映画監督、作家 彭小蓮
 
小川監督が遺してくれたもの
 
     
 

 

 今年2月7日、私はニューヨーク東三番街の映画館で、『満山紅柿 上山柿と人とのゆきかい』を上映していた。最後に観客と言葉を交わしたとき、その日は、小川紳介監督の没後13周年にあたることに気がついた。すると、厳粛な気持ちで心がいっぱいになり、死に対して新たな認識ができた。このとき、死とは決して恐ろしいものではないことに気がついたのだ。人は死んでしまっても、命よりもさらに長期的なものが残る。そこには、その人の精神と魂がまだ存在している。

 スクリーンの上には、生き生きとした小川監督の姿があり、彼のするどい質問が聞こえてくる。さらに感激したのは、監督の考えや人生に対する認識が、作品と一緒になって私たちの生活に融けこみ、永遠のものとなっていることである。世界とは、こんなに神秘的で豊かなものなのだ。生と死を前にして、小川監督は私に恐怖を超越させた。

 『満山紅柿』は、小川監督が1985年に撮った『ニッポン国 古屋敷村』の一部だった。監督は小村で紅つるし柿(干し柿)を作っているというこの話が大好きだったが、『ニッポン国 古屋敷村』の中では調和が取れず、少し余計だったのでカットした。そして、この17時間のフィルムはそのまま倉庫にしまわれ、16年もの歳月が経った。

 小川監督が亡くなってから6年後、夫人の白石洋子さんは資金を集め、映画の追加撮影をし、編集・録音をしてこの作品を完成させることを決めた。そして、四方八方手を尽くして、私を探し出した。

 「どうしてあなたを探したの? 中国人であり、しかも劇映画を撮る監督に、どうして小川監督の作品の完成を頼むの?」こう疑問を持つ人は、きっと多いことだろう。私が山形県の辺鄙な農村で、追加撮影と編集作業をしていたとき、日本映画を教えていたアメリカ人のマークもそう尋ねてきた。そして私の話を聞くと、その話を映画の中に入れるべきだと言った。しかし、このことはそれほど大切なことではなく、最も重要なのは、小川監督の最後の映画を完成させることだと私は考えていた。

日本人と日本文化を見つめ直す

母親・朱微明さんの解放初期の写真

 1937年、抗日戦争が始まった。私の母・朱微明は、当時、新四軍(中国共産党の国民革命軍陸軍新編第四軍)の機関紙『前鋒報』の編集長であった。あるとき、売国奴によって日本人に捕まり、鞭で打たれて男性の牢屋に監禁された。母は湿った土の上に1人で横たわっていた。もっとも怖かったのは、夜になると日本兵がやってきて、母をからかおうとしたことだったという。母は声の限りに叫んだ。自分の体がバラバラになるほど絶望的な叫び声だった。収容されていた男たちが鉄柵の向こうから、「日本人、女性をからかうな!」「日本人、中国から出て行け!」とみんなで叫んだため、日本兵は驚き恐れて逃げていった。鞭で打たれたり、さまざまな陵辱を受けたりした後、新四軍がようやく助け出してくれた。

 父の彭柏山は、皖南事変の発生時、新四軍の重要な決定を伝える役目にあり、その際に裏切り者によって警護員とともに日本人に捕まり、憲兵隊に監禁された。母と同じように虐待を受けたが、兵器や弾薬の運搬作業中、そこから逃げ出した。数十年経った後も、父の体には日本人に鞭で打たれた傷跡が残っている。母は監禁生活のせいで重い関節炎を患った。

 日本人に対する憎しみは、このように両親の運命とともに続き、私の血の中にも流れ込んだ。ある日、小川監督の制作室でこの過去の話をしたとき、彼は頭を下げたままじっと聞いていて、長い間一言も発しなかった。監督がどのように考えているのか分からなかったが、その沈黙の間、何となく恐怖を感じ、言葉では言い表せない緊張感に包まれた……。しばらくすると、監督は急に頭をあげて、「私たち日本人は、あなたたち中国人に対して罪を犯しました」と言った。監督が言ったのは「私たち日本人」だった。監督は「私たち」と言い、自分もその中に入れていた。日本の軍国主義が犯した大きな罪を自分の身の上に課し、この暗い歴史に対して罪悪感を背負っているのである。

 私はこのとき初めて、日本人を日本の軍国主義と分けて考えなければならないと気がついた。多くの日本人は正直で、良心を持っている。彼らは自国の醜悪な歴史を前に、正義感を示し、長い長い努力を続けている。私も努力している。日本人を理解するようにし、日本の軍国主義を憎むようにしている。

