■ 正常化35年 中国と日本のこれから
特集4
 
友好のバトンが次の世代に渡された
張春侠=文 楊振生=写真

 1984年の9月から10月にかけて、3000人の日本各界の青年たちが招かれて中国を訪問した。全部で217のグループが4つのルートに分かれて、上海、南京、杭州、西安、武漢、北京などを訪れた。彼らは中国の青年たちと「中日青年友好交歓会」に参加し、さらに中国の建国35周年の祝賀式典にも出席することができた。

 それから23年。今年6月14日から20日まで、中日国交正常化35周年を記念し、3000人の訪中活動を受け継ぐ「中日青年世代友好中国行」(世々代々友好の道――2007日本青年訪中の旅)の活動が中国で挙行された。3000人の訪中に参加したかつての青年たちとその子どもたち200余人が、中曽根元首相に率いられて北京や上海、蘭州などを訪問した。

 世々代々、中日の友好関係を受け継ぎ、さらに友好を深めていこうというこの活動は、中日関係の歴史に新たな一ページを開いた。

中国の変化に驚く

中国の胡錦濤国家主席(右)と会見した中曽根元首相(左)

 「中国の発展はものすごく速い。とくに上海は、完全に近代的な国際都市になった。2008年の北京オリンピックの開催は、中国にさらなる発展をもたらすに違いない」。今年61歳になる小野寺喜一郎さんは、数え切れないほど中国に来ているが、それでも中国の変化に驚きを隠せない。

 1975年に小野寺さんは日本青年団協議会に参加し、中日友好交流の仕事を始めた。3000人の訪中活動の時、彼は日本の組織委員会の総代表として中国を訪問した。その後、絶えず中日両国の各種の交流活動に参加し、長い間、中国の青年を自分の家にホームステイさせたこともある。

 彼は、日本に留学した上海の夫婦の身元保証人となり、4年間、彼らが休みの時は自分の家に泊めた。「私と彼らとの付き合いは、『交流』という言葉では形容できません。私たちはいっしょに生活し、すでに完全な家族となったのです」と言う。

 小野寺さんと同じように、今回訪中した多くの団員も、中国の巨大な変化を感じ取った。上海のリニアモーターカーや万国博覧会会場の建設、北京のオリンピックのメーンスタジアムとなる「鳥巣」や水泳競技の会場となる「水立方」、蘭州の黄河や水車……どれも団員たちの印象に強く残った。

 1970年代、甘粛省の定西は、国連食糧農業機関(FAO)から「人類の居住に適さない」場所に認定された。しかし、今回、中日の青年たちが訪れた定西市安定区青嵐郷大坪村では、人々が「衣」と「食」の問題を解決したばかりでなく、ジャガイモや牧草、野菜、労務提供などを大いに盛んにし、経済を発展させていた。

 テレビドラマ『おしん』で主役を演じた小林綾子さんも3000人の訪中に参加したが、そのときはわずか12歳だった。今回、23年ぶりに中国を訪れたが、建ち並ぶ高層ビルや車の洪水だけでなく、人々の服装がファッショナブルになっているのにびっくりしたという。しかし、中国の人々の彼女に対する熱烈な気持ちはまったく変わっていなかった。そのことに小林さんは感動した。「最初に中国に来たときは、まだ小さかった。いまは大きくなり、姿、形も変わったけれど、私があの『おしん』だと知ると、みんな争って私と記念写真を撮るのですよ」と彼女は言った。

歌声で友情を伝える

2007年6月19日、中日青年交換の夕べで、再び『四季の歌』を合唱する芹洋子さん(左)と彭麗媛さん

 「芹洋子」と聞いても、ほとんどの中国人はよく知らないだろう。しかし、もし彼女が歌った『四季の歌』と聞けば、知らない人はほとんどない。とくに1980年代、この歌は中国全土で人々に広く歌われた。

