【放談ざっくばらん】


錦江飯店の女性創業者 董竹君の自叙伝に思う

                                    加藤優子(翻訳者)


 昨年末、日本で出版されたばかりの『大河奔流 革命と戦争と。一世紀の生涯』(講談社)をもって、北京の董竹君の旧宅を訪ねた。家の主は97年すでに亡く、いまは三女の国瑛さんが住むが、客間の感じが以前と違う。聞くと、上海・錦江飯店に栄誉陳列室なるものができ、董竹君が使った書斎机、郭沫若の揮毫の額などを寄付したという。その他、彼女がデザインした竹の模様の食器、めがね、三聯書店から97年秋に出版された自叙伝『我的一個世紀』も置かれている。この自叙伝の日本語版、すなわち私が訳した『大河奔流』上下二冊も置きましょうとの誘いを受けた。

 董竹君は清朝末期、1900年、上海に生まれ、中華民国の誕生、袁世凱、国共合作、日本軍の上海占領、地下共産党、中華人民共和国誕生、文化大革命、改革開放政策、香港復帰まで、20世紀の中国現代史上すべてを見て、1997年12月6日にその一生を終えた。その舞台は上海のほか東京、四川の重慶、成都、マニラ、北京、アメリカにまで及ぶ。600ページ、43万字、写真も八十数枚という大作を、97歳の老人が手書きのうえひとりで書き上げ出版したかと思うとそのエネルギーに驚嘆するしかない。もっとも5人のお子さんが85歳の長女を頭に、74歳の末っ子の息子まで皆健在であり、60代に見える末っ子の精悍さや版権を持つ三女、国瑛さんの80歳のバイタリテイーに、私はただただ脱帽することを思うと、別に不思議はないのかもしれない。会うことがかなわなかった母親、董竹君の姿なのであろう。

 貧しい車曳きの家に生まれ、借金のかたに妓楼に売られる。中国革命同盟会の男と結婚、五人の子供をもうけ、のちに離婚……。彼女の一世紀にわたる自伝を訳しおえ、彼女が体験したすべて――妓楼に入る日、家に流れる重苦しい空気、1914年上海から神戸に向かう船上での風の軽やかな心や、離婚状に判を押したあとの自由な気分も、そして2000元を元手に「錦江小食堂」を始めたときの決意のほども、自分が経験したことのように感じられる。

 記憶の確かさもさることながら、細かな観察力、それが詳しい描写につながっているからであろう。

 「どんよりとして重苦しい冬の日、朝から父はしょんぼりと元気がなく、母だけが黙々と働いていた。家の中の空気は静まり返り、何かが起こりそうな気配がして、私はとても心配だった」「胸にぴったりの白地の胴着、黒い緞子のズボン、白いキャラコ地の靴下と黒い靴……を持ち、外には駕籠が停まっていた。彼らは私に化粧を始めた。……楡の鉋屑水を髪の毛になでつけ光らせる。前髪は前劉海式に、開いたハサミのような形にとめて、とても美しく結い上げる」「駕籠から降りると、門の前には赤い紙で束ねられた稲が置かれ、……その稲の束に火をつけると、その上で足を片方ずつまわしてから(妓楼の)門を入るようにと言った。悪運を焼き払い、妓楼の金儲けの妨げにならないようにするための縁起かつぎだという」。13歳の娘が妓楼に入る日の描写から、当時の女性の化粧、妓楼の女の服装、風習等も手にとるようにわかる。

 1935年、「錦江」を始めるにあたっての決意のほどは並みのものではない。四川人.李嵩高が貸してくれた2000元を手に、四川料理店を開くことにしたが、店舗探し、設計、内装、調度品、食器などの決定は微に入り細に入る心の遣いようであった。「厨房の場所も通常とは異なっていた。蒸し釜を一階に設置した以外、炒める、揚げるといった調理をする場所は屋上に置き、油や煙がこもっては部屋の清潔さと客の食欲が損なわれないように気をつけた」。従業員教育も徹底し、客を識別できるように指導し、客の階層に応じて注文を受けさせるようにさせた。また各部門によく足を運び、「酒の燗、お茶のいれ方、痰壺の掃除、テーブルクロスの交換、茶碗やグラスを洗って拭く(茶碗は油でべとべとしていないこと、グラスは透明で水滴や指紋がついていないことを目安にした)などといったことを従業員と一緒に行い、手本を示した」という。評判を聞いて食べに来て常連客になった、魔都上海の大ボス、杜月笙――彼からの協力の申し出を断らず、逆に利用するしたたかさも持ち合わせていた。

