【放談ざっくばらん】


「時間感覚」が異なる国 中国と日本

                    周 星

 

 先日、名古屋大学のある日本人教授と雑談し、彼が中国を訪れたときの印象について聞いた。彼は、中国がこの数年、ずいぶん発展したとはいえ、現代社会に必要な多くの基本的な規則や秩序は、いまだに完全には樹立されてはいないと言った。

 例えば、都市では交通が混雑しているし、交通ルールを守らない人もかなり多い。市バスや長距離バス、汽車、飛行機などの交通機関は、定刻より遅れる率が非常に高いなど、社会の公共的なシステムの秩序はまだ完全には整っていない。このため、みんながそれぞれ勤勉に、忙しく働いていても、社会全体の効率は依然高くはないというのである。

 日本では、新幹線や地下鉄、国内便や国際便の飛行機、小さな地方のバスでさえも、ほとんどすべての公共交通システムは、定時発着率が非常に高い。すべてが定められた時刻表どおりに運行されている。

 刑事モノのテレビドラマの中で、よくこんなシーンが出てくる。犯人は懸命に自分が犯罪の現場にいなかったというアリバイを作ろうとするのだが、刑事たちは各種の公共交通機関の時刻表にもとづき、犯人が現場にいることが可能だったということを緻密に推理するのだ。

 しかしこれが中国なら、このようなシーンは理解し難いだろう。というのは、中国の現実生活では、人が時間を守れず、遅れてしまう要素が非常に多く存在しているからである。

 日本人と比べると、中国人はことを行う際に、計画性があまり強くない。そのときそのときの判断でことを行う。多くのことは「その時になってからまた話しましょう」ということになる。

 ここ数年、私は日本の大学生を中国国内へ連れていって実習させる仕事を担当し、それを実感した。日本の大学では、ほぼ半年前、ひいてはもっと早くから、半年後に実施される海外学習計画を詳細に表に書きいれ、具体的な日程を立てなければならない。

現在北京の地下鉄や汽車などの交通機関もだんだんと定刻どおりに運行されるようになってきた。北京の地下鉄1号線は、2分間間隔で走っている(撮影・馮進)

 なぜならこの計画は、学部の「現地実習委員会」などの各方面の審査と認可を経る必要があり、予算や補助申請、参加者募集、事前研修などの一連のプロセスに関係するからだ。だから日程表は詳細で、具体的であればあるほどよく、早く作られれば早いほどよいのだ。

 しかし、このような日程表は、中国の各大学の協力がなければ実現しない。だから私は、非常に早くから国内の大学と繰り返し連絡をとるほかはなかった。

 国内の先生や友人たちはみな、本当によく協力してくれたのだが、彼らはやはりそんなに早く日程を作る理由がほとんど理解できない。「半年も後のことなのに、どうしてそんなに急ぐのか」というわけだ。

 私の感覚から言えば、日本人が時間の計画的なアレンジを非常に重視するのに対し、中国人は臨機応変の能力を持っている。この違いは、工業社会と農業社会との違いからもたらされたということができるかもしれない。中国は、国全体から見れば、工業化が初歩的に実現されたとはいえ、かなり多くの人口が伝統的な意味での農民である。そして農業社会の特徴の一つは、生活のリズムが遅いことだ。

 実はもともと日本も中国と同じように、人々は、自然のリズムと法則、農業生産の周期によって決められた時間の枠組みの中で暮らしていた。明治維新までの日本は、中国の暦法を基礎としてつくられた陰暦をずっと使っていたのである。だから、節句や節季の面で、中国の影響をかなり受け、日本人と中国人は時間感覚や生活のリズムが非常に似通っていたのだ。

 1872年、明治政府は陰暦を廃止し、西暦を採用した。それは日本が、東アジア文明圏の、陰暦を基礎とする時間の枠組みと宇宙体系から離脱する決心の表れであった。その後、日本は、「文明開化」に力を注ぎ、大いに産業を興し、教育に力を入れ、公共交通体系の発展に努力し、資本主義を全面的に発展させた。

 そのようにして、西暦を主とし、正確さと合理主義を主な特徴とする西洋式の時間制度が、次第に社会における主導的な地位を確立していった。それに応じて、日本国民の時間の観念や感覚も次第に大きな変化を起こし始めた。そして中国人との間に、大きな差ができたのである。

 1912年、中国でも孫中山(孫文)が陰暦を廃止し、西暦を採用すると宣言した。しかし中国は広く、地域差が大きい。産業も遅れていて、長い間ずっと農業を「立国の本」としてきた国である。そのため陰暦は、庶民の実生活の中で本当に廃止されることはなかった。

 この結果中国には「暦の平和共存」という現象が出現した。つまり政府や社会の上層部、あるいは都市部では西暦が通用しているが、民間や社会の下層部、あるいは広大な農村部では、陰暦が引き続き有効なのだ。

 また中国には、イスラム暦やタイ族の使う仏暦、チベット暦など、少数民族の時間の枠組みが存在している。このため、時間制度の全国的統一性は日本よりかなり低い。言いかえれば、中国の時間の枠組みと時間制度は明らかに多様性を持っているため、時間を遵守し、合理的な時間の観念を社会全体に普及させるのに影響を及ぼしているのである。

 ここ二十数年来、中国の経済は高度成長の軌道に乗り始めた。中国社会に流動性や競争原理が突然現れてきた。それは必然的に、近代的な時間制度を必要とする。例えばある航空会社が、遅れて来る乗客を待たず、時間どおりに飛び立つことになったというようなニュースは、時代の要求に応えた産物である。

 日本の近代化は中国よりずっと早くから行われ、現代日本の正確で精緻な時間制度や国民全体が時間を遵守する観念は、その近代化が進む過程で完成された。また日本が先進国として長期間、競争力を保ち続ける重要な条件でもある。日本がかつて経てきた近代的な時間制度の真の確立や国民の観念の徹底的な転換はすべて、中国が現在、あるいは今後一定期間、必ず直面する課題となるであろう。

 国際化と市場経済の発展にともない、今後、中国人の生活のリズムは速くなり、時間の感覚は日ましに切迫感を増すに違いない。しかしもう一方で、中国の文化は「張弛(張りつめたり、たるんだり)」を重んずる。「張弛」には道理がある。だからわれわれは、中国社会の中にある時間の枠組みの多様性の価値を、同時に大切にする必要がある。

 経済が高速で発展している今日、われわれは発展にともなってもたらされる各種のマイナス面の影響も無視してはならない。あくまで「人間を本」としなければならない。「働きすぎ」の問題が社会問題化しないよう努力し、経済の発展が人々に本当の幸せをもたらすようにしなければならないのである。(作者は日本愛知大学国際交流学部教授)(2003年4月号より)