文化・伝統芸術

年画技術を伝える楊柳青

 日本に木版の浮世絵があるように、中国には木版の年画がある。年画は、その名の通り、春節(旧正月)に貼る絵だ。年末になると、ほとんどの地方で年画と対聯(おめでたい対句を書いた赤い紙。門の両側や部屋の壁などに貼る)を貼り、正月ムードを盛り上げ、幸福を招き、厄を除ける願いを込める。楊柳青年画は、明末(17世紀中期)に始まり、天津の西郊外にある楊柳青鎮という地名が由来だ。明時代(1368~1644年)に、京杭大運河が開通し、水運が盛んになったため、楊柳青鎮は南から北京へ穀物を運ぶ水路の中継地として栄え、南の紙や水彩絵の具も北に運ばれた。そのころ、楊柳青鎮周辺の年画職人が次々と楊柳青鎮へ引っ越し、年画の製作に取り組んだ。それに、楊柳青鎮辺りは、版木に適したズミ(バラ科の落葉樹)を豊富に産出していたため、木版年画は楊柳青鎮を中心に興った。


 清の乾隆時代(1736~1795年)、嘉慶時代(1796~1802年)に、楊柳青年画は空前のブームを迎え、楊柳青鎮と周辺の三十以上の村々は「家々が彩色をよくし、戸々が絵画に長じる」という勢いで、年画専門店が軒をつらね、全国各地から年画を求めてやって来る商人が引きも切らなかった。天津の楊柳青年画と山東省濰坊市の楊家埠年画、江蘇省蘇州市の桃花塢年画、四川省の綿竹年画を中国の四大年画と称する。では、楊柳青年画のみどころはどこだろう。天津市河西区にある楊柳青画社(楊柳青年画を製作・出版・販売)に行ってその魅力をさぐってみよう。

独特な彩色技法で仕上げ

 各地の年画、そして日本の浮世絵の製作過程は、下絵を描き、下絵をなぞって版木に彫り(輪郭を彫るモノクロの「墨版」や複数枚に彫り分ける「色版」がある)、絵の具をつけて紙に刷るという三段階に分かれるが、楊柳青年画はその上、最後に手作業による独特の彩色「彩絵」で仕上げる。刷り済みの絵が「画門」(彩色専用の動く木の板。形が門に似ていることから名づけられた)に貼られて、絵師は何回も彩色をほどこす。木版の重ね刷りと手作業の彩色があるからこそ、楊柳青年画は版画の刀痕と中国の密画の綿密な画法、やわらかい色彩を巧みに融合させている。


 楊柳青年画の彩色工房に入ると、絵師は2枚の「画門」の間に立ち、その上の絵を細かに描いている。たくさんの「画門」はつながり合っており、「画門」を開くと、ゆっくりと歴史書のページをめくるように見える。驚くことに、絵は90度回転されて横向きに貼りつけられている。絵の描き方を盗み見られないようにするためだというが、絵が正しく縦位置に貼られると、絵の中の人物が逃げ出すというもう一つの説がある。伝説のように聞こえるが、人物が生き生きと描かれているという自信がうかがえる。もし、本当に逃げ出してしまったら、絵師はどうするつもりなのだろう。

若い世代に受け継ぐ努力

 楊柳青年画は子どもを描いた吉祥の絵が多く、例えば可愛いらしい丸々とした一人の子供が一匹の赤いコイを抱きかかえ、手にはハスの花を持っている「連年有余」という年画がある。中国語のハス「蓮」の発音が「連」と通じ、「魚」が「余」と発音が同じなことから、「連年有余」には、毎年豊作が続き、余裕が出るように、という願いが込められている。かつて楊柳青年画は「門神」(門を守る神)の画像を主としていた。旧正月に農村の人々は「神様が門を守ると、鬼は入って来れない」と信じ、「門神」を魔よけとして門の扉の上に張った。その他に、楊柳青年画の題材には、世俗的な生活、歴史物語、神話・伝説、戯曲の登場人物、花鳥風月などがある。


 国家級の無形文化遺産の伝承者であり、版画の巨匠・王文達さん(69)の考えでは、民間年画は中国の貴重な文化財であり、昔は年画を通して中国の歴史を学んだが、現在では、年画は素晴らしい中国文化を次世代に伝える使命を担っている。


 十六歳の時に楊柳青年画に触れた王さんは、半年後に版木に彫る仕事場に回され、一番自慢の作品は『西廂記』だ。現在、彼は弟子を取って、技術を若い世代に継承しようとしている。「彫刻刀を持つ力がある限り、彫り続けたい」と微笑んだ。


 楊柳青画社のどの工房でも、楊柳青年画を愛する若者の姿が目に入る。彼らの話によると、「絵を描くことは最高の楽しみ」、「人格を磨き修養を積むことができる」。華やかな都会にも、心を落ち着け、芸術に身を投じる若者がいるということは、楊柳青年画の明るい未来を想像させる。

代表作品