【お祭り賛歌】


貴州・ミャオ族のコ蔵節
10数年に一度、水牛の首を捧げる

                    写真 文・高 氷


 冷たい雨が降りしきる冬の日、黔(貴州省の略称)東南ミャオ族トン族自治州の榕江県計カ黔郷加去村で、ミャオ族の先祖を祭る水牛祭り――コ蔵節に参加した。

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神聖な祭祀の間にも、にぎやかな時間がある

 コ蔵節は、ミャオ族がもっとも重視し、もっともにぎやかなお祭りだ。その起源には、様々な言い伝えがあるが、一つはこんな話だ。

 ワンという青年が、船に乗っていた時に暴風雨に遭い、命を落とした。彼の家族は、ブタを一頭殺しただけで簡単に葬式を済ませたが、立派な副葬品を添えなかったために、ワンの霊は死者が通る関所を越えることができなかった。しばらくすると、ワンの母親が奇病に罹り、長期間の治療を施しても治らなかった。

蘆笙の楽隊は、ゴウサに率いられて村を回る

 そこでゴウサ(占い師)を呼んで治療を施してもらったところ、ゴウサは、死んだワンのために、もう一度盛大な葬式を開き、もっとも大きな水牛を殺し、彼が好きだった歌舞を行うよう勧めた。ワンの家族が、ゴウサの言い付け通りにすると、母親の病はまるで奇跡のように良くなった――。

 このことがあった後、ミャオ族は、「コ蔵病」という病があり、水牛を殺して先祖を祭ることではじめて、疫病や災害から逃れられると信じるようになった。

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 加去村は、榕江県中心部から西南約50キロの月亮山の中にあり、とても険しい立地だ。民族風情の濃い典型的なミャオ族の村で、140戸、700人程度が暮らしている。私たちは、韋国祥さんの家でコ蔵節を過ごすように手配されていた。58歳の韋さんによると、コ蔵節が行われる時期は不定期で、地域によっても異なる。普通、13年に一度開かれるが、村の経済力によって変わる。

ゴウホンの頭飾りの魚が多ければ多いほど、序列が上であることを表す

 今回の日程は、開催の3年前に早々決まっていて、村人は当時から準備を始めていた。祭りは、昨年10月19日に始まり、11日間続いた。その流れと儀式は非常に複雑で、主に、「請牛」「旋堂」「駆旋」「敲牛」「送牛」「贈肉」などの活動が行われた。

 まず最初に、村では、・蔵節を執り行うリーダーを選んだ。リーダーは、必ず二つの条件を備えていなくてはならない。一つは、村づくりに関わった人の子孫であること、もう一つは、経済力と人格が、ともに村人から認められている人であることだ。人選は、原始的な草占いで行い、リーダーが決まると、村人は彼の指示でコ蔵節の儀式を始める。

竹ぐしに刺したブタ肉は、お祭り開始の合図になる
不思議な草は、まるで魔力を持っているかのよう。伝統ある草占いが、コ蔵節のすべてを決定する

 同時に、15人のゴウホン(コ蔵節の儀礼係)も決めるが、その決定も、草占いを利用する。ゴウホンの服装は、普通の人とは違う。頭に麻縄で小魚の干物をくくりつけ、手には刀を持ち、まるで戦士のような様相をしている。ゴウホンの序列は、頭につけた魚の数でわかる。徳望が高いとおのずと魚の数も多い。

 コ蔵節の準備で重要な仕事の一つは、適当ないけにえの水牛を選ぶことだ。理想的な水牛を見つけるために、約百キロ離れた場所まで探しに行くこともある。そして、選ばれた水牛には畑仕事をさせず、主人が心のこもった飼育をする。今回のコ蔵節では、韋さんと彼の二人の息子の四頭を含む合計六十九頭が殺された。

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屠殺される水牛は、主人によって丁寧に清められる

 リーダーの家でブタを殺したのを合図に、コ蔵節が幕を開けた。ブタ肉は、角切りにして、竹ぐしに刺す。十五人のゴウホンは、リーダーの家に集まり、盛装をしたリーダー夫婦の両脇を囲むように厳かな表情で座る。中央の梁の下には、箕が置かれていて、中には先祖へのお供え物が並べられている。ゴウホンは、お供え物に向かって、先祖に今回のお祭りを開く理由と準備状況を伝え、村の加護を祈祷するという内容の「コ蔵経」を唱える。

村人たちは、親戚や客人を丁重にもてなす
二日目の朝、静寂した村には、数歩歩けば一つの牛の頭にぶつかる

 「コ蔵経」を唱え終わると、ゴウホンたちは、竹ぐしに刺したブタ肉を各家に配り始める。各家がブタ肉を受け取った時から、本格的なコ蔵節がスタートする。

 この日から、各地の親戚、客人は、遠くから加去村にやってきて、コ蔵節を過ごす。彼らは普通、もち米の稲穂、酒、爆竹などのお土産を携えてくる。近い親戚は、さらにシーツ、布団カバー、中には、数十元から数百元を包んだお祝い袋を持ってくることもある。各家の客人は、5、60人から百、二百人と差があり、もともと千人に満たない村に、1万人近い人が集まり、にぎやかになる。

