【お祭り賛歌】


江西省撫州流坑村の春節
先祖守った神祭る千古一村

             文・張幇人 写真・魯忠民


神像を担いで村中を回る

 江西省撫州地区にある楽安県牛田鎮に、千年の歴史を誇る有名な村落がある。流坑村である。

 同村には、820戸、4700余人が暮らしている。面積は3・61平方キロあり、楽安県で一、二を争う大きな村である。五代時代・南唐の昇元年間(937〜942年)に成立し、大多数の村民が董姓を名乗り、漢代の大学者である董仲舒を始祖として崇めている。

 この流坑村は、独特な「三奇」で世に知られている。

 一つ目は、明・清代の民家建築の「博物館」と呼べること。村には現在、26の牌坊(鳥居形の建築)や楼閣、五十を超える古い祠堂(祖廟)をはじめ、明・清代の建築物が270以上も残っている。

遠方から流坑村を眺める
廟から神像を担ぎ出す村びとたち

 二つ目は、深い文化的蓄積があること。宋、元、明の三時代に、同村から出た進士(旧時、科挙の「殿試」に合格した者)は33人いた。そのうち、文、武の状元(「殿試」にトップ合格した進士)も各一人出ている。

 また、二百余人が主簿(旧時、文書簿籍をつかさどった官)や知県(県の長官)といった下級の官職や、司徒(土地と人民をつかさどった官)、尚書(六部の長官、省の官にあたる)、宰相といった上級の官職についている。

神像を担いだ行列が、古い町並みの中をゆく
丁寧に神聖な神像を磨く

 そのほか、豊富な文物資源が残されていて、歴史的名士の肉筆を含む各種の木製の扁額や対句の書画も、500以上残っている。

 三つ目は、「一村一姓」が千年も変わっていないこと。これは、古代宗族の社会研究の貴重なサンプルとなっている。

 流坑村の董姓が、千年にわたって守られてきたことは、その厳密な宗法(祖先を同じくする数家族が同様の規則を守る)制度や宗族(父系の同族集団)文化が重要な役割を果たしている。また、村のお祭りや文化的イベントは、宗族文化の重要な一部で、いまだに人びとの生活に影響を与えている。

 お祭りや文化的イベントは、春節(旧正月)に集中している。祖先を祭り、幸福を祈り、邪気を追い払う様々な活動は、衣食や爵禄が、いずれも天や祖先の恵みであることを子どもに教えるために行われる。特に重要なのは、「出何楊神」(何楊神を迎える)、「玩喜(跳儺)」(儺踊り)、「遊老爺」(神像を担ぎまわす)、「出灯」(ちょうちん祭り)などである。

村を練り歩きながら演奏する楽隊
もっとも敬虔なのはお年寄りの女性

 「出何楊神」(何楊神を迎える)は、これら四つの中でも、もっとも重要視されている。伝説によると、旧暦1月9日は何楊神の誕生日で、必ずお披露目が行われる。この日の日暮れ時から、前年に結婚した若い男性が神像を捧げ、村の一軒一軒を回る。各戸の主人は、彼らと一緒に回ってきた道士とともに呪文を唱え、ひざまずいて拝礼し、董姓の子孫が幸福であるよう祈る。どの家にも卓上に香炉が置かれ、ロウソクがともされ、ご飯を盛った碗が並んでいる。そして、香をたき、爆竹を鳴らし、何楊神を送迎する。

 何楊神は流坑村の主神であり、董氏の宋代の祖先である董敦逸と関係がある。董敦逸(1031〜1101年)は、流坑村の董氏の六世代目の祖先で、かつて戸部(現在の財政部に相当する役所)の侍郎(次官)を務めていた。

昼時、一息入れる村人たち

 言い伝えによると、彼は使節として遼国へ行ったとき、遼王に臣下の礼を行うよう命じられたが、国の体面を守るため、きっぱりと断わった。怒り心頭の遼王は、彼を土牢に閉じ込め、壁の数千字の黄陵碑の碑文を一晩で覚え、翌朝暗唱しろと命じた。

 その夜は月も灯りもなく、五本の指すら見えないほどの暗さだったが、忽然と蛍の大群が壁に集まってきた。その光により、董は碑文をそらんじることができ、翌日には、流れるように暗唱してみせた。驚き、感服した遼王は、董にテンという動物の毛皮を贈り、帰ることを許した。

