13世紀、モンゴル軍勢がチベットに迫ると、サキャ派の指導者サキャ・パンディタとその甥パクバが涼州に赴き、侵略を阻止しただけでなく、チベット仏教を広めるの成功した。元の世祖フビライはパクバを帝師とするとともに総制院長官に任命し、これによってパクバは仏教界の頂点に立って、チベットの行政権とモンゴル全体の仏教行政権を獲得した。以後、これらの官職はサキャ派の指導者によって継承され、授けられた玉印には、パクバ自ら国字として作ったパスパ文字が刻まれた。元代はチベットと最も友好的な時期であり、国内には、北京の妙応寺白塔や居庸関、杭州の飛来峰石窟など、チベット様式の建築や仏像が盛んに作られた。

 明代の永楽帝はチベット仏教の各宗派を並立させて均衡を保たせる政策をとった。サキャ派に元時代の勢力は既になく、チベット全体を支配する宗派がなかったからである。永楽帝が最初に招いたのは、カルマ派第5代活仏のデシンシュクパであり、永楽5年(1407)、デシンは南京の霊谷寺で衆僧を率いて大法会を厳修した。次いでゲルク派の開祖ツォンカパに来朝を促したが、弟子のシャーキャイェシェーが代理として派遣された。いずれの場合も永楽帝のもてなしは格別で、それぞれ大宝法王、大慈法王という八王の称号が授けられた。また多くの贈り物が取り交わされ、チベットに今に伝わる「永楽」や「宣徳」の銘を有する名品は、これらの時に明朝より贈られたものである。

 清朝では歴代皇帝のうち、チベット仏教に対して最も熱心に信仰を捧げたのは、清朝最盛期の乾隆帝であった。乾隆帝は自らの70歳の誕生を記念してパンテェンラマ6世を北京に招聘し、また熱河(河北省承徳)にパンテェンラマの住まいであるシガツェのタシルンポ寺を模し「須弥福寿之廟」を建立した。現在の承徳には清朝宮廷工房で作られたチベット様式の文物が数多く伝えられている。

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