【放談ざっくばらん】

父母がわたしに残したもの

                      北京理工大学日本語非常勤講師 田端 道子

 

 わたしは中国の河北省張家口で生まれた。張家口は北京の北西約200キロにある町だ。
 わたしの父母は結婚して新天地を中国に求めた。大学を出た父は、「大学は出たけれど職はなし」の時代だったので、中国にあった日本の民間会社に就職したのである。

 その地で父母は3人の子をもうけ、メイドもいる順調で幸せな生活を送っていた。私が生まれたのは1941年、太平洋戦争勃発の年である。

母の原動力となったもの

 母は私に、「開戦の日にあなたを抱いて、『日本がんばれ! あなたが男の子だったらお国のために戦争に行けたのにね。残念ね』と興奮して話すと、そばにいた中国人のボーイが、『奥さん、中国広い、日本負ける』とつぶやいたことが忘れられない」と話したことがある。その頃の母は、他国に生活しているという意識も薄く、中国人の悲しみまで深く考えることもない、のんきな若奥さんだったのだろう。

 まもなく戦況が悪化して、すでに35歳になった父にまで現地召集の赤紙が来た。子煩悩だった父は7歳の兄、4歳の私、3歳の弟を一人ひとり抱いて頬ずりし、「駅へは見送りに来るな、子供たちをよろしく。すぐに日本に帰れ」といい残し、中国の東北に出征して行った。それが父の最後であった。

 父の出征後、すぐに母は3人の子を連れて帰国した。そのころの戦況は惨憺たるもので、北からソ連軍が南下してきて日本の民間人がたくさん犠牲になったなかで、母は3人の子を連れて筆舌に尽くしがたい苦労の末、日本の土を踏んだのだった。

 終戦の年、戦死通知の紙切れと小石のようなものの入った箱が届いた。父の戦死を信じなかった母は、数年の間は父の衣類や愛用品一切を売らずにその帰りを待ち続けた。夢の中で何度も軍靴の音を聞いて目を覚ましたという。父の生存を諦めてからは、「理不尽な運命に対する怒り」に似た気持ちが母の原動力となって3人の子を必死で育てあげた。

 母は晩年何度か上京する機会があったが、靖国神社には一度も参拝することなく、「靖国神社なんかには行かないよ。わたしの家の仏壇にお父さんはいるのだから」とかたくなに言っていた。しかし、老一兵卒として徴兵され、東北で苦労して玉砕した父の遺骨はいまだに拾われていない。

感じた度量の大きさ

 72年に中国との国交が回復し、81年、日中両国の努力により中国残留孤児の親探しが初めて実現した。戦後36年目のことである。青い人民服を着て、テレビの前で「私のおかあさん、会いに来てください」と中国語で訴える残留孤児の姿は、戦争の悲惨さを日本中の人々に改めて実感させた。それを見て私の母は決まって涙し、よくぞここまで育ててくれた、ありがとう、ありがとう、と中国に向かって手を合わせ感謝した。一歩間違えば私たち兄弟だって残留孤児になっていたかもしれない。

 わたしはこのことを考えるとき、いつも中国人の度量の大きさを感じる。もし、これが反対の立場だったら、敵国中国人の孤児たちを日本人は育てることができただろうか。一万人近くもの子どもたちを捨てざるを得ず、外国の戦地に置きざりにした国民は他国に類を見ない。いろいろ事情は違っただろうが、とにかく自分たちの衣食を削って育ててくれたのである。本来国民を守るべきはずの日本軍は、あの時いち早く南下撤退していたのであった。

日本語教師になった理由

 現在、私がこうして中国に滞在して日本語を教えている理由には、中国侵略に対する申し訳なさや中国人への感謝の思い、はたまた中国の大地に散った父への思いがある。それらは母の心を受け継いだ私の心にしっかりと刻まれている。