 コ蔵節の間、もっとも忙しいのは、蘆笙の楽隊だ(蘆笙は、ミャオ族やトン族が使う管楽器で、日本の笙のようなもの)。蘆笙の演奏者たちが、盛装をして、リーダーの家から順番に村の隅々まで回ることで、村はお祭りの楽しい雰囲気に包まれる。村の若い男女は、蘆笙の伴奏に合わせて徹夜で踊り通す。

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 コ蔵節の始まりにともない、水牛の屠殺が日程に上る。屠殺前には、「請牛」と「旋堂」の儀式を行う。

 「請牛」は、各家で選んでいた水牛にお出ましいただき、闘牛場まで連れてくる儀式だ。ゴウホンが「請牛」を行う時には、以前は闘牛場で威勢の良かった「勇士」たちも、ちょっと元気がなくなる。ゴウホンは、「水牛様、どうぞ安心してあの世に行ってください。村人の祖先への想いを運んでください。祖先が村を加護してくださいますように」という意味の「コ蔵経」を念じる。

「旋堂」は、自慢の水牛を見せつける場でもある

 次の「旋堂」は、あの世の死者にお供え物を供えるための、お祭りの中でもっともにぎやかな活動だ。「旋堂」の隊列は、ゴウサが先導し、蘆笙の楽隊、水牛、それに新しい服と掛け布団を携えた女性とお供え物を担いだ男性が続く。隊列はまず、闘牛場を三周回る。一頭の水牛の横には、必ず一人が付き添っていて、彼らは手に、一人ひとり違ったものを持っている。鳥かごは、先祖が鳥の鳴きくらべが好きだったことを表し、魚網を持つ人の先祖は漁師、猟銃を持つ人の先祖は猟師、化粧用の鏡を持つ人の先祖は女性だったことを表す。三周回ると、今度は闘牛場で各種の出し物をして、亡くなった霊に対して哀悼の意を示す。この時には、周囲の山の斜面は、見学に来た人たちでにぎわっていた。

 その後、ゴウホンたちは、近所の人たちに、水牛を「駆旋」するよう求める。「駆旋」とは、牛をあの世に追い立てること、牛にコ蔵病を持ち去ってもらうことを意味する。この儀式は、一人のゴウホンが、数人の助手を率いて各家で行う。ゴウホンは手に一本の竹ざお(「駆竹」と呼ぶ)を持ち、各家で邪気払いの呪文を念じながら、竹ざおでリズムを取って敷居を叩く。この時、その家の人たちは必ずゴウホンの後ろに座っていなくてはならない。

 呪文の調子は重く、ゴウホンが、突然大声で「ヘイ!」と叫ぶと、助手たちはすぐに木の棒でところ構わず叩き、コ蔵病を追い払う呪文を大声で唱える。「駆旋」が終わると、ゴウホンは主人に向かって、「病は取り払われました」と伝え、家の人たちは、立ち上がってお礼を言う。

 「駆旋」の後は、悲壮な「敲牛」の儀式だ。これは、だいたい早朝三時以降に行われ、・蔵節のクライマックスに当たる。
 
「敲牛」の会場は、各家の門の前の空き地を利用している。そこには、木のくいで巨大なV字型が作られ、水牛は、ここで先祖へのいけにえにされる。ミャオ族は、水牛の死は壮烈な行為で、その行為には、人びとの先祖に対する想いが込められていると考えている。

 早朝3時、リーダーの家から三回の銃声が聞こえてきた。これは、屠殺された牛が、すでにあの世への旅路に着いたことを意味し、引き続いて他の家でも儀式を行うことができる。この時、韋さんの家の親戚、客人たちは、どよめいて立ち上がり、牛の頭をV字型の木のくいのところに掛け、後ろの一人が斧で首を叩き落した。屠殺された水牛には、新しい布団カバーが掛けられ、人々が安息を祈った。

 明るくなる前に、ゴウホンは、改めて水牛の前で「送牛」の儀式を行う。彼らは、手に竹のむちを持ち、邪気払いの呪文を唱え、思い切って牛の頭を叩いた。これは、屠殺された水牛が先祖のもとにたどり着いたとの意味を表す。

 夜が明けて村に出てみると、すべてのくいの上には、牛の頭が一つずつ掛かっているのを目にする。そして体は、すでに「贈肉」のために解体され、お祭りに参加していた人たちに贈る準備がされていた。

 最終日、客人が全員帰った後、最後の「封寨」の儀式を行う。この時には、村人もそうでない人も、村から出ることはできても、入ることはできなくなる。魔よけのためと言われていて、通常、3日間続けられる。

 私たちが、加去村を離れた日の朝、韋さんは私たち一人ひとりに「贈肉」を分けてくれた。「私たちの先祖は、コ蔵節に参加したお客さんみんなを加護するでしょう」と。(2002年8月号より)