南京大学日本人教師 元毎日新聞記者
 斎藤文男  
 
古都南京に響いた2つの歌声

 

  南京市で今年前半に開かれた2つの「歌声」が、日中間の氷壁を溶かしつつあるように思う。一つは、日本から150人の「紫金草合唱団」が3月に、南京大学と南京理工大学で開いた音楽会。2つ目は、5月に南京大学が主催し、市内十大学が協賛した「第一回南京地区大学日本歌謡大会」である。

  2つの歌声は、国交回復以来どん底にある日中関係に、少しでも明るさを取り戻そうと企画された。私はこの2つの歌声の事業に主催者側としてかかわったが、その歌声の響きが日中間のわだかまりをゆっくりと溶かしていくのを実感した。

平和への「鎮魂花」 紫金草

  日本人にとって南京は、暗いイメージを持つ人が多い。しかし、南京滞在5年間の体験からすると、南京は緑豊かな「龍虎の里」で、街路樹の美しい街である。

 この緑豊かな南京市に、「紫金草」の名称が新たに加わった。「紫金草」は、アブラナ科の一年草で、中国では、「諸葛菜」「二月蘭」などと呼ばれている。南京市内には春になると、土手や野原などいたるところに、ダイコンの花に似た紫色のこの花が一面に咲く。

 この花を日本列島に最初に広めたのは、一人の日本人である。

 南京大虐殺があった直後の1939年、旧日本陸軍衛生材料廠の山口誠太郎廠長が南京市を視察で訪れた。彼は東京帝国大学生時代、中国人留学生とともに南京を訪れたことがあり、中国の歴史と文化に親近感を持っていた。

 しかし、再び訪れた南京市内は、あまりに変わり果てていた。廃墟の中で健気に咲く紫色の花を見つけ、戦争の悲惨さの反省と、平和への「鎮魂花」にしようとその種子をそっと日本に持ち帰った。

 彼はこの花が、紫金山の麓に咲いていたことから「紫金草」と名付け、平和の花として日本全国に広めた。この運動は子息の裕氏にも引き継がれ、いまでは、「ムラサキダイコン」「ハナダイコン」「オオアラセイトウ」などの名前で日本でも知られるようになった。

 この花の由来を新聞のコラムで知った人たちによって、1999年に日本で「紫金草合唱団」が結成された。その後、合唱団の輪が日本全国に広がり、2001年から今年3月までに南京、北京で計5回の中国公演を行ってきた。

 昨年3月、私は担当している3年生の授業で、紫金草合唱団のメンバー8人と交流会を開いた。紫金草合唱団の活動紹介や「紫金草物語」の朗読が行われた。私は南京に来てから習い始めた二胡で、『平和の花 紫金草』(大門高子作詞、大西進作曲)を演奏して紹介した。

 この交流会の感動をテーマに書いて応募した女子学生の作文が、コンクールで優勝した。学生の受けた感動が、作文を通じて多くの人に共感を与えた結果だと思う。私のささやかな授業が教室内にとどまらず、校外に巣立ったことをひとり嬉しく思った。

日本への見方が変わった

多くの学生たちに感動を与えた日本の紫金草合唱団の公園(南京大学講堂で)

 交流会から1年後の今年3月、150人の紫金草合唱団が南京を訪れ、南京大学の講堂で、合唱団の第5次訪中公演が行われた。前日には南京理工大学でも演奏会が開かれ、2日間連続しての公演だった。

 南京理工大学での公演では、合唱団全員が自費で南京を訪れたことに感嘆する声が多く出ていた。

 「自分の大学に咲いている花が平和の花だと初めて知りました。誇りに思います」(女子学生)「今まで日本人にはあまり好感を持っていなかったが、今日の歌を聴いて、尊重されるべき日本人も大勢いることを初めて知った」(男子学生)という声もあった。

 同大学では、構内一面に紫金草が咲いている林を「和平園」と名付け、紫金草合唱団の公演当日、除幕式を行った。さらに、同大学内にも「南京理工大学紫金草合唱団」が設立され、日中双方の合唱が披露された。

 南京大学の公演でも、日本語学部以外の学生や教職員OB、一般の人たちも公演を聴きに訪れた。

 合唱団メンバーの中には、舞台で歌いながら涙を流している人もいた。それを目撃した学生は、その涙に感動した。演奏会後行われた交流会では、団員たちが、虐殺問題や日中戦争の歴史について積極的に話したことも、学生たちには意外だったようで、日本人に対する見方を改めるきっかけになった。

 「日本でも、心から戦争の罪や中国人に犯した過ちに目を向けて反省している人がいるのだ、と初めて分かるようになった」(女子学生)

 「今度のコンサートを通じて、私は中日両国の明るい未来を見ました。日本人もかなりやさしい人が存在していることが分かりました」(男子学生)

 「戦争がなければ、中日の人民は常に一緒にお茶を飲み、詩を作り、花を見、歌を歌い、楽しく過ごし続けるはずだ」(女子学生)

 これらは、私の授業で書いてくれた学生たちの感想文の一部分である。

同根から生まれた日中の文化

 5月に開かれた「南京地区大学日本歌謡大会」は、日本語を学び、教える中国人の学生や先生を対象に行われた。参加者は各大学で予選を行い、一校から学生、先生それぞれ4人以内が本大会に進み、学生44人、先生6人の計50人が本選に参加した。

 会場には各大学の応援隊の学生らが来て、かなり盛り上がった。参加者はカラオケの伴奏に乗って、日本の歌を日本語で熱唱した。私は5人の審査員の1人として採点したが、50曲中、私が知っている曲は『青葉城恋唄』『川の流れのように』『昴』など7曲しかなかった。

 日中が国交を回復してから来年で35年になるが、ここ数年、日中関係は冷え込んだままの状態になっている。政治的な思惑が足かせとなっているのだが、しっかりした文化交流が基盤にあれば、一時的な政治や経済の流れに左右されない堅固な信頼関係が築かれると思う。

 日本と中国はもともと同じ根からの文化を共有している。それなのになぜ、もっと仲良くなれないのか。同じ根から生まれた文化を共有している日中両国が、今は喧嘩をしていがみ合っているときではない。

 互いの文化を慈しみあい尊重しながら、相手を思う優しい気持ちで友好交流を続けるべきである。今年開かれた二つの「歌声」が、そのための出発点になることを強く願っている。(2006年10月号より)

 

 

 
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