民間の文化遺産を訪ねて 魯忠民=文・写真
 
 
 

河北省・武強県の木版年画
生き残りをかける農民の伝統芸術
農民で年画職人の韓更亮さんは、農閑期には木版年画の印刷に余念がない。春節にこれを売るつもりだ
 
 
 
道端で花嫁の親族を迎える楽士

  春節(旧正月)になると、中国の家々では、おめでたい絵を掛ける。それが年画である。河北省の武強はかつて、中国北部で有名な年画の産地の一つだった。一時は全国的に流行し、もっとも多い年には、半裁で1億枚も生産された。しかし、時代は遷り、風俗も大きく変わった。武強年画の派手な色使いや田舎の雰囲気は、中国の民間芸術史上の過去の1ページになろうとしている。

輝かしい過去の栄光

いまでは武強の県城で、こうして伝統的な木版年画を売る風景はあまり見られなくなった。

 春節の前には、民間の年画が大量に売り出される。そこで有名な武強年画を求めてわざわざ武強へやって来た。しかし、市はにぎわっていたものの、年画を売る屋台は意外にも一つも見つからなかった。

 昼近くになって、やっと年画を売る一人の中年男性を見つけた。地面の上に十数種の木版年画が並べられているだけだった。たまに通りがかりの人が足をとめたが、買う人はいなかった。

 年画を売っていたのは韓更亮さんである。56歳の、武強県大韓村の農民で、先祖代々、木版年画を作ってきた。

 韓さんの一家は5人で、11ムー(1ムーは6.667アール)の畑に小麦と綿花を植えている。毎年、農閑期になると韓さんは、自分の家の仕事場で、古い版木を使って年画を刷る。3カ月間に3、40万枚を印刷して卸売りし、それを商人が村や町へ売りに行く。年画の買い主はほとんど農民で、数十万枚の年画を刷っても3、4000元しか儲からないので、これで生計を立てるわけにはいかない。韓さんの息子は、父の技を受け継がず、印刷工場に勤めている。

武強の人々は芝居が好きで、街頭でも芝居が演じられる。武強年画に芝居を題材にしたものが多いのはこのためだ

 韓さんは言う。「いま、年画はますます流行らない。自分はこの技を捨てたくないので、今まで頑張って続けてきたが、実はあんまり儲からない。今日は、祭りの演芸を見るために町へ来たついでに、屋台を並べて、運試しをしているだけなんだ」

 市からそう遠くないところに、それが中国で初めてつくられた年画専門の博物館の武強年画博物館である。1985年に建てられ、敷地面積は2万5100平方メートル、陳列面積は3500平方メートル。13の展示室があり、歴代の年画の逸品3738点が陳列されており、民間の息吹にあふれている。

武強県の南関の町並み。昔は「どの家でも年画をつくった」といわれたが、今では年画を売る店は一軒もない

  武強は河北省の東南部に位置し、かつてはここを黄河が流れていた。土地が低く、春には干害、秋には水害に悩まされてきた。光緒年間(1875〜1908年)に出版された『深州風土記』には「武強は土地が痩せ、人々は貧しく、物資も乏しい。庶民はよく古今の人物を描き、版木を彫り、五色の色を紙に刷り、市で売る。婦人や子どもを喜ばす」と記載されている。

 以前、武強には葦が一面に生えていて、製紙の材料に用いられていた。葦からは「毛頭紙」(繊維が太くて質の柔らかい白い紙)ができる。どこにでもある石榴の花びらから赤い汁を、槐の実から黄色の汁を、藍からは青い汁をそれぞれ搾って、三原色を得る。さらにアルカリ土壌の土地で生長する棠梨の木で版木を作る。これを使って重ね刷りすると、彩り豊かな「五色紙」と呼ばれる木版年画ができあがる。これこそ農民の指の技から生まれた芸術である。

武強年画でもっとも特色があるのは「連環画」の年画。芝居や物語が多く、よくオンドルの周りに貼られ、子どもの家庭教育の啓蒙教材になっている

 現存する武強年画の『盤古至今歴代帝王全図』は、天地開闢の祖である盤古からの歴代帝王の像を描いたものだが、その最後の画像が元の太祖、チンギスカンになっている。そのことから、武強年画は13世紀の元代のころに出現し、少なくとも700年の歴史があると推定されている。

