内蒙古自治区成立60周年
変わり行く草原と砂漠に生きる
               張春侠 韓ショ娟=文 額博 劉世昭=写真 図文天下=写真提供

ホロンバイル草原を流れるエルグン河

 「内蒙古」と聞いて、何を想い浮かべますか。

 緑の草原、果てしない砂漠、点在するパオ、疾走する馬の群れ……。小学校で習った『スーホの白い馬』の童話を想い起こす人もいるのではないでしょうか。

 内蒙古自治区はロシア、モンゴルと中国の国境にあり、中国の陸地面積の8分の1を占め、二千数百万の人々が暮らしています。

 1947年5月1日、中国で初の少数民族自治区である内蒙古自治区が成立しました。それから60年、内蒙古は大きく変わりました。とくにこの数年の発展は目覚しく、経済成長率は4年連続、全国トップです。

 伝統を踏まえながら変貌する内蒙古のいくつかの断面を報告します。


特集1          継承され、変容する民族文化
 

 その昔、この地には匈奴や鮮卑などの民族が興亡し、今も蒙古族をはじめ漢族、満州族、回族など多くの民族が住んでいる。それぞれの民族は、独特の音楽や舞踊、服装や風俗習慣を保っているが、特に蒙古民族の文化は独特で、魅力的である。近代化の試練の中で新たな文化が生まれている。

世界的に有名になった馬頭琴

蒙古族の生活に不可欠な楽器、馬頭琴

 フホホト市内のごくありふれた住宅区に、「内蒙古民族楽器廠」の大きな看板が掛かっている家がある。このあまり広くない2階家に、さまざまな種類の、馬の頭が彫られた弦楽器である馬頭琴がいっぱい並べられている。まるで馬頭琴の博物館のようだ。

 ここで馬頭琴を製作している段廷俊さんは58歳。彼は馬頭琴の話になると、たちまち生き生きする。壁に掛かっているさまざまな時代の馬頭琴を一つ一つ手にとって演奏しながら、それぞれの違いを解説する。馬頭琴がかわいくて仕方がないといった表情だ。

 段さんはフホホトに近いスーズワン(四子王)旗(県に相当する行政単位)で生まれた。子どものころから音楽が好きで、独学で二胡(胡弓)、バイオリン、四胡(胡弓の一種で弦が4本あるもの)などの楽器が弾けるようになった。

 1971年、段さんはフホホト市民族楽器廠に就職、それ以来、馬頭琴とは切っても切れない縁となった。

 馬頭琴は、モンゴル語で「モリン・トルゴイ・フール」と呼ばれ、棹の先に馬頭が彫刻されているので、この名がついた。13世紀にはすでに蒙古族の間で広く流行していたという。

 馬頭琴の由来については、有名な『スーホの白い馬』の伝説がある。

 草原で牧畜をしていたスーホという若者は、一頭の白馬を可愛がっていた。ある日、競馬に出場した白馬は、がんばって一等になる。だが、白馬が気に入った王様に奪われてしまう。

 白馬はスーホを恋しく思い、機を見て手綱を解いて逃げた。だが、王様の兵隊に追いかけられて、不幸にも矢に当たって死んでしまう。スーホは死ぬほど悲しみ、日夜、白馬を抱いていた。

 するとある夜、夢に出てきた白馬はスーホにこう言うのだった。

 「スーホがもし、永遠に私を離したくないと思うなら、私の体で楽器を作ってください」

 そこでスーホは、白馬の脚の骨で楽器の棹を、頭蓋骨で胴を作り、馬の皮で胴を貼り、馬の尻尾で弦を、馬を捕らえるときに使う棹で弓を作った。そして楽器の棹の先に、白馬の頭そっくりの彫刻を彫ったのである。

 それ以来、馬頭琴は草原の遊牧民の慰めとなり、その妙なる音を聞けば一日の疲れを忘れ、その場を立ち去り難くなるのだった。

 確かに馬頭琴には不思議な力がある。子を産んだばかりの駱駝の母親が病死してしまい、ほかの母駱駝がその子駱駝を育てようとしないとき、牧畜人は馬頭琴で『勧ナイ曲』(乳を出すよう促す曲)を弾く。馬頭琴の奏でる柔らかく、もの悲しい旋律を聞いた駱駝は涙を流し、子駱駝に乳を飲ませる、というのである。