 その杜月笙をはじめとして、彼女の周りには実にさまざまな人が登場した。四川時代からの戴季陶、上海時代は郭沫若、夏イエン、江青、周恩来、ケ頴超、潘漢年、宋時輪らの革命家、女流作家白薇、国民党の政治家楊虎などなど。ゼロから、いやマイナスから「錦江」を始めたとき、彼女は四川人脈を大いに使った。彼女は多くの人を助けたが、同時に多くの人が彼女を支えた。真摯な努力が人にそうさせたのだと思う。

 子供の頃、正月を迎えて新しい服に着飾っている人がいるのに、自分はどうして貧しいのかと不思議に思った。長ずるに及び社会構造に疑問をもち、革命思想に共感を覚えるようになった。「儲けたお金で革命を助け、子供を育てる……。これが、私が店を開く動機であり、望みだった」と、錦江飯店の前身を開く1935年に書いている。1951年、上海市公安局と党委員会からの「錦江という国内外で知られた暖簾、あなたの上海における名声、それに、あなたが育てた熟練の従業員が錦江にいるという点などを考慮すると、この任務はあなた以外に適任者はいないと認識しています。どうか、できるだけすみやかに、錦江両店を13階建てのビルに移転し、拡充、発展させてくださるよう希望しています」という申し出に喜んで同意した。「そして、なんら躊躇することなく、16年間辛酸をなめて経営にあたり、当時の価値にして15万米ドル相当になる錦江両店のすべてを、心から望んで、諸手を挙げて、党と国家に捧げたのである」

 解放前、企業家であり、国民党の人たちと付き合いがあった彼女は、文革中、当然のことながら、さんざんに痛めつけられた。家捜しから始まって、牢獄生活五年半にわたり、70歳の誕生日は、旧正月にあたり特別に出された肉料理で獄友に祝われた。

 あとがきで述べているように、書き始めた当初は、批判的な角度から叙述を進めようと思ったが、時間と精力が限られていたこともあり、記録的に記述したという。彼女の波乱に満ちた人生行路のためもあり、これがかえって中国の20世紀をたどることになり、中国現代史理解の、よき助けとなっている。

 翻訳を通して知った董竹君像すべてを書いたつもりだが、彼女が女性運動の先駆者とよく言われる点に触れていない。それは、女性、男性といった区別を超える董の力強い生き方に、一人の女性としてより、一人の人間として捉えたいとの思いから、私が敢えて避けているにほかならない。

 主なきあとの家も、母思いの子供たちも、彼女の生き様を映し出す。貝殻を配した手作りのランプシェード、裏の狭い空間を江南風の坪庭にしつらえ、北方風の中庭には一叢の竹林、春にはシャクヤク、初夏にはバラ、秋には柿が色づく。いつのときも創意.工夫を忘れず、忙殺される日々にあっても子供の教育に熱意を注いだ董竹君の姿を髣髴とさせる。彼女の人生を大河奔流とたとえるなら、私の半生は池のさざなみほどのものであろうが、董竹君が座右の銘とした「どんな境遇にも安んじる」に多いに共感する。釈放後の1973年、自宅の中庭で、満開の太平花(バイカウツギ)のしたで撮った写真のような穏やかな顔で、私も人生を送りたいものである。

 なお董竹君の自叙伝は、謝晋の監督によりテレビドラマ化され、『世紀人生』全31回が昨年秋、中国で放映された。また、そのVCDが北京・海潤影視中心から発売中である。(2001年4月号より)