現代的な都市に向かってまい進する貴陽市

貴州省の省都・貴陽市は、美しい山間の都市である。しかし、かつては公害により、市街区の河川が悪臭を放ち、空には粉塵がたちこめ、酸性雨が降り注いでいた。近年、市政府は巨資を投じて河流を浄化し、日本との協力で「環境モデル都市」を建設。貴陽市はまさに「森の都」を打ち立てるため、努力している。

 

  貴陽市は、貴山の南に位置しているため、その名がついた。古代貴陽は竹の産地で、竹製の楽器「筑」を作ったことから、「筑城」と略称される。貴陽は四方を山に囲まれ、河流が市内を貫いている。冬暖かく、夏涼しい穏やかな気候は、なんとも住み心地がよい。それは美しいまでの山間の都市なのだ。

貴陽が「ノッポになった」

 宿泊先の「鮮花大酒店(ホテル)」から出て、繁華街の「中華路」を散策した。通りの両側には商業ビルが林立し、往来がたいそう盛んだ。そびえ立つ現代的なデパートやホテル、オフィスビル、金融ビルなどを見るにつけても、沿海都市に来たかのようだ。

 聞くところによると、現在、貴陽の地価が高騰している。マンションの建築にしても、不動産業者は建物をどんどん高層化している。かつての低くて古い建物と比べ、市民たちは「貴陽がノッポになった」と冗談を言い合っている。

いこいのスポットへ

六百年の歴史をもつ「甲秀楼」は、高層ビルのもと、その美しさがいっそう際立つ。この明代の古建築は、貴陽市のシンボル的な建物だ

 ビルの谷間を抜けると、目の前が突然開けてきた。「人民広場」に着いたのだ。

 南明河畔の人民広場は、もとの名を「春雷広場」といい、「文化大革命」中の1968年に創建された。当時は主に、大衆の政治集会に使われていた。

 99年に改修・拡張工事が行われ、芝生が広く植えられた。広場の大時計でさえも、たくみな円形花時計となった。赤にオレンジにと花壇の花も咲きほこり、人々の目を楽しませている。市の中心に、新たな景色を添えているのだ。

 かつての政治的な広場が市民のいこいの場所となってから、ここでさまざまな文化娯楽やイベント活動が行われている。山間の都市に、文化的な色彩を添えているのだ。

 特筆すべきは、2001年に開かれた国際囲碁文化祭である。日本でも知られる囲碁の大家・呉清源氏が、碁盤に黒石を打って文化祭が開幕。その後、中日韓三国囲碁世界チャンピオン争覇戦、国際女子囲碁大会、国際コンピューター囲碁大会招待戦などがあいついで行われている。とくに、中国、日本、韓国、ロシア、ハンガリー、アメリカ、シンガポールなどから集まった棋士4002人の対戦は、世界最大規模の囲碁大会と称えられた。陳祖徳、金庸、呉啓泰などの名人が司会をした囲碁解説や、資料も豊富な「囲碁五千年」展覧会は、いずれも囲碁文化の一大イベントであった。

南明河の浄化と緑化を

貴州市郊外に位置する「貴州セメント工場」

 玉帯にも似た南明河は、市街区の24・7キロを流れている。その上流が、人々を引きつけてやまない花渓河だ。しかし、流れは市街区に入ったとたん、工場廃水や生活排水によって汚染される。ときには河川が黄色くにごり、悪臭を放って、市民から厭われるほどであった。

 2001年、貴陽市政府は30億元(1元は約15円)の巨資を投じ、3年の努力を通して南明河の水質を浄化、河岸を緑化し、美しい景観にすることを決めた。そのため政府は10コース・39項目の環境改善計画を実施。たとえば、@上流地域の農地を林にもどし、山林を育てる、A市街区に10本の汚水防止溝(全長57・7キロ)を建設する、B汚水処理場を五カ所建設し、1日49万立方メートルの汚水処理を行う、C11・7キロの河床を浚渫し、1メートル掘り下げる、D草木を植え、河岸12万5800平方メートルの土地を緑化する、など……。

人民広場にそびえる毛沢東塑像は「文化大革命」の時期から残るもの。現在、大都市ではほとんど見られなくなった

 南明河を整備するため、政府は市民の意見を広く求めた。たとえば、南明河の景観規画を制定する前、担当者らは街頭で聞き取り調査を行った。市民たちも積極的に協力し、さまざまな意見を出した。それは、@南明河の景観は、自然を主体とすべきで、緑地面積を増やす、A沿岸にスポーツや読書の場、囲碁の碁盤、トイレなどを設備する、B橋梁を多く設け、身体障害者のための専用道路を整備する、C河川の浄化後、プールなどの施設を設ける、など……。

 今年6月30日午前零時、政府の関係部門は、沿岸の汚水源とされる207の機関に対し、法的な廃水検査を行った。多数の機関は基準をクリアしていたが、基準を超えた製薬工場と一部の機関は、法にもとづき、差し押さえと閉鎖の厳重処罰を受けた。その英断は市民の好評を博し、環境面でも良い効果が表れているという。

