北京外国語大学教授  朱京偉   
 
借用語を追い続けて10年
 

 私にとって2005年12月28日は記念すべき1日であった。この日、北京の人民大会堂で第4回「孫平化日本学学術奨励基金」授賞式が行われ、私の著書『近代日中新語の創出と交流』が一等賞に選ばれた。受賞者の代表として演壇に立った私は、こんな話をした。

 「この基金を設立された孫平化先生に、敬意を抱かずにはいられません。中日友好のために生涯を捧げられた孫先生には、中日両国間の政治情勢に波風が立つようなことがあっても、学術交流こそは両国民の憎しみを無くし、末永く付き合っていく絆になるものだというお考えがあったに違いありません」

 「中日関係が困難に直面する今日、孫先生のお気持ちを身にしみて感じております。われわれにできるのは、先達の志を真摯に受け止め、今後も中国の日本学研究を盛り上げていくことのみであります」

いまこそ学術交流を

 私が日本語を習い始めたのは、『中日平和友好条約』が結ばれた1978年の翌年で、中日友好ムードが盛り上がっていた時代であった。10年ひと昔というが、もうふた昔以上も前のことである。

 当時の若い大学生は中年になり、両国の関係も大きく変わろうとしている。これからの中日両国は、友好や情熱で結ばれる感情的な国同士ではなく、理解と信頼に基づく理性的な国同士になっていくだろうと、私は見ている。

 そこで、両国が末永く付き合っていくのに何が必要なのか。私は、学術交流の重要性をこれまでになく痛感している。だから授賞式の挨拶でも、あえてこうした自分の心境を述べたのだ。

 自分の研究は、もちろん政治情勢に影響を与えるようなものではないが、ささやかな努力でも積み重ねていけば、両国民の相互理解につながると信じている。その意味で、私が取り組んでいる借用語の研究に触れてみたい。

日本語からの借用語

 中日漢語の交流は、1000年以上の歴史を持っている。江戸時代の末期までは、主として日本が書物や人的交流によって中国の漢語を取り入れていたが、明治期に入って、とりわけ19世紀末の中日甲午戦争(日清戦争)以降、中日間の語彙交流の様子が一変した。明治期に造られた専門語を中心とする訳語・新漢語が、漢字漢語の母国である中国へ大量に流入する事態が起きたのである。

 日本語からの借用語は、当初、「新名詞」と呼ばれ、一部的に抵抗はあったものの、長く使われていくと、すっかり中国語に溶け込んで、どれが日本製のものか区別がつかなくなっている。中国で出版された『漢語外来詞詞典』(1984年)では、日本語からの借用語として890余語があげられているが、これには借用語でないものが相当混入している。また、借用語なのに登録されていないものもかなりあるので、研究の現状は明らかに遅れている。

 中国語の外来語の中で、日本語からの借用語は、数が最も多く、特殊な存在である。「磅(pound)」「雷達(iradar)」のような欧米語からの音訳語と違って、そのほとんどは「哲学」「交響曲」のような意訳語となっている。しかも、字面だけでなく、語の構造も中国語の語彙とよく似ているので、両者の見分けはとても難しい。これが、研究の進展を妨げる最大の原因といえる。

 中国側の停滞とは対照的に、1960年代以後、日本の研究者たちによって明治期の訳語・新漢語に関する研究が着実に進められていた。これに励まされて、1993年、私は「現代漢語中日語借詞的辨別和整理」と題する論文を発表して、借用語研究のスタートを切ったのである。

借用語研究の難しさ

第4回「孫平化日本学学術奨励基金」の表彰式で、宋慶齢基金会の胡啓立主席(右)から表彰状を受けた朱京偉教授

 借用語の研究に着手してから、その難しさがしだいにわかってきた。

 まずは、中日双方の資料調査はどちらも欠かせない。中国語に入った借用語を解明しようとすれば、これに先立って、借用語のもとになる、明治期の日本で造られた訳語や専門語を調べておく必要がある。つまり、日本側の資料で、新語の出現時期や使用状況をさぐり、一方、中国側の資料で、それが借用された経路と時期を調べていくという手順をたどるのが普通である。

 第2に、対象の資料群は厖大で多岐にわたる。18世紀以降、西洋の近代知識を取り入れる中で、日本人は、オランダ語の翻訳に始まった蘭学の著書や翻訳書で新語を造ったり、中国に渡来した欧米宣教師の手になる漢訳洋学書・英華字典を参照して訳語を考案したりしていた。

 明治期に入ると、新聞・雑誌や書籍の出版はますます盛んになるが、これらの出版物において、また、大量の訳語・新漢語が創出された。借用語の語源を突き止めるには、以上の資料群はいずれも、調査の時に視野に入れるべきである。

 第3に、日本語からの借用語には2種類あって、その区別が難しい。漢籍に出典がなく、日本人によって新しく造られたものと、漢籍に出典があるが、訳語になったときに新しい意味が付与されたもの、という2種類に分けられる。

 前者については、大型の中国語辞典を使えば、出典の有無が確認できる。中国側の古い出典がない限り、日本製のものと見てほぼ間違いない。これに対して、後者の場合は、中国の古典には同形の語が見られるので、語の形は日本製ではなく、中国製とすべきだろう。しかし、現代日本語での意味は、中国の古典と比べて相当変化したため、日本側で新義が付与されたものと考えられる。ただし問題は、語の意味は、どの程度変化したら新義が付与されたと見るべきかである。それぞれの語の実際に即して判断するしかないので、研究者の間でも意見が分かれがちである。

 このように、借用語の研究は苦労の連続で、とくに最初の数年間は、真っ暗などん底に沈んだような状況が続いていた。

資料調査の思い出

 この課題に取り組んで10年目になる2003年10月、努力はやっと1冊の本となって実った。東京の白帝社から送られた出来立ての著書を手にしながら、資料調査のときに経験したことが頭に浮かんできた。

 本務校の派遣で名古屋商科大学にいた1996年ごろのことであった。明治期の文献資料は東京の国立国会図書館にたくさんあることは知ってはいるが、なかなか東京に行けなくて焦っていたところ、名古屋市にある愛知県図書館でも明治文献のマイクロフィッシュが見られることがわかって、冬休みの間ずっと通い続けた。

 昼食は、館内の喫茶が高いし、図書館の周辺には手ごろな店もなかったので、毎日きまって、10分間歩いたところの吉野家へ行って牛丼を食べることにしていた。今から数年前、吉野家の牛丼は北京にもやってきた。その看板を見たとたん、愛知県図書館でのことを思い出して、自分は誰よりも牛丼の味を知っているだろうと、ひそかに自負したものだった。

 2000年の夏から、招聘研究員の身分で国立国語研究所に滞在するチャンスを得たので、やっと東京のいろいろな図書館で資料調査ができた。約1カ月の間、毎朝、地下鉄を乗り継いで国立国会図書館へ行き、1日中、専用の映写機でマイクロフィッシュを見ていた当時の様子を、いまでもすぐに思い出す。

 都立中央図書館、東洋文庫、東大付属図書館、東京芸大図書館などにも足を運び、貴重な図書資料を利用させていただいた。しかし、当時では、国会図書館に行かないと見られなかった明治期の資料でも、最近はインターネットを通して、同館の「近代デジタルライブラリー」で簡単に見られるようになり、時代の移り変わりを嘆くばかりである。

 研究は、自分の能力の限界に挑戦することなので、思い悩む時は相当多い。しかし不思議なことに、報われる時に思い出すのは愉快な思い出ばかりである。これは私だけの体験なのだろうか。(2006年4月号より)


 

 
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