【放談ざっくばらん】


中国と日本、二つの風景に寄せる思い

                               在日中国人作家 毛丹青

毛丹青 1962年北京生まれ。北京大学卒業後、1987年に来日。商社勤務等を経て、現在は中国語と日本語による文筆活動を続けている。著書『にっぽん虫の眼紀行』(法蔵館)、『にっぽんやっぱり虫の眼で見たい』(朝日新聞社)のほか、中国語著書も多数。神戸第28回ブルーメール文学賞受賞。神戸市在住。

 12年以上も過ぎたいま、私は北京から日本に移住してきた。この空間の移り変わりについて、言語は、どれほど費やしても人間の思いを完全に言い表わすことができない脆いものであったかもしれない。しかし、二つの国、時にはたった二つの風景だけで、正確に私の思いをとらえることができた。それは、次のような風景であるのだが、中国の沙漠植林、そして日本、壁の上の空き缶という文字の配列が、私に時間と空間の長いトンネルを通り抜けさせ、まるで関連のない風景を私の脳裏に掠めさせたのだ。故郷に思いを巡らせた瞬間は、同時にまた、この異国に感慨深く想念を巡らせた瞬間でもあった。

 中国と日本、二つの国を並べて論じることは、ごく普通であろう。だが、私にとってこれらを具体的な事例にしか感じられないような思いは、日本という外国にきた当初から持っていたものではなく、いま思い返せば日本に住み慣れたころから感じるようになったのかもしれない。最初は見慣れぬ風景だとしか思えなかったものがだんだんと、よく見知ったものと似たものに変形したかのように、私の眼に映ってくる。この感覚は、私にとって、日常の経験を積み重ねながら故郷の中国だけではなく、日本の風土を観察することができた時に、はじめて得られたものだ。

沙漠の樹の下で

 小さな頃、私は北京を離れて祖母の故郷にしばらく暮らしたことがある。そこは江蘇省の村で、あたりは身が染まるような緑でいっぱいだった。道が山の中にだらだらのぼり、うねって続く風景を今も鮮明に覚えている。当時の北京は文化大革命の嵐が吹き荒れる真っ最中だったが、幸いにそのような沸き立つ変動はまだこの辺鄙な山村にまでは伝わってきていなかった。色とりどりの春の花が咲き誇る環境の中で、私は喜びの季節を楽しむことのできる時間に恵まれたわけだ。

 ある日、村のある農家のおじいさんが、汗を流しながら木の苗をいっぱい植えていた。ところが、数日を過ぎても、おじいさんはきちんと水をやる気配がない。毎週何回か決まった割合でやるわけでもなく、週一回しかやらないこともあれば三日に一回の時もあった。

 こんなやりかたで、木ははたして育つのだろうか? 私は心配になった。

 時間が経ち、やがて枯れる木も現われた。おじいさんはその景色を眺めていた。さぞかし落ち込み、胸を痛めているのではないかと思ったが、翌日になると両手に新しい苗木をどっさりと運んできて、再び苗木を植え始めたのだ。私はおじいさんを問い詰めた。「水をかけないから、木は死んだ。そうでしょう?」

 それを聞いて、おじいさんは笑いながらこう答えてくれた。

 「野菜の栽培じゃありませんから、木を植えることはね、百年の事業なんだよ。野菜なら数週間で収穫もあるだろうが、木は自分で大地から水を汲み上げなければなりません。人の手を借りたら、お終いになるんだよ。私も水をかけました。しかし、雨の降る日を知らないわれわれと一緒で、木はいつ水をかけてくれるのかも知らないんだ。だから私は気ままに水をやってきたんだ。雨と同じだよ」

 おじいさんの話はまた続く。「もし毎日のように水をかけたら、苗木は怠け者になるんだよ。根っこは地面のほうに露出して、自分で水を探しに地下に潜りこもうとはしなくなるだろう、そんな木は暴風に遭えばたちまち倒れてしまいますよ」

 おじいさんは植木職人だった。彼の話は当時の私には完全には理解できなかった。ただ、祖母の故郷で過ごしたあの時期に、のびのびと成長しつつ大きくなっていく若木が枯れた苗のよこに揺れるその姿は、いまも精悍に、隅々まで私の記憶に引き継がれている。

 月日が流れ、私はあのおじいさんが植えた木のように大きくなった。雨の日も嵐の日も成長しつづけるなかで、心の片隅に残ったあの時のお話は徐々に私のなかに溶けだし、私はそれをしっかり吸収していったような気がする。その気持を改めて確認できたのは、志願者として沙漠の植林活動に参加してきたこの二年間だと言ってもいい。

 行き交う車も人影もなく、分厚い空気の折り重なる茫とした空間、そこに生命あるものがうずくまっているそんな風景。それは中国の沙漠に展開されていく壮大なる植林事業。そこで私も木を植え、小さい頃に出会った村のおじいさんのお話を思い出し、心が晴れた気がした。