環境モデル都市に制定

 貴陽は雲貴(雲南・貴州)高原の盆地に位置し、四方を青山に囲まれている。厳寒・酷暑がなく、降水量が多く、四季を通じて砂嵐がない。人々には「天然のエアコン都市」と称されている。

南明河畔のペット市場

 しかし、貴陽の発電所、製鋼所、貴州セメント工場などの「汚染源」およびその他の企業が排出する煤塵、粉塵が、いちじるしく大気を汚染している。とくに、高硫黄分を含む石炭を燃焼させると二酸化硫黄が生じ、それが排出されて、酸性雨となる。風が弱く、湿度の高いこの盆地では、酸性雨の被害がとりわけ大きい。観測によれば、酸性雨は現地の年間降水量の21%を占め、貴陽は「中国三大酸性雨都市」の一つとなっている。

 そこで、96年に貴陽市政府はさまざまな大気汚染の改善措置を講じた。たとえば、400以上の企業に石炭火力ボイラーの改造を求め、期限までに煤煙の排出規制を達成させた。また、街頭にあった2万以上の石炭かまどの使用を押さえ、石炭ガスから液化天然ガスなどクリーン・エネルギーの使用に改めさせた。

 97年9月の中日首脳会談で、中日の協力による「環境モデル都市構想」が打ち出された。その後、両国の専門家委員会の考察をへて、貴陽と大連、重慶が環境モデル都市として選定された。うち貴陽は、いちじるしい大気汚染を改善する140平方キロをモデル地区とし、2005年には貴陽を「中国環境保護モデル都市」とする計画だ。このため日本政府は貴陽に対し、総額144億3500万円の円借款を供与した。貴陽発電所、製鋼所、貴州セメント工場などの汚染源は、同比率の出資を負担した。

 そのうちの一つ、貴州セメント工場を訪れた。劉工場長の話によれば、ここにはもともと4台のロータリーキルン(回転円筒窯)があり、煤塵や粉塵を年に9855トン、二酸化硫黄を同4694トン排出していた。粉塵汚染により、一部の労働者は珪肺などの重病にかかった。それは工場付近の地面や木々の葉にもふりつもり、住民たちはしきりに苦痛を訴えた。

街頭の屋台に座り、自分で包んで食べる「春巻き」は、貴陽のスナックの特色だ。観光客に数十種もある具の材料を提供している

 98年、セメント工場は3232万元を調達、そこに4億8500万円の円借款を加えて、中日間協力による環境モデル都市の諸項目をスタートさせた。汚染のもととなっていた4台の旧式ロータリーキルンを取り払い、先進技術を駆使した新しいロータリーキルンを導入、さらにクリーン炭の使用や生産工程のクリーン化などを行い、煤塵・粉塵を9484トン(96・2%)、二酸化硫黄を3939トン(83・9%)、それぞれ削減することができた。

 セメント工場は、得がたい円借款を大事に使った。設備を買い入れるのに、新聞、雑誌、インターネットなどから広く情報を集め、各社の製品を比較、さらに入札方式を通して、優良で廉価な設備を選んだ。庭園式の工場エリア内の一草一木に対し、工場長から労働者まで、みな宝物のように大切にした。

 汚染の改善には、一時的に巨額の投資がかかるが、長期的には社会に福をもたらし、従業員や労働者の健康を守るばかりか、経済効果も期待できる。劉工場長は「生産に新技術を採用してから、セメントの質が上がり、生産率や製品の市場競争力が高まった。また、回収した煤塵や粉塵、石炭の燃えがらなどの廃棄物を、さまざまな総合利用製品に再加工すれば、さらに大きな利益が得られよう。わがセメント工場は、円借款の期日までの返済に対し、絶対的な自信を持っている」と語る。

 喜ばしいのは、市長から市民までがみな西部大開発を達成し、新しい貴陽を建設するには、持続可能な発展の道を歩むべきである、と意識していることだ。「以人為本、環境立市」(人を重んじ、環境を重視する)をモットーとする王暁東・貴陽市共産党委員会書記は、「環境書記」の名を冠されている。彼は、貴陽市を内外二重の「環城林帯」(都市環状グリーンベルト)で囲む「森の都」建設構想をとなえて、市民たちから支持されている。

はたおりをする貴州省坡貢ミャオ族の女性(鳥居龍蔵博士顕彰会・提供)

 50年代に造られた第一環城林帯は、幅数キロ、全長70数キロ、ヒスイのネックレスのように貴陽を取り囲んでいる。2000年に建設工事をスタートした第二環城林帯は、幅5〜13キロ、全長304キロ。市の郊外に数十キロも連綿とつづく貴陽森林公園、長坡嶺国家森林公園(面積230平方キロ)を主体とし、建設中の梅園、桂花(もくせいの花)園、杏園、玉蘭(ハクモクレン)園、桜花園、竹園など6つのテーマ公園(面積2万ヘクタール)、および公園と公園の間に植栽する生態林、経済林などで構成される。

 第二環城林帯は2010年に完成する予定。貴陽環城林帯の一人あたりの面積は、現在の87平方メートルから、207平方メートルへと増加する。貴陽市民は、「国家優秀観光都市」「国家衛生都市」の称号を基礎にして、さらに「国家庭園都市」称号の獲得を心から望んでいる。2003年12月号より