 武強県南関の范氏の族譜の記載によると、武強年画が大規模に生産されるのは、明の永楽年間(1403〜1424年)に大量生産されるようになり、清の乾隆、嘉慶年間(1736〜1820年)にその生産量は全盛期を迎えたという。当時、「年画の郷」と呼ばれた南関には、144軒の年画の店があり、周りの40余りの村の千戸を超す家がその生産に携わっていた。

 また各地に180余りの卸売り店が設けられ、もっとも多い年には、年間生産量は半裁で一億枚に達し、河北、山西、陝西、内蒙古、遼寧などで広く販売されていた、という。

木版年画の製作プロセス:
下絵を描く:図案をデザインして、墨糸で印をつける 下絵を写す:下絵をひっくり返して、木の板の上にしっかりと押さえる。手で紙くずをこすり落として、墨糸の墨を木の板に残す 版木を彫る:各種の刃物と彫刻の手法を用い、陽刻を主として、印刷用の木版を彫刻して作る 刷る:武強年画は色の重ね刷りで、一般に黒い墨の糸を先に刷り、そし後、他の色を重ね刷りする。写真は、印刷用具と四色の印刷用の版 乾かす:印刷が完了すれば、天井からつるし、陰干しにする

年画に見える農民の願い

「門神尉遅恭」。「鞭?門神」はずっと武強年画の代表作となってきた。唐の名将である尉遅恭が鉄鞭を持ち、秦瓊が鉄?(かどがある鞭)を持っているのでこう呼ばれる 「門神秦瓊」。秦瓊は尉遅恭とともに唐の太宗のために門を守り、妖怪を拒んだと伝えられ、後に門神となった

 数百年来、こんな民謡が民間で歌い継がれている。

 「武強年画は、年に一枚が本物になる。それがどの家に行くかは分からない」

 それは何を意味するのか。武強年画に描かれた人物や動物、飛ぶ鳥などが本物になり、善良で勤勉な人々を助けるという。武強年画は特殊な魅力を持っている。

 妻を娶ることのできない貧乏人は、美人の描かれた年画を買っていっしょに暮らせば、その美人が本物になり、幸せな夫婦になることができる。田畑を耕す牛馬がない農民は、駿馬の書かれた年画を買って壁に貼れば、大きな馬を一頭得ることができる。家の中がごたごたしているときは、「張天師」や「鍾馗」(ともに伝説上の魔除けの神)、「神鷹」や「神虎」の描かれた年画を買って部屋の中に祭ると、平安無事に過ごせる……

 春節になると、農民たちは市で買ってきた年画を、門や部屋、台所、倉庫、井戸、馬屋などに貼る。土地の神様の像は神棚に貼られる。こうして幸せを祈り、災厄を払う願いをこれに託すとともに、日ごろひっそりしている貧しい農家の庭に、祝日の喜びが加わる。

清代から伝わる「六子遊戯図」の図案。絵の中に六人の子どもがいるのが分かりますか?

 武強年画は、黒、赤、緑、黄、紫、ピンクなどの顔料を水で溶いて刷った木版画である。すべて手作りである。画面の構図は豊かで、テーマが特に目立ち、人物と情景が簡潔で、線は太くて力強く、彩りが鮮やかで、装飾性が強い。木版の彫り方は陽刻を主とし、陰刻をも併せ用いる。色彩は原色を用い、単純かつ変化に富んでいて、色鮮やかで強烈だが、調和がよくとれている。

 武強年画には一幅、対幅、多幅の「連環画」(連続絵物語)があり、また門に貼るものや窓に張るもの、オンドルに貼るもの、灯に貼るもの、対聯、客間に貼るもの、カレンダーの絵など、さまざまな形がある。

 内容からみると、天神、地神、竈神、倉神、財神、弼馬温(馬神)などの神を祭るもの、吉祥を祝う「吉慶有余」や「劉海戯金蟾」(仙童が金のヒキガエルと遊ぶ)、魔除けの「鍾馗」や「門神」、また労働する人々を描いた「漁楽図」などもある。

下絵や書道に優れ、版木も彫る農民の年画職人の呉春沾さん。家の中を小さな工房にしている

 神話や伝説、歴史上の人物、芝居や物語も年画の題材になっている。例えば『三国演義』や『孫悟空 三たび白骨精を打つ』などだ。また、日本とドイツの青島攻防戦や上海のモダンな生活などを記録したものもあり、年画はメディアの役割をも果たしていた。つまり年画は、文学、歴史、地理や天地万物すべて含まないものはなく、まるで中国農村のエンサイクロペディアのようなものなのである。