一年の平穏無事を願って爆竹を鳴らす
赤い顔の関羽像は、もっとも信仰を集める像の一つ

 董は碑文をそらんじたあと、心の中で、どんな神さまが助けてくれたのか。お名前をお聞きできれば、国に戻ったあと、朝廷に報告して賞を授けていただこうと思うと念じた。すると、蛍が碑文の「何」と「楊」という二つの文字の近くに集まった。のちに彼は、同じ土牢には、かつて中原から派遣されて来た何と楊を名乗る二人の将軍が拘束されたことがあったと聞いた。この二人が中原の忠臣を救うため、霊験を現したのだろう。董は国に戻ると、命を救ってくれた二人の将軍への恩を忘れず、二人の像を造らせ、毎年お祭りを行うようになった。

 「玩喜」(儺踊り)は、お祭りになくてはならない内容である。流坑村の「玩喜」は、撫州地区独特の一派を創り上げていて、36のお面がある。その起源も董敦逸と関わりがある。

 言い伝えによると、董が隠居を願い出て、故郷へ帰る際、お付きの者に儺のお面を二つの籠に入れて担がせた。前の籠には武儺のお面、後ろの籠には文儺である。撫河を舟で渡っていたとき、強風が吹いて波が立ち、文儺の籠は水に落ちてしまった。しかし不思議なことに、お面は川をさかのぼり、南豊県にたどり着いた。そのため、南豊県には文儺のお面を使う儺踊り、流坑村には、武儺が伝わってきた。

祠堂の前で「玩喜」(儺踊り)を踊る
旧暦1月9日、前年に結ばれた新郎新婦は、何楊廟にお参りする

 明・清のころ、流坑村では毎年、旧暦12月24日から、村の青年や壮年が集まり、「玩喜」の稽古を行った。「玩喜」だけでなく、敵からの攻撃を防ぐための戦術や武術も訓練していた。また、病が流行すれば、盛大な「捜儺」(神が鬼を追い払う)の儀式も行われた。これは俗に「行清」と呼ばれていたものだ。そして旧暦1月になると、各戸を回って、「玩喜」を行っていた。

 この習俗は、徐々に村人全員が参加し、祖先を偲ぶお祭りに変わっていった。以来、毎年旧暦1月2日から14日には、前年に科挙の郷試験に合格したか、男の子を授かったか、妻を娶ったか、娘を嫁がせたかのいずれかの家では、人を儺神廟へ行かせ、儺神を迎えた。

 数多くのお祭りのなかで、もっともにぎやかなのは、仰山廟の旧暦1月11日の「遊老爺」(神像を担ぎまわす)である。この日の午前中、二十余の神像が廟から担ぎ出され、村の芝居用舞台の前に並べられる。そして、村人たちは主神菩薩の顔や体を洗い、拭き、衣服を整える。10時ごろ、家畜を殺して祖先を祭った後、猟銃や爆竹を一斉に鳴らし、すべての神像を高くかかげる。駕籠が先頭を切り、後方では旗や傘が華を添える。ドラや太鼓、その他の楽器の音が空高く響き、老若男女を問わず、家の前に香をたいて、神を迎える。

何楊像の隊列の中には、神に捧げる油、お供え物などの担当者もいる
ちょうちん祭りの隊列

 特に年老いた女性は敬虔で、神像が門前に来るたびに、必ず香やロウソクをたいて、うやうやしく、一年間、万事めでたく順調であることを祈る。神像が村の七本の縦道と八本の横道を回り終わるまでには、七、八時間も掛かる。見学者は道の両側にあふれ、神様を送迎する。爆竹の音は途切れず、煙がただよい、そのにぎやかさといったらない。

 昼間の神を迎える祭りが終わると、夜は「出灯」(ちょうちん祭り)である。旧暦1月8日から行われる祭りで、15日の元宵節にクライマックスを迎える。期間中には、8〜9の「竜灯」(竜の形をした灯ろう)も現れる。

 色とりどりで、ウマ、サル、ウサギ、魚などの様々な動物の形をしたちょうちんがあり、子どもが手に持ったり、棒につるして頭の上にかかげたりする。最前列はたいまつで、その後ろにはちょうちんが続き、さらに後ろには長い「竜灯」の隊列である。

 ドラや太鼓の音の中、隊列は村を回り、各戸に祈りを捧げる。各戸では爆竹を鳴らし、供え物などを並べたテーブルを置き、隊列を出迎える。「出灯」の数日間、流坑村の人びとは爆竹やドラ、太鼓の音の中で、にぎやかな眠れぬ夜を過ごす。

 元宵節が過ぎると、習俗に従い、「竜灯」は村はずれで全部焼き払われ、春節の祭りも幕を閉じる。(2003年6月号より)


※「儺踊り」については2002年7月号の『人民中国』「お祭り賛歌」にも紹介されています。