中国最大のミャオ族の村・西江ミャオ寨

 貴州省東南部に位置する雷山県西江鎮は、四方を山に囲まれた町だ。山の斜面に沿うように民家が建てられており、軒がびっしり連なっている。白水河というひとすじの河がふもとを流れ、河辺と山の中腹に拓かれた緑の棚田が、遠くまで延びている。

 中国では鎮(町)が末端の行政単位にあたり、村がその管轄下にある。西江鎮は南貴、羊排、カ陽など12の村の集まりで、合わせて約千百世帯、人口5900人あまり。全員ミャオ族であるため、「千戸ミャオ寨」と称されている。貴州省だけでなく、中国でも最大のミャオ族の村なのである。

 

変わりつつある「吊脚楼」

山の斜面に沿って建てられたミャオ族の吊脚楼

 村に入り、石畳の道を上って行くと、目にするのが山沿いに建ち並んだ民家であった。いずれも木造の「吊脚楼」(高床式の住居)である。木の柱を基礎にして、住居の前半部分を支える柱は長く、山に依る後半部分を支える柱は短い。その柱と柱の間に板を敷くと、一つのフロアができあがる。建物は多くが三階建てであり、宙に浮いているように見えるので、「吊脚楼」と俗に呼ばれる。

 中国南方の山あいの村には、こうした建物が数多くある。風通しがよく爽やかで、湿気を防ぎ、獣の侵入が避けられる。貴州や雲南など湿気の多い山間地区にはふさわしい建物である。

 吊脚楼の低層階(一階)は、ふつう牛小屋かブタ小屋にしたり、農機具などの物置にしたりする。二階中央の最も広い部屋を応接間にして、その両側の部屋を台所と寝室にするのが一般的だ。三階は子どもの勉強部屋と客間、倉庫である。経済的に余裕のある家なら、建物の前か後ろに、吊脚楼式の倉庫や稲掛けを増築するのだという。

 とくに強調したいのは、吊脚楼には釘が一本も使われていないことだ。ほぞをはめ込み、つなぎ合わせて十分強固に建てられている。なんとも合理的な設計で、住み心地がよく、実用的な建物である。

「わが家は十星クラスの文明の家ですし、メタンガス生態安全モデルの家、観光客接待ポイントの家ですよ」と誇らしげに語る楊昌元さん

 ここ数年来、ミャオ族の村のようすも時代とともに進化してきた。商品経済の風が吹き込み、吊脚楼の構造も変わりつつある。たとえば、通りに面した多くの家では、一階を家畜小屋にしなくなった。壁を造り、窓を設けて、店舗を開くようになったのだ。そうすれば収入は上がり、村人たちにも便宜が図れるというわけだ。

 羊排村に住む楊昌元さん(48歳)の家を訪ねた。二階に上がると、そこは台所であった。防火のためにと、木製からレンガの壁に変えられており、かまどには白いタイルがはめ込まれていた。

 思いがけなかったのは、この家ではなんと燃料にメタンガスを使っていたこと。メタンガスは、家畜の糞と人間の糞尿を、密封したメタンガス池に流し込み、自然発酵させて作り出したものである。メタンガスを燃料にすると、柴刈りの労をはぶき、山林を保護し、家畜の糞による環境汚染も免れる。それと同時に、発酵により一部の病害虫が駆除できる。水田や野菜畑にメタンガス池の肥料を使えば、農薬や化学肥料の使用が減らせる。まさに一挙両得ならず「一挙多得」である。ただ、こうしたやり方はまだ始まったばかりで、羊排村では38世帯しか利用されていなかった。残りの240余世帯はメタンガス池を設けておらず、今後の発展が急がれていた。

山を出る人、村へ入る人

 また、別の農家を訪問した。あいにく主人の楊武さんと奥さんは広州へ出稼ぎ中で、老いた母親と二人の子どもが家の留守を預かっていた。中国の改革・開放以来、貴州省の農民たち――とくに豊かさを求める若者や中年世代は、次々と連れ立っては北京や広州、深ロレ、他の沿海地区などへ出稼ぎに行った。お金を稼ぐとともに視野を広げた彼らは、外の情報を山村へと持ち返った。楊家の応接間の隅にあった大きなカラーテレビと、壁沿いに据えつけられたタンスから、出稼ぎがかなりの収入をもたらしていると思われた。

赤ちゃんが生まれて満一カ月になると、必ず長テーブルにごちそうを並べて祝う。ミャオ族の祝祭日に行う習俗の一つだ

 楊家の二人の子どもは、とても賢く、かわいらしい。大都市の子どもが遊ぶようなリモコンのおもちゃはないが、来客を見るなり手製のぬいぐるみのトラや水牛を持ち出して、水牛に小さな犂をかけ、水田をすくような遊びをして、じつに楽しそうだった。

