貴州省東部の施秉県から西南へ50キロほど行くと、黄平県である。同県の重興郷には、グージャー(グー家)と呼ばれる人々が居住している。その美しい服飾や珍しい弓矢の崇拝、恋愛と結婚の習俗は、訪れた人々に忘れられない印象を与えてくれる。

 
   
 
緑に覆われた木楼

グージャー人が居住する重興郷望バ村

 重興郷望ハ村は、一面に棚田の広がる山の斜面に位置している。農作業の合い間には、男たちは竹細工を、女たちは刺繍やろうけつ染めなどの手工芸品を、それぞれ作る。

 ここに住む家族は、全部で285戸。廖、羅、楊、王、高の各姓に分かれるが、すべてグージャー人である。うっそうと茂る緑の木々や青竹に映える民家は、そのほとんどが礎を築いた瓦屋根の木造家屋だ。

 民家の造りは、大体同じだ。案内をしてくれた重興郷の副郷長・廖文聖さんの家は、母屋が土台を一段高くした大きな平屋、その東側が二階建ての小さな建物で、中央の庭はたいそうな広さであった。

 母屋は、広間を真ん中にしている。広間はふだん、家族の者が食事や休憩、接客をする場所である。広間の東側は寝室、西側は小さな客間だ。客間には炉があるので、冬になると火をおこして暖をとり、食事や接客をする場所となる。炊事場も広く、大きなかまどが配されていた。

 東側の二階建ては、二階が倉庫と娘たちの部屋である「閨房」の二間に分かれていた。スッキリと整頓されており、友だちと集う時にはピッタリだろう。一階の二間は、農機具を置く物置きと、牛小屋だった。農家は牛を大切にしている。牛小屋と広間正門の門枠には、厄を払い、家内安全を願うショウブの葉が差し込まれていた。

ろうけつ染めを自ら施すグージャーの娘たち。嫁入り前の盛装として着飾るものだ

 広間正門の敷居は高く、出入りするたびに足を高く上げなければならない。そこには、村人たちの苦心と知恵が詰め込まれているという。――農作業に出かける親が、時々子どもを広間で遊ばせておいたが、高い敷居があれば、子どもが外まで這い出せない。そのため親も安心だった。また、家禽のニワトリやアヒルの進入を防いだため、広間もずいぶんきれいになった。

 木造家屋は風通しがよく、耐震、防湿に効果的だという特長があるので、多雨多湿の山岳地帯に適している。近年、ある村人が外の世界の影響を受け、レンガ造り・瓦屋根の家を建設しようとした。それについて、廖さんはこう話してくれた。

 「グージャー寨(村)は、今では国内外に知られる観光スポットとなりました。レンガ造り・瓦屋根の家とここの伝統的な民家とはアンバランスで、グージャー文化に害を及ぼしかねない。そのため地元政府は、レンガ造りの家を許可しなかった。もしもレンガ造りの家を建てるなら、村を離れた指定の場所でなければならないのです」

弓の名手の物語

 廖文聖さんの家の広間には、正面の壁に「天地君親師」の位牌が祭られ、その下には神棚が設けられていた。神棚には香炉や湯のみなどが供えられており、さらにその下には、土地神の位牌が設けられていた。それは、農耕民族の信仰習俗によく似たものだ。

グージャーの女性たちが伝統的な織物技術で、ゲートルのような足巻きを編んでいた

 奇異だったのは、「天地君親師」の位牌の右上に、小さな弓矢が掛けられていたこと。廖さんによると、弓は桃木の枝を曲げたもの、弦は木綿糸からなり、五本の竹矢を弦の上に掛けていた。弓矢には赤と緑の木綿糸がぐるぐると巻かれており、その鮮やかな色には目を奪われるほどだった。

 グージャー人が弓矢を崇拝するのは、弓矢が邪気を払い、たたりを鎮め、家庭に平安無事をもたらす祖先の魂であると見ているからだ。2、3年ごとに弓矢が古くなると、大安吉日を選んで新しい弓矢を作り、厳かな供養をした後で新たにそれを掛けるのだ。

 研究によると、こうした習俗と彼らの祖先が狩猟で生きていたことは関係があるという。村にも「先祖がトラを射ったが、死闘の末に共倒れになった」という悲壮な物語が広く伝えられている。しかし、グージャー人の言い伝えによれば、弓矢はやはり世の中に幸せをもたらすものとされている。

グージャー人の末裔

 ――むかしむかし、天空に七つの太陽が現れた。それは大地と万物を焼き焦がしたために、人々は途方に暮れた。幸いグージャーには、弓の名手が一人いた。彼は巨大な矢を持って山に登り、二本の樹木に藤づるをつないで弦として、たわんだ梢を弓とした。そして、東から太陽が昇るのを見るなり、次々と矢を放ち、六つの太陽を射落とした。最後の太陽は恐れおののき、山の中に隠れたために、あたりは真っ暗になってしまった。皆は太陽の叔父にあたる雄鳥を迎え、毎日三回、高々と鳴いてもらった。こうしてようやく太陽が現れ、世界に光が戻り、昼と夜が入れ替わって万物を育み、人々はみな幸せに暮らしたという。

 その後、グージャー人たちは代々弓矢の崇拝を伝承してきた。広間で供養するだけでなく、日常生活や服飾の上にもそれを表している。その昔、男たちは外出の際に必ず、腰刀や弓矢、楽器の蘆笙を携えた。それはじつに勇ましく、実用的だった。山道を歩く時には、いばらの道を刀で切り開いた。獣を射止め、田畑のスズメを追うには、弓矢を用いた。そして蘆笙は、娯楽と祭祀の楽器であった。

