山西省・平遥(下)
生気をはなつ彩色塑像
――双林寺、鎮国寺

写真 文・馮進

 

 
 

双林寺釈迦殿の壁面の塑像には、壁塑と懸塑を合わせた手法がとられた。釈迦牟尼の一生の物語が、48組のシーンで表されている(宋代末期から元初)
 

 悠久の歴史をほこる山西省平遥県の平遥古城は、古代文物の「宝庫」として知られる。これまでに発見された地上・地下遺跡や古代建築は三百以上にのぼり、対外的に発表された各級(レベル)の文物保護単位は、99カ所を数える。

双林寺千仏殿の中央に配された自在観音は、別名水月観音とも呼ばれる。このように落ち着いた顔立ち、背筋をピンと伸ばした観音菩薩の座像は珍しく、貴重な塑像芸術として高く評価されている。向かって左下に立つのが護法神の韋駄天(明代)

 とりわけ、国家級の重点文物保護単位である双林寺、鎮国寺の二つの寺は、平遥を代表する文物であり、その特色に満ちあふれている。ここには、五代十国時代(907〜960年)の古代建築や寺院の中に、異なる時代の彩色塑像がほぼ完全な形で残されている。国内外の専門家たちに、「世界でもまれな文物至宝だ」と称えられ、人々の注目を集めているのである。

 近年来、山西省の観光資源が開発されるにともなって、平遥古城を訪れる観光客も増加の一途をたどっている。古い民家や双林寺、鎮国寺の彩色塑像の逸品が、観光客に深い印象を与えているのである。現場視察をへたユネスコは1997年12月3日、平遥古城と双林寺、鎮国寺の「一城両寺」を、世界文化遺産リストに正式に登録した。

双林寺羅漢殿内の主仏「十八羅漢、観音に拝謁する」(宋代)

 双林寺は、平遥古城から西南へ約6キロの橋頭村に位置し、古城南門からは車で約十分の至近距離にある。

 もとの名を中都寺と言う。建立年代は古く、寺院に残る北宋の大中祥符四年(1011年)の碑文によれば、この寺は北斉武平2年(571年)に改築され、そこから数えてもすでに1400年以上の歴史をほこる。南向きに建てられており、敷地面積は1万2000平方メートル。中庭が前後に三つあるつくりの「三進院」で、天王殿、釈迦殿、千仏殿、大雄宝殿など11の主要な仏殿が配されている。

「守衛」は、双林寺天王殿の回廊の軒下に立つ金剛立像で、高さ3メートル。双林寺では最大の塑像だ(明代)

 寺院には、宋、元初、明の各時代の彩色塑像が合わせて2056件あるという。こんにちまでほぼ完全な形で保存されており、「東方の彩色塑像芸術の宝庫」と称えられているのである。塑像は、最も大きなもので高さ3メートル、最も小さなもので30センチと、その大きさや姿態、表情はさまざまだが、いずれもきわめて精巧につくられている。

双林寺千仏殿内の壁面群塑。上下5、6層に分かれ、菩薩の塑像は計531体。寺全体の塑像の4分の1を占める(明代)
双林寺菩薩殿内の主仏・千手千眼観音(明代)

 塑像をつくるには、平遥産の粘性の強い赤粘土と砂、麦ぬか、粟のわら、綿、麻紙、方形の鉄釘、針金、木材、ガラス製の眼球など十種類以上の材料が必要だ。製作は、木骨の組み立てから肉付け(粗い粘土の上塗り)、着衣(細かい粘土の上塗り)、彩色までの各プロセスにわかれる。

 塑像には、高い写実性と懸塑(壁に懸けられた塑像)の手法がとられており、それが双林寺の彩色塑像芸術の大きな特色となっている。立体的な視覚効果はバツグンで、まるで生きているかのように躍動感にあふれた塑像が、見る者の心を打つのである。

双林寺釈迦殿にある釈迦牟尼仏の右の脇侍・普賢菩薩(宋代末期から元初)

 近づいてよく見ると、表面には光沢があり、精緻な細工が施され、素材の質感が十分に生きている。色彩は目を奪われるほどに美しく、とりわけその眼球は、双林寺の塑像芸術の中でもひときわ精彩をはなっている。仏像の眉や目の縁、眼球などは、人間の解剖学原理にてらして精密につくられ、中でも黒ガラスをはめ込んだ眼球は輝くばかりで、仏像に生気と迫力を与えている。