「馬頭琴の特徴は、弦が多くのナイロンの糸を撚ってつくった弦にあります。馬の尾とそっくりでしょう」と段延俊さんは言う

 段さんに言わせれば、馬頭琴は世界で最高である。馬頭琴の2本ある弦は、外側の線が160本、内側の線が120本の馬の尾でできている。「世界中でどこに、200本以上の弦で美しい調べを出す楽器があるだろうか」と言うのである。

 しかし、馬頭琴も昔のままではなく、改良が加えられてきた。

 かつては胴にはほとんど大蛇の皮か牛や羊の皮が貼られていた。このため音は低く、独奏には適しているが、音が高く、激しい曲の演奏は難しかった。

 そこで段さんは、十数年の歳月をかけ、馬頭琴の改良に心血を注いだ。1983年、段さんは有名な馬頭琴の演奏者であるチ・ボルゴさんと協同で、蛇の皮の代わりに梧桐の木で胴を貼った。これによって馬頭琴の音色はさらに豊かになり、音調が整った。

 後に段さんは、弦を馬の尾に代えてナイロンの糸を使い、これによって馬頭琴は元の低く沈んだ音から朗々として澄んだ音になり、舞台での演奏がずっと素晴らしくなった。1990年には、さらに馬頭琴を5つのパートに分けて組み合わせる改革を完成し、馬頭琴を民族オーケストラの中の特色ある楽器に発展させた。

 2001年、フホホト市で千人が馬頭琴を演奏する国際芸術祭が開催され、ギネスブックに記録された。2005年8月16日には、馬頭琴はウィーン楽友協会大ホールで演奏され、世界の音楽界にデビューした。そして2007年初め、ウィーン楽友協会大ホールで挙行された中国新春音楽会では、馬頭琴が奏でる美しい旋律が再び聴衆をうっとりさせた。

 現在、段さんが製作した馬頭琴は、ドイツや米国、日本でも販売されている。内蒙古だけで毎年、千人以上が馬頭琴を学んでいるのだが、段さんの工場では毎年、馬頭琴を500丁しか生産できない。しかし彼は、依然として馬頭琴を、完全に手作りで製作している。彼は、手作りのものだけが、質の良い馬頭琴であると考えている。

民族文化を救う子どもたちの歌声

リハーサル中の五彩ホロンバイル児童合唱団(写真はブレンバヤルさん提供)

 ホロンバイル(呼倫貝爾)といえば人はみな、青い空と白い雲、緑なす大草原を連想する。しかしブレンバヤルさんに言わせれば、ホロンバイルの魅力はこれに止まるものではない。「ここには31の民族が住み、彼らの音楽や舞踊、服装はみな貴重な文化財なのです」と彼は言う。

 だが、生活の近代化や流行文化の直撃を受け、こうした古い文化は消滅の危機に瀕している。少数民族の中でも特に人口の少ないダウール(達斡爾)族、エベンキ(鄂温克)族、オロチョン(鄂倫春)族の「三少民族」と、バルフ(巴爾虎)、ブリヤート(布里亜特)の蒙古の二部族は、すべて加えても10万人に達しない。

 蒙古の民族的な旋律に乗せ、中国全土を風靡した歌『吉祥三宝』のブレンバヤルさんと妻のウリナさんは、こうした少数民族の文化遺産が消滅の危機にあることを非常に憂慮していた。「こうした文化は草原の根であり、またホロンバイルの根であり、『吉祥三宝』の根でもあります。ここの多くの歌は、『吉祥三宝』よりも素晴らしい。私たちはこうした文化をここにしっかりと残しておく必要があるのです」と言う。

 ちょうどそのとき、香港鳳凰衛視(フェニックステレビ)の中国語放送局の王紀言局長と知り合った。ホロンバイル出身の王局長は、彼らと同じように草原に対し特別な思い入れがあった。2005年、王局長とブレンバヤル夫妻は「五彩ホロンバイル児童合唱団」をつくることを決めた。ダウール族、エベンキ族、オロチョン族とバルフ、ブリヤートの蒙古の二部族の子どもたちの音楽と歌声で、消滅しつつある民族文化を救おうとしたのである。

