鎮遠県は、貴州省の東部・黔東地区の要衝である。紀元前202年、漢の高祖(劉邦)が「無陽県」を置いたところだ。時代は下って1986年、鎮遠県は中国の「歴史文化県」に指定された。県下にある109カ所の文物遺跡の中で、最も雄大かつ秀麗と目されているのが、国家級の文物保護単位「青竜洞」だ。

 
   
 
古建築の博物館・青竜洞

青竜洞を望む

 青竜洞は、鎮遠県城(県の中心地・ウー陽鎮)南部の中河山に位置する。敷地面積は2万平方メートル。ここに置かれた寺院や楼閣、学舎、会館など36の建物は、明清時代に建てられたものだ。狭い崖岸にそびえ立つさまは、壮観である。

 カルスト地帯のここでは岩石の浸食が激しく、いたるところ多くの穴がうがたれている。人々はその洞穴を巧みに利用している。鍾乳洞に観音廟を建てるなど、まこと野趣にあふれたものだ。

 600年前の建築家たちは、中原(黄河中・下流域地方)の建築様式と少数民族・ミャオ族の「吊脚楼」民家(高床式の住居)を結び合わせた。河岸を崩して土台をつくり、床を支える柱を立てて、崖に寄りそう楼閣を建てた。

 鎮遠県文物管理所の劉所長の案内で、我々はいちばん特徴的な「附崖建築」を見た。「呂祖殿」と呼ばれる建物の低層部分は吊脚楼だ。その手前半分は楼閣で、後ろ半分は洞窟になっている。「玉皇閣」の後ろ半分は岩壁をうがって建てられており、手前半分は懸空式(宙に浮いたような立体式)の木造建築なのである。

 実際、ここは平地が少ない。そのため高床建築の柱は、往々にして複数の場所に建てられている。たとえば「老君殿」にある12の柱は、5本が同じ平面に立ち、他の7本はデコボコの岩石の上に立っている。珍しいのは「望星楼」だ。「千仏岩」と呼ばれる錐状にとがった岩山に立ち、柱が内外の両側に分かれているのだ。内側の柱は岩山に立ち、外側の柱は岩山に登る石段の上に立っている。この「空中楼閣」を遠望すると、じつに勇壮、雄大である。

 「独木難支」ということわざがある。一本の木では家屋を支えられないという意味だ。しかし、ここには柱一本で支えるあずまやもあった。一見すると柱は六本あったが、床下の池まで回ってみると、岩礁の上に一本の支柱を差し込み、支柱の先には6本の角材を通して、その上に床を敷き、六角形のあずまやを建てていたのだ。

 青竜洞には、古代建築のさまざまな様式とすぐれた建築手法が残されている。視察した建築学者の絶賛を集め、ここは彼らに「古代建築の博物館」と称されている。

美しい母なるウー陽河

 ウー陽河は、別名「ウー水」「ウー渓」「武渓」「無陽河」などと呼ばれる。中国語の「ウー」の発音が、「無」または「武」と似ているからだ。ガイドさんの話によると、ここの少数民族は母親のことを「阿無」と呼ぶ。彼らはもともと、ウー陽河を「自分たち少数民族をはぐくむ母」と見なしているので、「母なる河」と呼んでいるのだ。

 ウー陽河は、全長400キロ。両岸に広がる田畑を潤し、いくつもの村や町をはぐくみ、水運の便をもたらした。それはまさしく、この土地に商業貿易の繁栄と民族間の交流をもたらし、歴史文化の古城をつくり上げたのである。

ウー陽河の孔雀峰

 その後、ここには道路や鉄道が設けられ、ウー陽河を行く船もしだいに減った。91年には、鎮遠県城の東部に水力発電所が建設され、水路は完全に閉ざされた。だが、ダム建設で水位が高まり、ダムの上流三十数キロ区間は、山峡の湖になった。10年間の開発をへて、ウー陽河は有名な「国家級の名勝地」になったのである。

 船に乗ると、ガイドさんが案内をしてくれた。

 「この三つの山峰は、美女三人がたたずむように見えるので『閨門三秀』と呼ばれます。あの獅子に似た巨石は『回首雄獅』(見返りの獅子)。ここの山並みや奇峰・怪石は千姿百態です。禽獣に似ているものをはじめ、『象鼻山』『駱駝峰』『金亀石』と呼ばれるもの、また『観音岩』『羅漢洞』など仙人に見えるものもあります」

 もっとも壮麗なのが、孔雀峰の景観だろう。河辺に屹立する二つの石峰は、その底部がつながっている。大きな石峰は高さ54メートル、直径16・2メートル。高々と尾羽を上げた孔雀に似ている。小さな石峰は高さ40メートル、直径5メートル。孔雀が頭をもたげたようだ。遠望すると、まるで華麗な羽を広げた孔雀の姿にそっくりである。