 興味深いのは、ここの村人たちが続々と山を出ている時に、都会に久しく住む人々が当地の民族風情に魅了され、団体を成して観光やレジャーのために来ることだ

った。アメリカや日本、フランスなどの国から来る人も少なくない。彼らはミャオ族の人たちといっしょに、牛角の杯で酒を飲んだり、作りたての鶏肉粥を食べたり、食欲をそそる酸 湯 魚(魚入りの酸っぱいスープ)やもち米で作ったホホ(餅食品)を味わったりする。渓流のほとりで釣りをしたり、木陰に座って読書をしたり、広場の蘆笙場で、銅鼓舞や蘆笙舞を踊ったりする人もいるという。

自宅前にも橋を祭る場所がある

 都会から来た娘たちは、ミャオ族女性独特の刺繍入り上着やスカートをまとい、牛角の形をした銀のかんむりや各種の銀製装身具を飾って、記念写真におさまる。農家にホームステイし、山村の静けさと吊脚楼の杉材の香りを楽しみ、遊び足りるとミャオ族の刺繍入り衣服やろうけつ染め作品、銀の装身具などの工芸品を買って、都会へと戻るのである。

 中には、ミャオ族文化に心酔し、ここに長く逗留している海外の画家や舞踊家、音楽家、工芸家、学者らもいる。アンナ・シャデーというアメリカの人類学者は、考察のため何度もここにやってきた。ある時などは一年も滞在していた。両親を呼び、人里離れたこの「ユートピア」を楽しませたのだという。村人たちはみな彼女と知り合いになり、親しく「アンナ」と呼んでいる。

橋祭る奇妙な風俗

 石畳の小道を歩いていると、小川にかかる三枚の石板の上に、点々と残る血痕が目に入った。石橋の四隅には、紙製の花のついた小さな竹輪と線香が挿し込まれていた。不思議に思って尋ねると、ある人がここで橋を祭ったのだという。

 ミャオ族には、もともと橋をかける伝統があるそうだ。村全体や一族で、または個人で出資して、渓流の上に平らな桁橋やアーチ橋、風雨橋(屋根つきの橋、廊橋)などをかけわたす。通行人の便宜を図るだけでなく、善行を積んでいるため、村や家族、本人にも吉祥や安全、健康がもたらされると見なされる。そこから、橋の信仰崇拝と橋を祭る風習が生まれたのである。

村の小学校で二年連続して優等生に選ばれた楊勝敏ちゃん(左端)。自宅ではおばあさんの代わりに、小さい弟の子守りもできる

 ミャオ族には「万物に魂がある」という考え方が伝わっている。たとえば、結婚してから久しく子のない者なら、子の魂が渓流に阻まれている。橋をかけてこそ初めて魂がわたって来られるし、妊娠できると考えられている。子を授かるためにかけた橋は「求橋」と称される。また、病気や厄を除けるためにかけわたし、祖先に守ってもらおうとする橋は「保橋」と呼ばれている。こうした橋の形や造り、大きさ、かけわたす時間や場所は、いずれも祈祷師によって決められる。

 渓流に実用的な橋をかけるほか、自宅の玄関や応接間、あるいはベッドの下などに象徴的な橋を埋めるのは、興味深い。たとえば、地面に浅い長方形の穴を掘り、その中に四、五枚の杉板をつないで小橋とし、さらに土をかぶせて平らに埋める。門枠の上に、ひと束のチガヤをかけて「橋」とする人もいる。いわゆる「心が至り、神が知る」という行いである。

貴州省貴定県のミャオ族(東京大学総合研究博物館)

 旧暦の2月2日は「橋祭り」の日である。橋をかけた者が古い橋を修築するか新しい橋をかけるが、その際に、風習に従って「橋の神様」を祭るのだ。ニワトリとアヒルを手に提げ、茶や酒、もち米のご飯、赤と緑に染めたゆで卵、線香、ロウソク、紙銭などの供物を持って来て、自分がかけた橋のたもとに供物を並べる。ニワトリとアヒルを絞めたら、その血をまいて橋を祭り、一本の赤い糸を橋に結ぶ。儀式が終わると、儀式に用いた食材で支度をし、野外での会食となる。通りかかる人があれば、必ず食事に誘うのだ。急ぐ者があっても、三杯の酒を勧め、一人に二つのゆで卵を贈るのである。

 一族で造った「保橋」なら一族が、村全体で作ったものなら村全体がそれぞれ出資し、ともに祭る。その後、橋のたもとにかまどを作り、野外での会食を楽しむのである。

 橋祭りには、髪の毛に赤い糸を結んだ子どもを連れて行く。赤い糸を結ぶのは「運命の神」が子どもを守るよう、子どもが健やかに成長するよう願うのである。子どもにとっても、この日は存分に遊べるし、赤と緑のゆで卵が食べられるので嬉しくてたまらない。そのため、橋祭りを「児童節」(子どもの祭り)と呼ぶ人もいる。(2003年7月号より)

【ミニ資料】
 貴州省の概況 略称は「黔」または「貴」。亜熱帯温暖湿潤モンスーン気候地帯にあり、冬温かく、夏涼しい。年平均気温は摂氏15度。年平均降水量は、1200ミリ。人口は3525万人。漢族以外に、ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、イ族などの少数民族が1333万9000人(省人口の37.8%)居住している。