 未婚の娘たちは、赤い房のついた丸い帽子をかぶっていたが、その形は真っ赤に燃える太陽のよう。しかも真ん中には、長く鋭い銀のかんざしが斜めに差し込まれていた。この珍しい装飾は、まさに太陽を射止めた英雄の遺風をたたえているのであった。

さっそうとした女傑たち

 望ハ村そばの楓香寨でも、娘たちが赤い房のついた丸い帽子をかぶっていたが、それにまつわる話は異なる。

自宅広間の梁に小さな弓矢を掛けるのは、グージャー人の崇拝のならわしだ

 ――グージャーにはもとから武芸を修める伝統があった。男たちは勇ましく、馬術と弓術にたけていた。娘たちも武術や馬術、弓術に優れていた。ある年、あるグージャーの娘が都へ向かい、武芸の試合に参加して、すべての男を打ち負かした。そして皇帝から赤い房のついた丸い帽子を授かった。ここから、グージャー人に自信と誇りを与え、娘を華やかに引き立てる帽子が、その装飾品になったのである。

 グージャー女性の服装にも特徴がある。彼女たちは、藍色の地に白い模様のついたろうけつ染めの上着を着ている。また、えりとそで、そで口、前身ごろに、さまざまな幾何学模様が赤い絹糸で刺繍され、地味な生地にも鮮明な赤が浮かび上がっている。

グージャー人の独特の服飾

 面白いのは、娘たちの祭日の盛装だ。彼女たちは上着の上に、もう一枚の貫頭衣ふうのショールをはおる。後ろから見ると、平らで角張った形のショールには、赤白の絹糸が交互にタテヨコのデザインで刺繍されている。それは、古代兵士の鎧を連想させる。さらに腰巻やスカートのような布と、ゲートルのように足に巻く赤い布ひもも彼女たちをさっそうとした姿に引き立てている。女傑のようだと言ってもいい。

 聞くところによると、この戦袍(古代兵士の長衣)にも似た服飾は、グージャーのある祖先から伝わったものだ。彼はもともと江西省に住む勇敢な将軍で、輝かしい戦功により、皇帝から褒賞である戦袍を賜った。派遣されて、黔(今の貴州省)へと入ったのが六百年あまり前。彼は自らその栄光を刻み込むために、戦袍をまねた鎧式のショールを娘に作らせた。そして娘に着用させて、脚にはゲートルを巻かせたのである。

足を踏んで求愛を

 毎年、春節(旧正月)から1月15日の元宵節までと、旧暦の2月2日には、望ハ村とその周辺のグージャー寨で次々と「イネ青会」が開かれる。若い男女が公開されたゲームで、自分の恋人を探すという伝統的な行事である。

鳥居龍蔵博士がかつて貴州省黄平県重安江で撮影したミャオ族の青年(東京大学総合研究博物館・提供)

 「ツァイ青会」が始まると、年寄りたちがまず、蘆笙場と呼ばれる広場に入り、先人の狩猟を表現しながら踊りはじめる。続いて、農耕と村の起こりの歴史を表す蘆笙舞が行われる。その後、蘆笙を持った若者たちが、蘆笙を吹いたり、踊ったりしながら、東側から入場をする。手に手にハンカチを持った娘たちも、蘆笙の演奏に合わせて軽やかに舞う。踊りながら辺りをうかがい、気に入った異性を探すのだ。

 楽曲のリズムが速くなり、山場になると、男たちは気に入った娘の方へ蘆笙を吹きつつ近づいていく。そして自分のつま先で、彼女のつま先を軽く踏む。もしも娘の方でも彼を気に入れば、彼の背中を軽くたたいて袖を引き、人影のないところで互いの気持ちを伝えあうのだ。こうした「かわいい妹の足を踏み、見初めた兄の心を打つ」求愛方法を、人々は「ツァイ姑娘」(娘を踏む)と呼んでいる。

 言い伝えによれば、こうした習俗は、グージャーのある娘の縁談にまつわる故事からきているという。その娘の名は鳳凰。働き者で賢くて、糸つむぎに機織りに、ろうけつ染めに刺繍など何でもできた。ある時、彼女は自らろうけつ染めと刺繍を施した衣服をまとい、女友だちとともに蘆笙場を訪れた。若者たちは、その仙女のような美しさに見とれ、彼女の周りで蘆笙を吹いては求愛をした。

 グージャーのしきたりにより、両親が亡くなった娘の結婚は、一族の長か村の長老が、親に代わって決めていた。そのため、彼らは村の長老たちに次々と「彼女と結婚できるように」と願い出た。あまりにも多くの求愛者がやってきたので、いったい誰が適任者なのか、選択するのは困難だった。

 長老たちは策を講じて、娘に自ら選ばせようと決めた。求愛者たちは、蘆笙舞でたくみに彼女のつま先を踏まなければならなかった。彼女に気に入られ、背中をたたかれ、長老に婚約を認めてもらうためである。

 足を踏んで求愛する者が、それほど多いとは誰が知っていようか。押し合いへし合いで足を踏まれた彼女は、ついに命を落としてしまった。村人たちは彼女を悼んで埋葬し、それ以後も鳳凰を祈念する「ツァイ青会」を続けようと決めた。また、そんな悲劇からは、娘の足を軽く踏み、愛情を表現しようという教訓も得たのである。 (2003年4月号より)

【ミニ資料】
 貴州省の概況 略称は「黔」または「貴」。亜熱帯温暖湿潤モンスーン気候地帯にあり、冬温かく、夏涼しい。年平均気温は摂氏15度。年平均降水量は、1200ミリ。人口は3525万人。漢族以外に、ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、イ族などの少数民族が1333万9000人(省人口の37.8%)居住している。