 3000人の訪中の時、芹洋子さんも「日本の音楽の使者」として参加した。わずか2歳だった娘も連れてきたが、「最も小さな音楽の使者」とかわいがられた。

 交歓会で、芹さんは中国の歌手の彭麗媛さんと舞台に立ち、いっしょに『四季の歌』を歌った。

 それ以来、芹さんは11回も中国に来て、北京や上海、南京、大連などでコンサートを開いた。今回も中国に来て、彭麗媛さんと再びいっしょに『四季の歌』を歌い、中国の人々の喝采を受けた。

 芹さんは帰国したら、コンサートを開いて、中国の若者の生活状態や、上海万博、北京オリンピックの準備が着々進んでいる状況など、中国で見聞したことを日本の人々に伝えたい、と思っている。

 残念なことに、今回、娘さんは怪我のため、中国に来られなかった。近い将来、娘さんの楽団といっしょに中国に来て、コンサートを開きたい、と芹さんは考えている。

友好は親から子へ

 日本から今回の友好交流活動に参加した団員は、最年長は89歳、最年少は13歳の横堀由さんだった。由さんは中学2年生で、ハキハキとしたかわいい女の子だ。

 父親の横堀克己さんは、日本国際交流基金の文化事業部につとめている。3000人の訪中の時、彼もメンバーに加わり、初めて中国へ来た。今回、彼がかわいい娘を中国に連れて来たのは、自分の目で実際、中国がどんな様子かを見せようと思ったからだ。「日中友好は、子どもたちに重点を置くべきだと思う。私たちは両国の友好交流の使命を、若い世代に渡さなければならない」と横堀さんは言う。

 由さんは中国のことをあまり知らないが、一つの小さな願いがあった。それは「中国の子どもたちと友達になりたい」ということだった。交歓の夕べでは、由さんは幸運のラッキーガールになった。胡錦涛主席から北京オリンピックのマスコット「福娃」と胡主席のサインをもらい、胡主席といっしょに記念写真におさまった。彼女にとっては、これはおそらく生涯忘れられないことになるだろう。

 横堀さんと同じように、団員の多くは、自分の子どもを中国へ連れてきた。小野寺喜一郎さんも長男の小野寺真平さんを連れて来た。今年33歳になる真平さんは、東京のある会社の社員で、高校生の時にアメリカへ1年間留学したことがある。中国は日本と近い国なのに、真平さんは中国に来たことはなかった。自分の目で見た中国は広く、すごい勢いで発展している、と彼は強く感じた。中国青年たちの積極な姿や盛大な歓迎ぶりにも、非常に感動した。

 全青連の倪健・副秘書長は今回の交流の意義についてこう述べている。

 「青年たちは社会の中でもっとも活発で、もっとも感覚の鋭い人たちであり、彼らは未来と希望を代表しています。中国というと、多くの日本の青年は北京、上海などの大都市を頭に浮かべ、西部などの貧困地域については何も知りません。だから私たちは、今回、とくに蘭州訪問を日程に組み入れたのです。それは日本の青年たちに、真の中国を全面的に知ってもらうためです。また、上の世代の人が自分の子どもをつれてきて、中日友好のバトンが次の世代に受け継がれることを、また、中日青年の友好交流が絶えずに豊かになり、世々代々、伝わって行くことを願っています」

 中日青年の友好交流は1956年に始まった。五十数年来、両国青年の友好交流はすでに、政治、経済、文化、科学技術、環境保護などの各分野に及んでいる。

 今回の交流活動は、中日青年交流の新たな高まりを呼びおこした。今年4月、温家宝総理が日本を訪問したとき、今年からの5年間、毎年千人の日本の青少年を訪中に招くと発表した。こうしたことすべてが、両国の友好事業の発展にはかり知れない影響を及ぼすだろう。

 胡錦涛国家主席が言うように、両国の青年たちこそが中日両国の友好事業の将来は担っている。両国の青年がしっかりと手を携え、正確に中日関係の発展の方向を把握し、中日友好を伝えて行くという崇高な使命を自覚して、それを担い、さらに情熱的に、さらに積極的に中日友好の事業に力をつくせば、中日両国の未来は必ず、もっと素晴らしくなり、中日友好は世々代々受け継がれて行くに違いない。




 
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