 何時か、沙漠に植えた小さな木が、生命の実感に従い、揺らぐことなく大自然の中で緑いっぱいの森になるのをこの眼で見たい。

壁の上の空き缶

 ある時期、私は日本の商社に勤めていた。この商社は東証にも上場している総合商社であったが、はたして上場企業だから従業員にとっていい会社かどうか、会社を辞めるまでとうとうよく分からなかった。普段から仕事のうえで多くの顧客と行き来があった。大手も中小もあったが、相手も大きい会社の場合は、こちらも向こうもあたりさわりのない言葉遣いで、表情までお互い似ているのだった。その判で押したような穏やかな言葉と顔付きは日本の会社員の習性になっているのかもしれない。いつの間にか、この私もその習性に染まっていたようだ。ある中国人の取引先に言われて気がついた。

 「毛君、日本人がおじぎをするのを見ていると米をついばむハトを思い出さないかい」

 私は、相手より低い姿勢でいようとするのは礼儀を重んじる日本人の習慣ですよ、と答えようと思ったが、口を開く前にこの中国人の取引先が突然笑い出した。そのとき入ってきたべつの客に向かって私が何度も腰を折り曲げておじぎをしたからだ。まるで米をついばむハトそっくりに。もちろん、彼の笑いに他意はなかった。こんなふうに、会社勤めの数年間、中国の取引先とのおしゃべりはいつもユーモアに富んでいたが、これと比べると同じ取引先でも日本人と交わす言葉はいかにも重かった。とくに中小企業の社長たちは、自慢話をしたがる人が多かった。たとえばある小さな会社の社長はこう言った。「大手で働いているからといって得意になってはいけないよ。君がこの会社を辞めたら、君のいままでの得意先も相手にしてくれなくなるんだから。会社の看板がなければ、君も道ですれ違う赤の他人にすぎないんだよ。だからね、能力を磨いて自分で会社をやるのが一番だよ……」  

 だがそんなことを言えるのも自分が裕福な階層に属しているから、少なくとも明日は銀行から金を借りられるかどうかと心配する必要がないからだ。だから事情が変わるとそれはぼやきに変わる。

 さて、私が勤めていた商社というのは大阪にあり、当時私は神戸の西に住んでいたので通勤には片道たっぷり二時間はかかった。断りきれない付き合いのあるときはいつも、最終電車に遅れないようにと、どんなに疲れていてもネオンまたたく梅田街道を気が狂ったように走り抜けなければならないのだった。道行く人の脇をすり抜け、車の前に出ると運転手に向かって「ちょっと待って」と手振りをし、書類鞄を振り回して道を開きながら、大通りの人の海へエンジンをかけたばかりのボートのように進み、必死に駅に飛び込む。ときには改札口に飛び込むまで、ぜいぜいいう自分の呼吸が疲れきって反響していることにさえ気付かない……これが私の会社勤めの間、一番わびしくなる一瞬だった。

 それだけではない。夜のつきあいにはきつい酒がつきものだったせいだろう、最終電車から降りてふらふらした足取りでホームを降りていると、目の前がぼやけはじめ、ものが二重に見えてくる。ある晩おばあさんを見かけたが、そのおばあさんが瓜二つの老婆をもう一人背負っているように見えてしかたがない。二人の老婆の顔はこわばり、二つの真ん丸い鉄球のように、転がるかわりにたえずまっすぐ下に動いていった…… 頭では、これが幻覚であることはわかっていたが。その間も私の両の脚は小船の櫂のように止まることなく動いて私を駅から人気のない道に運び出した。

 なにはともあれ、最終電車に間に合ったのは幸運だったと思ったとたん、突然のどの渇きを感じた。近くの自動販売機で熱い缶コーヒーを一本買った。それはほかほかと温かく、両手のひらで包み込むと、二人で火の熾ったストーブを囲んでいるようだ。道を歩きながら私はコーヒーをすっかり飲み干した。心がふっと暖かくなり、視線もはっきりしてきた。駅の出口を抜けると坂道になっており、曲がりくねった石段が伸びていた。私は石段を登りながら、空き缶を手にどこかにゴミ箱はないかとあたりを探した。見回していると階段の右側に壁が現われた。おそらく家の改築中なのだろう、壁のなかは資材や機械が積まれているらしく、一面真っ暗だった。さらに眼をこらすと、壁の上にずらりとなにかが並んでいる。並んでいるのはみんなホットコーヒーの空き缶だった。それらは階段の下のほうから順にまっすぐ直立し、淡い月光の下で落ち武者のようでもあり、ホームで電車を待つ会社員の列のようでもあった……。

 私は想像した。この空き缶たちは、私と同じ気持ちの人たちが置いたものだろう。彼らも会社勤めなのだ。そして毎日口ではいえないほど働き疲れ、酒に酔う恍惚にしばしの解放を得たものの、帰り道を辿る頃にはその恍惚も悲哀に変わる。だがここで空き缶たちがすっくと立ち並んでいる雄姿を見たとき、彼らの悲哀は失せたのではないだろうか。

 私も手のなかの空き缶をそっと注意深く壁の上の行列のなかに置いてみたが、しばらく重い足で歩いているうちに、酔いが覚めると、 やはりゴミ箱に空き缶を捨てなければと思い、あの壁のところへ引き返した。(撮影・玄番小雪 荻原信之) (2001年9月号より)