を挙げ、「油条は香港でも、東京、横浜でも手に入るけど、こんなに芳しい、ホカホカ、シャリシャリには、滅多に出逢えない。短い北京滞在中に口にした食べもののなかでは絶品である」と書いている。「ホカホカ、シャリシャリ」、読んでいるだけでよだれが垂れてきそうだ。

 北京市民のこの朝餉の絶品、『漢日詞典』(吉林人民出版社)をひいてみると、「油条」の項は「小麦粉をねって細長く切り、油で揚げた食品」とあり、味も素っ気もない十数文字でかたづけられていた。

 北京の庶民の朝餉といえば、北京にかぎらず中国のあちこちでも共通のものだが、「お粥と漬もの」がある。日本の財界総理といわれる経団連の会長をしていた稲山嘉寛氏は、北京のうまいものとして、北京飯店の朝食の「お粥と漬もの」を挙げ、「お粥と漬ものが待っていてくれる毎朝が楽しみだった」と書いている。

 中国では、お粥は「病人食」ではない。立派な料理なのである。北京の街角でも「粥」という大きな看板を掛けたお粥屋さんを見かける。お粥と漬ものの朝食を好む中国人も多い。中国文壇の大御所的存在の王蒙氏(元文化部部長)は、外国の旅行から北京に帰ってきていちばん食べたいのは「わが家の朝食のお粥と漬ものだ」と書いている。

 ここまで書いてきて、ふと頭に浮かんだのは、若き日、北京でいっしょに暮らし、その後澳門に移り住んだ友人の兪長安君の言葉だ。曰く、「料理屋は、豪華になり、敷居が高くなればなるほど、味の方はいい加減になる。ご先祖さまが残してくれた庶民の心を、庶民の味を、大切にしない。ルーツを忘れた、恩知らずの根無し草だよ」

 澳門住まいの彼は、ときどきひょっこりと北京に現れる。そして、すぐに森に放された猟犬のように、そのするどい「嗅覚」で北京のうまいものを見つけて、かつての仲間たちに声をかけてくれる。いずれも、テーブルの数がせいぜい5つ、6つという敷居の低い小さな店だが、味は極上、阿川氏のいう絶品である。ちなみに、兪長安君は日本の長崎生まれ。生まれ故郷の日本料理や住みついた澳門のポルトガル料理などにも一家言のある国際派グルメだ。

 彼の料理屋論、かなり的を射たものだと思う。現にこのエッセイで触れた日本人の舌が感じた北京のうまいもの、阿川弘之氏の「油条」にしろ、稲山嘉寛氏の「北京飯店の朝食のお粥と漬もの」にしろ、浅田次郎氏の「前門の全聚徳の北京ダック」にしろ、いずれも北京の庶民の味そのものであり、その心に、その味に、こだわり続けているものばかりである。引き続き、ご先祖さまが残してくれた庶民の心、庶民の味を忘れないで欲しいものだ。


 
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