 もうひとつの特色は、それが中国古代の彫刻・絵画芸術を踏襲した上で、それぞれの長所がきわだつ彩色塑像芸術を打ち立てたことである。はだの色や服装などに異なる色をつかう際には、塗る、染める、描く、刷る、点描する、こする、拭くなどさまざまな手法で、生き生きとした塑像をつくり上げたのである。

双林寺釈迦殿にある釈迦牟尼像の左の脇侍・文殊菩薩(宋代末期から元初)

 双林寺では、各仏殿の彩色塑像にそれぞれきわだった特徴がある。千仏殿にある自在観音の左側に立つ韋駄立像は、仏像の一般的な配置とは異なっている。大きさは人の背たけぐらい、ガラス製の眼球がはめ込まれており、その姿は勇ましく、双林寺でも傑出した作品となっている。

双林寺羅漢殿の十八羅漢の頭部(宋代)

 韋駄天は、増長天(四天王の一)の部下にあたる勇猛果敢な将軍で、一般的な寺院の韋駄立像はみな、天王殿の中央に置かれた弥勒仏の背後の厨子の中に納められている。双林寺のように、自在観音(観音菩薩の化身の一つ)のわきに配された韋駄立像は、中国の仏教寺院の中でもまれに見るものだという。

 伝説によると、こうである。文殊菩薩が観音菩薩の誕生祝いに、山のような贈り物を用意して、韋駄天に持たせ、向かわせた。しかし贈り物は、途中で出くわしたトラにすっかり食べられてしまった。韋駄天はすかさずトラを退治したものの、両手はカラでなにもない。しかたなく南海の観音菩薩のところまで行ったが、心中穏やかではなく、洞の前をうろつくばかりで、観音菩薩に会わせる顔がなかった。

鎮国寺万仏殿に収蔵されている五代十国時代の彩色塑像

 しかし観音菩薩は、韋駄天が果敢にもトラを退治したようすをこっそりとうかがっていた。そして、韋駄天に好感を持ち、心から思った。「文殊の贈り物はとどかなかったけれど、その代わりにすばらしい護法神を与えてくれた。それもまたよし」

 観音菩薩は、訪ねてきた韋駄天に言った。「韋駄天や、さきほど起こったことはすべて見ていたのですよ。贈り物をなくしたことは問題ではない。ただ、あなたが叱責されるのではないかと心配しているのです。ついてはここにとどまり、護法神として仕えた方がよいのでは……」。こうして、双林寺の韋駄立像は、観音菩薩のわきに護法神として配されたのである。

 鎮国寺は、もとの名を京城寺と言い、平遥古城から東北へ約12キロのコツ洞村に建てられている。明代の嘉靖19年(1540年)に鎮国寺と改称された。南に向かって建てられた二進院で、1万3000平方メートルあまりの広大な敷地をほこる。天王殿や万仏殿、三仏楼、鐘楼、鼓楼などの建物からなる。

鎮国寺万仏殿に収蔵されている五代十国時代の彩色塑像
中国最古の木造建築の一つ、鎮国寺万仏殿(五代十国時代)
鎮国寺万仏殿は数回にわたる改修をへたものの、唐代の建築様式を完全なまでに今に伝えている

 うち五代十国時代に建立された万仏殿は、鎮国寺では最も古く、千年以上の歴史に彩られている。数回にわたる改修をへたものの、唐代の建築様式を完全なまでに伝える、中国に現存する最古の木造建築の一つだ。

 建物は、ほぼ正方形を呈しており、屋根は大きく、ひさしは深く、軒先はそれぞれ反り上がっている。重厚で精密につくられた屋根は壮観で、見る者を圧倒するほどだ。

 寺院には、五代十国、元、明、清の各時代の彩色塑像51体、壁画百点あまりが保存されている。うち、万仏殿にある11体の彩色塑像は、中国の寺院に残る五代十国時代の唯一の作品だ。精緻をきわめた細工や芸術性から、世にもまれなる逸品と称されている。中国がほこる彫像・塑像の歴史に、重要な一ページを刻んでいるのである。(2002年5月号より)