 とりわけ今日、一部の日本人が歴史教科書を改ざんし、中国への侵略行為で犯した罪を否定しているのを見て、心の中は憎しみで満ちる。しかし一方では、心の片隅で、心の奥底で、小川監督は依然として私が深く熱愛した、偉大な日本人であることに変わりないことも分かっている。彼は日本にすばらしい文化を残したばかりではなく、世界にも豊かな財産を残したのだ。

小川監督が息づくフィルム

小川監督(左端)とともに(筆者は左から二番目)

 山形県の小村で映画の編集をしていたとき、外では雪が降りはじめた。部屋には暖房もなく、お湯さえもなかった。そこで洋子さんは、私のためにわざわざファンヒーターを買ってきてくれた。昼間はそれを編集室の入り口に置き、室内に向かってずっと吹かせていた。しかし、母から先天性の関節炎を受け継いだらしく、これほど寒い冬になると、綿入れの厚いズボンを穿いていても、関節が痛み出した。膝関節は曲げることもできないほど痛み、一度座ってしまうと立ち上がることが大変だった。まるで、骨と骨との間に発せられる摩擦音が聞こえるようだった。

 そのころ、毎日をどのように過ごしていたのか分からないが、朝起きると、まだ一日の始まりも知らないうちに編集台の前に座っていた。小川監督当時の副監督であった見角氏は、すべての準備作業を終わらせてくれていて、私はただ監督が撮ったフィルムを回転盤に置き、スイッチを入れるだけで、仕事を始めることができた。

 その瞬間、時間は突然消失した。私の意識と記憶の中に一切存在しなくなった。小川監督の撮ったものを繰り返し見ているうちに、表現しがたい楽しみを感じていた。その時の夢中な気持ちや享楽を思い起こすと、いまだに心が躍る。私は小川監督の存在に触れていたようで、その滑らかな映画言葉の中から、監督の命を感じ、人や情感、村に対する愛を感じた。少しずつ変化する光の中で、日本文化にある人間的な気質を読み取り、村の柴草の匂いを嗅いだ。

 小川監督が完璧に撮ったものを、どこからカットすればよいのか分からなかった。彼が撮ったすべての素材が使えると思った。しかし映画には制限がある。機械で繰り返し流し、しっかりと見たあと、カットするのにもっとも適当なところを見つけ出さなくてはならない。

 山形県にやって来たとき、カメラマンの林良忠さんは私に何度も言った。「ぜひ上手に編集してください。そうしないと、こんなにいい映画が中国の女性監督に台無しにされたと言われますよ」。この言葉を思い出すたびに、私は恐れを抱いた。

『満山紅柿』から学び得たもの

小川監督の墓に哀悼の意を表する

 2002年初め、完成した『満山紅柿』がベルリン映画祭で上映された。5〜600人収容できる劇場は満員となり、上映後、あらしのような拍手が沸き起こった。このとき、小川監督に宿題を提出できたと自分に言うことができた。彼の作品を完成させることができ、自分の名前が第2期監督としてスクリーンに出るのに恥じることはないと思った。

 2005年2月、ニューヨーク東三番街での映画の上映後、ステラ教授の事務室で、彼女から質問を受けた。とめどなく小川監督のことを話しているうちに、私はふと気がついた。『満山紅柿』が完成してからは、その後撮った『假装没感覚(邦題『上海家族』)』や『美麗上海(美しい上海)』の撮影が突然落ち着いたことを。細部をとらえるときにインスピレーションが沸き、以前のように無鉄砲ではなくなった。

 人物を描くときも、あいまいさを加えた。私はしだいにとても簡単なことが分かるようになった。人間の悲観とは悪に気づいたことからではなく、あいまいさに気がついたことから生まれるのだ。追求しきれない懐疑や宇宙の奥深い謎といったものが、悲観の最終段階なのである。それは苦しみよりさらにひどく、恐怖の始まりである。

 しかし、小川監督は生涯の探究において、他の人々と同じように茫然として苦しんだ追求の中にも、作品に希望や誠意を残してくれた。「映画撮影とは、人間の心の描写である。心を描写するのと同時に、同時代に生きている人々と、勇気を分かち合い、生きていく幸せを分かち合い、光明を分かち合い、苦難と戦う勇気を分かち合いたい。さらに言えば、これらのものをすべて、次の世代の子供たちに如実に伝えたい」。小川監督の言葉である。(2005年7月号より)


 
     

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