 20世紀初め、海外に流失した武強年画の逸品も少なくない。それらは英国やロシア、米国、日本などの博物館に収蔵されている。

 中国の北部にある有名な年画の産地には、武強のほかに天津の楊柳青、山東の楊家埠、河南の朱仙鎮がある。それぞれ特色があり、それぞれの風格がある。しかし、素朴で郷土色豊かな雰囲気と勇壮な北国の精神では、武強年画が随一であろう。

破壊を免れて蘇る

薄松年教授と彼の著作『中国武強年画』

 1950年代、年画の工房は合作社(協同組合)となり、大量生産をするようになった。また新しい生活を描いた作品も一部、現れた。「文化大革命」の期間中、武強年画は、危うく消滅するほどの被害を蒙った。代々伝わってきた下絵や版木は焼かれてしまった。

 ある年画の職人は、危険を冒して下絵や版木を隠した。大段荘の農民、呉春沾さんは、先祖伝来の下絵を、鞴の中に隠して難を逃れた。「文革」が終わった後、彼はその貴重な下絵を、武強年画博物館に寄贈した。

 2003年10月、武強県で、秘蔵されていた古い版木が発見されて、全国を驚かせた。それは旧城村の6代続いた年画職人の「賈」という家が、清代の武強年画の古い版木159枚を屋根裏に隠していたものだ。そのうちの13点は、民間に伝わる国宝級のものだったが、残念ながら他の版木の大部分はすでに腐食していた。賈家では、多くの版木を守るため、家が古くなって壁が崩れても取り壊さず、家の外側に四面の壁を築いただけだった。

武強年画博物館の表門

 「文革」が終わってから、武強年画は再び新しく生まれ変わった。1980年、国は「武強年画社」の設立を許可し、独立して出版する権利を授けて、武強年画の大量生産の発展を促進した。1993年12月、武強は文化部より「国家民間芸術木版年画の郷」と正式に名付けられた。

 しかし、世の中が近代化するとともに、武強年画は日増しに衰退しつつある。このため、一部の有識者たちが民間の文化遺産を守ろうと仕事を始めた。

武強年画博物館の馬習欽副館長は省クラスの民間芸術家。3人の弟子を率いて年画を刷っている

 中央美術学院の薄松年教授は、今年74歳だが、依然として民間文化遺産の保護に奔走している。「民間文化は私たちの根ですよ。根がなくなると、民族の精神と魂は、そのよりどころを失ってしまう」と彼は言うのだ。

 薄教授は1950年代から、民間に伝わる年画を収集し、研究し始めた。数十年の間、彼はあちこち奔走し、フィールドワークを行って、『中国年画史』『中国門神画』などの十数部の著作を出版した。

武強年画博物館の内部

 80年代の初期に、彼は初めて武強年画を見て、たいへん興味を持った。その後、彼は数十回、武強へ来て、この地の文化人たちが木版年画を発掘し、収集する仕事に協力してきた。武強の年画博物館を創設するために、彼は心血を注いだ。

 数年間苦労して薄教授は、『中国武強年画芸術』という大型の芸術画集を編纂し、武強年画の歴史的変遷と芸術的特色を全面的に分析し、論証した。彼は武強年画を12種類に分類した。また年画の図版を300余点を収めた。その中には、初めて公開された貴重な作品も少なくない。すべて薄教授が、国内外で写真に撮って収集し、鑑定した成果である。

2003年、旧城村の賈家で、年画の古い版木百五十九枚が一度に見つかった

 しかし武強年画博物館の副館長である馬習欽さんは、憂いに満ちた表情でこう語る。

 「いま、わずかに残っている年画は、武強全体で多くとも毎年、40〜50万枚しか生産されていない。版木を彫れる職人は、私と他に2、3人しかいない。武強年画の発掘、収集、保護、研究は武強年画博物館の役目だが、観光客が少ないため、博物館の運営は非常に苦しい。しかし、ここ数年、状況は少し好転してきた。国が重視し、メディアが注目するのに伴って、武強年画は中国の無形文化遺産の保護プロジェクトに登録された。今後もより重視され、もっと援助されることだろう」

 
 

 
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