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城壁と地下鉄とバスと

正陽門(左)と箭楼(写真・劉世昭)

 北京オリンピックを前に、北京では地下鉄の新しい路線が急ピッチで増設されているが、市民からいちばん親しまれているのは、やはり以前からあった1号線と、俗に環状線ともいわれている2号線だろう。1号線は北京のメインストリートである長安街の地下を走っており、2号線は旧北京を囲む城壁の跡の地下を走っている。

 2号線、つまり環状線には18の駅があるが、そのうちの11の駅は復興門、西直門、阜成門といったように「門」という字が駅名の最後につけられている。私の家の近くの復興門駅から反時計回りで門の字の付く駅を拾ってみると、宣武門、和平門、前門、崇文門、建国門、朝陽門、東直門、安定門、西直門、阜成門、そして復興門に戻ってくる。

 こんなに「門」の字の付く駅が多いのには、それなりの理由がある。実は、2号線は北京の城壁の地下に造られ、地上に城門があったところが駅になっているのだ。1950年代の城壁取り払いで、城壁、城門のほとんどは姿を消してしまっているが、城門の名前は地名として、また駅名になって残され、市民に親しまれている。

 こうした城門には、一つ一つに長い歴史が刻み込まれている。城門が造られたころは、それぞれの門にそれぞれの役割があったという。

 俗に前門と呼ばれている正陽門は、皇居の紫禁城(故宮)の正門である天安門の南の直線上にある北京の表玄関で、皇帝や皇室のお出ましのさいの専用の門だった。

 西直門は西郊外の玉泉山の泉から皇室用の飲み水を運び込む門、これに対して安定門は、市民の糞尿を郊外の農村に運びだす門だった。

 朝陽門は杭州―北京間の大運河をつかって南方から運ばれてきたお米などを運び込む門、阜成門は西郊外の門頭溝の石炭を運び込む門だった。

 死刑囚を刑場に連れていくとき通るのは宣武門。この門については浅田次郎氏の『蒼穹の昴』(講談社)でも触れられている。

徳勝門の箭楼

 1950年代の城壁取り払いの難を逃れて、いまでも姿を残しているのは、正陽門と軍事専用だった徳勝門の箭楼(矢を放つ砦)ぐらいだ。城楼としては東の城壁の外側にある高さ29メートルの東南角楼。ここにはいくらか城壁も残されている。

 正陽門、徳勝門の箭楼、東南角楼は、いずれも地下鉄環状線の駅の近くにある。正陽門は前門駅のすぐ近く、また天安門も前門駅から3、4分のところにある。徳勝門の箭楼は、鼓楼大街駅と積水潭駅の中間にある。東南角楼は建国門駅から十分ぐらいのところにあり、建国門駅の近くには明、清時代の古代天文台である観象台の跡が残されている。ここも一見に値する。

 いずれにしろ、地下鉄環状線の「門」の字の付く駅名に誘われて下車し、地下から出て、歴史の流れに思いを巡らせながら、あちこち散歩するのは楽しい。近くの胡同(横町)の名前にも、過ぎし日を感じさせてくれるものと出会う。

 地下鉄環状線の上の地上には、バスの環状線がある。44番バスだ。城壁を取り払ったあとに造られた第二環状線道路をぐるりと回っているので、車の窓からゆっくり北京見物ができる。正陽門や徳勝門の箭楼、東南角楼、観象台も目にすることができる。外交部や衛生部、司法部や文化部といったお役所の前も通る。格安の市内遊覧バスといった感じだ。一周すると、明清時代の都であった北京の輪郭を感覚的につかむことができる。バス停の数は全部で23、所要時間は約60分。

北京地下鉄2号線復興門駅(写真・魯忠民)

 バスの話になったが、北京のバスをこよなく愛していた人がいた。中国のラストエンペラー宣統帝・溥儀氏の弟の溥傑さんである。晩年の溥傑さんは公用車を持つ地位にあったが、もっぱらバスを愛用していた。溥傑さんいわく。

 「バスはいいですよ。人さまの手をわずらわすこともなく、出かけたいときに出かけ、帰ってきたいときに帰ってこられる。街の風景を楽しめるし、まわり人とも言葉を交わせる。途中下車も自由。とても気軽です」

 ちなみに、北京で、いや中国で初めて自動車を持ったのは溥傑さんのおばあさんの姉にあたる西太后で、1898年にドイツからベンツを贈られたが、運転手が自分にお尻を向けているのが気に入らず、ほとんど使わなかったそうだ。

 北京にバスが現れたのは1935年、市民がその安全性に疑問を持つなど、営業不振で、その年のうちに店を閉めた。昨今の北京はバスが大繁盛、バスレーンを持つ道路も出現している。




 
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