青竜洞・万寿宮の舞台

 ウー陽河の水はエメラルド色で、水質もよい。深さの違いや気候の変化によって、水の色はエメラルドをはじめ濃緑、深緑、薄緑、黄緑などに分かれる。オシドリが泳ぐ鴛鴦湾は濃緑色で、計り知れない水深だ。「一線天」と呼ばれるところは、青山が河面に映えた深緑色。大雨が降ると増水し、河の色は黄緑になる。

 両岸の山は豊かな緑にめぐまれている。河面に垂れるホウライチクは、茎が細く、葉が茂り、緑の衣を羽織ったしなやかな女性のようだ。船が通るとふわりと揺れて、手を振るようでもあり、おじぎをするようでもあった。

捕虜再生の和平村

 鎮遠県城の和平街には、かつての「在華日本人民反戦同盟和平村」があり、略して「和平村」と呼ばれている。そこには、敷地面積6192平方メートルの長方形の建物があり、高い塀に囲まれている。もとは「貴州第二模範監獄」(刑務所)であったが、39年から44年までは「第二日本捕虜収容所」として、日本人捕虜合わせて700人あまりを収容していた。

現在、再建中の和平村跡。ここには貴重な史料や写真が、数多く保存されている

 抗日戦争の初期、国共合作(国民党・共産党の協力)により、国民政府軍政部が成立した。周恩来氏が副部長となり、その下に三つの庁(機関)が設置された。郭沫若氏が庁長を務めた第三庁は、日本軍への宣伝工作、捕虜の管理や教育などを行った。

 彼らはまた、日本の反戦作家である鹿地亘、池田幸子夫妻を香港から重慶へと招請、「在華日本人反戦同盟」を組織した。多くの同盟員たちは、積極的に反戦活動を行った。そのなかでは、対敵心理戦術で日本軍に呼びかけをした3人が、爆殺されるという不幸なできごともあった。

 奇遇なことに、本誌を創刊した康大川・元編集長(88歳)は当時、和平村の中佐主任管理人であった。康大川氏は若いころ、日本の早稲田大学に留学した。その後、38年に軍人になり、帰国して抗日戦争に参加した。

長谷川敏三さんは、「同盟員」を率いて和平村をたびたび訪れた。向かって左端が康大川さん、右から4番目が長谷川さん(和平村・提供)

 41年、康大川氏は郭沫若庁長と部下の馮乃超科長に派遣され、和平村で日本人捕虜の感化工作にあたった。捕虜の人格を尊重し、彼らとともに寝起きした。彼らを率いて、山に行ってはワラビ取りや栗拾い、河に行っては魚やエビをつかまえて、収容所の食事を改善した。また捕虜を組織し、山の木を伐採して、木彫りの車や船、飛行機などの玩具をつくり、村の入り口で販売をした。

 鹿地亘さんは、なんども和平村を訪れた。その訪問記は、国内外でセンセーションを巻き起こした。国際赤十字(IRC)が、視察のためにある代表を派遣した時のことだ。彼は、康大川氏が日本人捕虜と同室で寝起きしていると聞き、驚いて言った。「あなた一人が捕虜といて、夜になったら絞め殺されるかもしれないのに、恐くないのか?」。康大川氏は笑って答えた。「恐くないですよ。私は日本人捕虜と友だちです。彼らを信頼しているし、彼らも私を信頼しています」。それは、IRCの代表を感動させた。「私は全世界を歩き、ほとんどすべての捕虜収容所を訪ねているが、このように秩序のある、素晴らしい収容所を見たことがない」

抗日戦争時代の鎮遠県・和平村(和平村・提供)
中国服に着替えた鳥居龍蔵博士(乗馬した人物)とその一行(東京大学総合研究博物館・提供)

 抗日戦争勝利後の1946年3月、和平村反戦同盟の137人の捕虜は、長谷川敏三隊長の統率により、船に乗って帰国した。康大川氏が見送った。同盟員たちはその後、東京で集会を開き、「生涯、日中友好と世界平和のために奮闘する」と誓いを立てた。長谷川さんは82年から87年までの5年間に三度、同盟員を引き連れて、和平村を訪れた。万感胸に迫った彼は、こう言った。「鎮遠は、我々の再生の地であり、第二のふるさとです」

 故あって参加できなかった同盟員の中野宇一さんは、手作りの木彫観音像を第三次訪中団に託した。観音像を平和のシンボルとしたのである。それは今でも、和平村の陳列室に飾られている。(2003年2月号より)

【ミニ資料】
 貴州省の概況 略称は「黔」または「貴」。亜熱帯温暖湿潤モンスーン気候地帯にあり、冬温かく、夏涼しい。年平均気温は摂氏15度。年平均降水量は、1200ミリ。人口は3525万人。漢族以外に、ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、イ族などの少数民族が1333万9000人(省人口の37.8%)居住している。