【慈覚大師円仁の足跡を尋ねて】 24回フォトエッセイD
阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳
赤山の新羅人による庇護と助言
     
 

赤山(山東省石島)左) 赤山は円仁が記しているとおり峻険である。法華院は赤山山麓に心地よく抱かれている。ここに8カ月逗留した円仁は、その間に般若経を誦経する新羅僧たちに加わって新羅式法要を学んだ。お経によってサンスクリットで唱えたり中国語で唱えたりするが、その音調はすべて新羅風である、と円仁は書いている。彼はまた、仏教教理に関する問答も参観した。法華院が昔どおりに再建されているのは、私にとって嬉しい驚きであった。寺院の建物はすべて鮮やかな朱塗りである。私は、ここに住む僧侶や尼僧たちに会ったが、この寺が新羅遺産を受け継いでいること、円仁が長く院内に逗留したことなどを、皆よく知っていた。
石島の村の女性(右) 私は、寺の裏庭で鉢植えの植物を育てて売っている武さんに、ここの歴史について何かご存知ですかと聞いてみた。彼女は、ここは韓国と日本に深い縁がありましたと答え、さらに毎年たくさんの韓国人と日本人観光客が訪れますよと言った。彼女は、近くの丘の上に立つ張宝高を記念するコンクリート製の高い碑を指さした。

 山東半島の海岸線に沿って航行中、円仁と遣唐使一行は、今航海中最も恐ろしい体験をする。二昼夜にわたって荒れ狂う嵐に閉じ込められ、難を避ける入江すらなかったのである。このときの人々の恐怖を、円仁は次のように記している。「全員うち揃って誓願を発し、お祓いをして船上の雷神に祈った。さらに船上に祀られた住吉大神を崇め奉り、また八幡大神等日本の神々、海龍王、並びに当地登州の山地島嶼の神々にも誓願をたてた」

 一同と共に危難を切り抜けた円仁は、神々への感謝を決して忘れず、帰国後、比叡山上に社殿を建てて、山東半島地域の神々に捧げた。

 船団は839年旧暦6月7日、ようやく石島湾に入って行った。湾近くに赤山があり、円仁の記述によると、「いかめしい岩石が高々と重なり……山中に寺院あり。その名を赤山法華院と呼ぶ。もとは張宝高が建てたものである」という。ここで円仁は、朝鮮半島の高名な武将にして豪商、さらに新羅国(清海鎮)大使でもあった人物に言及している。当然、この寺院は新羅僧たちによって営まれていた。日本の遣唐使節団は全員ここに逗留した。円仁の日記には、当時ここに住んでいた新羅僧20名全員の名前が記録されている。このときばかりでなく、845年と847年に当地を訪れた際にも、円仁は法華院の庇護を受けた。

赤山法華院

 7月23日、日本国遣唐使節団が船に乗り込み、石島湾から日本に向かったとき、円仁の姿はその中に無かった。二人の弟子、惟正、惟暁と従者丁雄満もまた姿を消した。円仁は策を廻らして4人は置き去りにされたと偽ったのである。

 さて、どうすればいいのか。新羅人院主や僧侶たちと話し合った結果、円仁は聖跡五台山への巡礼を示唆された。天台山よりずっと近いという。しかし、円仁とその弟子たちはいまや正式の通行許可証を持たない不法滞在者であった。(査証無し!)

 続く7カ月間、4人は法華院に留まり庇護された。僧侶たちのみならず、地方警備長官の張詠も円仁たちの求法を強く支援した。張詠は8年後にも、円仁を無事に日本へ帰国させるために重要な役割を果たすことになる。文登副県令は地元役人に命じて、彼らの所在を監視させていた。幸い法華院は中国官憲筋につてがあり、文登地方役所に対して最低限の通行証発給を願い出るにはどうすればよいかを、円仁たちに助言した。

 円仁は以下の書面をしたためた。

海草を葺いた屋根(山東省文登) 円仁は文登の地方役所に行き、中国滞在と国内通行を認可する公式文書を発給して貰いたいと、交渉しなければならなかった。文登への道すがら、今でも海草で屋根を葺いた家々が見られる。この海浜地区に今に残る大昔の手仕事の伝統である。地元の人の話では、一軒の屋根を葺くのに約500キロの海草が必要だという。私は、円仁もこの道を通って同じ光景を眺めたのであろうと感慨深かった。

 「私は聖跡五台山について聞き及び、彼の地への巡礼を久しく耐えて待ち望んでまいりました。私の目的はただ一つ、仏法教理を求めることでございます。求法の暁には赤山に戻り、ここより故国日本へ帰る所存でございます。日本国求法僧伝灯法師位円仁」

 通行の認可を繰り返し申請した結果、円仁は一役人に伴われて文登県に赴き、840年旧暦2月24日に通行許可証を交付された。しかし、これは登州都督府までの限定的な通行証であり、公式の通行許可証は登州都督府で入手しなければならないというものであった。五台山へ巡礼するためには更なる認可が必要であったため、円仁は与えられた限定的通行証を携えて、弟子たちと共に登州に向かった。

慈覚大師円仁
 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。

 円仁は794年栃木県壬生に生まれ、44歳で中国に渡った。中国では一日平均40キロを踏破し、現在の江蘇、山東、河北、山西、陝西、安徽各省を経巡った。大師について学び、その知識を日本に持ち帰ろうと決意。文化の境界を超えて、あらゆる階層の人々と親しく交わり、人々もまた円仁の学識と誠実さを敬った。

 私たちはその著作を通して、日本仏教界に偉大な影響を与えた人物の不屈の精神に迫ることができる。彼は後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた

     


阿南・ヴァージニア・史代

  米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。

 

 
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