 一方、夫の父は軍人だった。義母の新婚時代は、人もうらやむ軍人の妻であった。義父は音楽をこよなく愛する優しい人だったと聞く。パイロットとして活躍し、多くの特攻隊の若者の飛行技術の指導をした。教え子たちが次々に突撃して散っていくことを苦にして、教官たちで志願編成し、教え子たちの後を追ってレイテ島上空で壮絶な戦死をとげた。

 戦友と妻への別れの言葉は「靖国で会おう」だったという。義母はそのとき27歳だった。いよいよ戦地に出発する前日、夫が一人で釣りをしていた後ろ姿が忘れられないという。

 義母は、それ以来靖国神社に夫の魂があることを疑わず、お正月、桜のころ、お彼岸など、決まって孫たちを連れて参拝に出かけた。それは一度だけだったが、ある日参拝している義母の前に軍服姿の夫が現れたのだという。その時に聞こえたという夫の感謝の念は、義母にとって苦しい時代を生きる心の支えになったことだろう。

 最晩年の頃の義母は、33歳のままの若い父の写真をみて、「こんな顔だったっけ、お父さんには悪いけど、もうすっかり忘れてしまったよ」と寂しそうに笑っていた。

同じ過ちを繰り返さない

今年春、学生と一緒に北京玉淵潭公園で花見

 夫も私も、父たちがそこに眠っているとは思えないから、ほとんど靖国神社には参拝したことがない。夫は「自分に親父がいないのは悲しいけれど、親父はあの時、純粋な心のまま戦死してよかったのかもしれない。もし、生き残っていたら、純真な人だっただけに戦後の変化の中を生き抜くのは辛かっただろう」とよく話す。

 実際、今でも高齢になられた戦友のかたから、生き残ったものの義務としての気持ちからか、手紙が届くときがある。この方たちの戦後も苦しく大変だっただろうと思う。ただ旧軍隊へのノスタルジアがあまりに強く、時には戦死を美化しすぎる傾向も伺えて私たちをとまどわせる。

 現在、中国に住んでみると日本侵略の傷跡がいかに深いかを肌で感じる。日本軍の破壊の爪あとが残っている現場を今も見ることがある。

 先日、北京西方の古刹・雲居寺に行き、唐代創建の美しい石塔を見た。この塔はもともと南北に二対あったものだが、北塔は日本軍の砲撃で破壊されたという。そのことを知って、いたたまれないような気持ちになった。一緒に行った中国人学生は、「戦争とはそういうものですから」となぐさめてくれたのだが、あの時代、日本軍と日本人は何故あれほどの狂気に走ってしまったのだろう。

 日本語科の学生の中にはおじいさんが日本人に殺されたというものもいるし、かつて敵国の言葉であった日本語の専攻に反対された学生もいる。「普通の日本人は悪くありません。むしろ日本民衆も被害者です。一部の悪い日本軍がしたことですから」と判で押したように中国人は答えるが、一部の戦犯といわれる人々だけに全責任を負わせていいものなのか。わたしの父母たちを含めた国民全部にその責任が少しもなかったとはいえないと思う。

 「戦争とはそういうものだ」といえばそれまでのことではあるが、だからこそ、二度と同じ過ちをくりかえしてはいけない。

等しく納得する解決策

 さて靖国神社のことであるが、戦死した軍人を国が手厚く慰霊するのはどの国でも当然の礼節である。しかし、問題はそのやりかたである。

 また8月15日がやってくる。先日も首相の靖国神社参拝が問題になったし、毎年その日になると、議員たちがこぞって参拝し、そのことで国内外において論議が蒸し返され過熱する。政教分離の原則、戦犯合祀、それにともなうアジアの国々の不満と不安、日本兵として戦死した外国人兵士の問題など、多くの問題が浮上する。「日本古来の文化風習であり、参拝するのを外国人がとやかく言うのは内政干渉である」と単純に割り切ろうという議員も多い。

 しかしこのことをただ日本人の文化風習や感情の帰結だけで収めようとするのでなく、アジアや世界中の人々が等しく納得する解決策というものは模索できないのだろうかと、わたしはわたしの経験を通じて思うのである。(2004年8月号より)

個人のホームページ「北京の風」
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