 ブレンバヤルさんは、子どもたちが合唱団に応募した時のにぎやかな様子を、今もはっきり覚えている。募集は2006年末から始まり、15日間で300人以上が申し込んだ。子どもたちの多くは、遠い辺鄙な遊牧地や農山村からやってきた。一番年長の子は12歳、最年少はわずか5歳だった。厳格な選抜の結果、40人の子どもたちが残った。

 合唱団はハイラル(海拉爾)市に設立された。教えるのはみな、内蒙古のプロの音楽教師とモンゴル語の教師だった。各少数民族の特色を十分に表現するため、王局長とブレンバヤル夫妻はプロのデザイナーを招いて、古い資料や写真に基づいて、昔ながらの民族の文様と現代のアニメの図案を組み合わせ、民族的特徴の濃厚な児童服をデザインした。

 合唱団の多くの動作は、子どもたちが自ら創作したもので、わざとらしさは少ない。8歳のダシドルジ君は声があまりよくないので、2回目の面接試験のとき、先生が「多分、落とされるだろう」と彼に言った。彼は知恵を絞って、すべての歌詞に、面白く、生き生きとした「フリ」をつけた。こうして子どもの天真爛漫さを表現したのである。

 現在、ダシドルジ君はまるで小さな演出家のように、面白い「フリ」を思いつくたびに、走って先生の所へ言いに行く。こうして多くの「フリ」が演目の中で使われている。

5歳のアオチン君(左)は五彩ホロンバイル児童合唱団の一番若いメ団員だ(写真はブレンバヤルさん提供)

 合唱団では、学校の勉強が第一で、歌は第二である。このことは永遠に変わらない。普段、子どもたちはハイラル市の各学校に分散し、授業を受けている。歌の練習は週末と休暇の時だ。多くの子どもは、学業の成績は非常に優秀で、成績の悪い子は先生が専門に補習指導をしている。

 毎週土曜には、ブレンバヤル夫妻がすべての公演をやめて、北京からハイラルに飛行機でやってきて、子どもたちの歌を指導する。そして日曜の夜には北京に空路、帰って行く。

 冬休みの期間、合唱団は毎日、朝8時から夜10時まで練習する。だが子どもたちは疲れた様子はない。練習する歌がみな、よく知っている、好きな故郷の歌曲だからだ。

 春節(旧正月)の休みになると、ブレンバヤル夫妻は、子どもたちが習ったばかりの歌を忘れないよう、彼ら一人一人にデジタル・オーディオ・プレーヤーを買い与えた。彼らはそれに歌を録音し、家に帰って聴けるようにしたのだ。ところがどうだろう。春節休みが終わって帰ってきた子どもたちは、前よりうまく歌えるようになっていた。

 募集の時には、子どもたちの家庭の条件はまったく考慮しなかったが、後に半数の子どもは、生活が非常に苦しいことが分かった。そこで合唱団は、さまざまな方法で資金を集め、彼らの負担を軽くしようと考えた。

 子どもたちに家庭の温かさを味あわせてあげようと、合唱団は子どもたちを普通の市民や先生の家で過ごさせ、子どもの生活状況を把握するようになった。こうしてからは、子どもたちは故郷から遠く離れてはいても、合唱団を自分の「家」と考えるようになった。途中でやめさせられる子どもはいるが、机の脚にしがみついて帰りたくないと泣くのだった。

 子どもたちはみな一生懸命で、頭がよく、歌の練習の効率は非常に高い。25日で25曲の歌を覚えてしまうほどだ。多くのプロが彼らの録音を聞き、その評判は非常に良い。一晩中、何回も聞いたという人さえいる。

 現在、「五彩ホロンバイル児童合唱団」はすでにこの地の重要な文化プロジェクトになり、社会から広く支持されている。「合唱団はハイラルから始まり、次第に北京に伝わり、さらに世界へと広がるように」とブレンバヤルさんは希望を膨らませている。

 

 
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