馮進=写真・文


 

 中国最大の淡水湖、ハ陽湖のほとりにそそり立つ廬山は、その独特な姿によって昔から、文人墨客を魅了し、李白や蘇東坡、毛沢東らが詩で廬山を称えた。山中には数々の歴史の舞台となった建築郡が点在し、いまも人々を引きつける。

 廬山国立公園は1996年、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。


如琴湖の朝霧(廬山風景区管理委員会提供)

 廬山は中国・江西省北部の九江市にある。ここは江西、湖北、安徽の三省が境を接しているところで、長江の中流の南岸に位置し、ハ陽湖に接している。標高は1474メートル。山の面積は280平方キロ。

 廬山の地質構造は非常に古く、かつ複雑であり、それは地殻変動の主な歴史プロセスをはっきりと示している。つまり廬山は、断層により両側の地盤が陥没し、堤防状の高地が残ったホルスト地形の独特の山なのである。

 廬山を表現するのには「雄」「奇」「険」「秀」の四文字が適当である。奇峰や峻険な尾根が尽きることなく続き、古来より命名された峰は171もある。谷間や岩の洞窟、怪石が複雑に組み合わされ、湖沼や瀑布、渓流は美しく、壮観である。

 これらは二百万年前の第四氷河期の気候変動がもたらしたものなのだ。1930年代に、中国の有名な地質学者の李四光は廬山を科学調査し、ここに多くの第四氷河期の遺跡があることを発見した。しかも中国の東部において第四氷河期の遺跡がもっとも集中的に、もっとも典型的に保存されている山は廬山であることが分かった。

廬山には磨崖石刻がいたるところに見られる。この「廬山」の二文字は2メートル×1・5メートルあり、宋代の南康太守が書いたもの。「山」の字の縦棒の中に、人が一人横のなることができる

 1982年、国務院(中央政府)は廬山を、国家重点風景名勝区とすると認可した。そしてユネスコに、世界文化遺産としてリストに登録するよう申請したのだった。

 廬山風景名勝区の面積は302平方キロ。それを取り巻く保護地帯の面積は500平方キロに達する。風景名勝区は、山上と麓にある七つの区域から成り立っている。ここには秦漢時代以前の文化遺跡が22カ所、唐代までの文化遺跡は600余カ所あり、474カ所ある景勝の中に磨崖石刻は900余カ所、石碑は300余カ所ある。

 廬山は、その特殊な地理的な位置と特殊な地質構造によって、河川や湖沼、斜面、山地などのさまざまな地形と第四氷河期遺跡の独特の特徴を具えている。そして長江、ロカ陽湖と渾然一体となって独特の壮麗な景観を形成している。

スケールの大きい眺め

唐の詩人白居易が書いた「花徑」の2字は、千百年後に発見され、掘り出されて、花徑亭が建てられた。廬山の重要な歴史的景観の一つとなっている

 一山飛峙大江辺  
一山 飛ぶがごとく 大江の辺  に峙え
 躍上葱蘢四百旋 
  躍りて上る葱蘢 四百の旋
 (訳は、武田泰淳、竹内実著の『毛沢東 その詩と人生』による)

 この人口に膾炙している詩は、毛沢東が1959年夏、廬山に登ったときに詩情を催して書き下した七律「登廬山」の第一句である。毛沢東はわずか十四文字の中に、廬山の雄大や険峻な自然景観を一挙に総括して描き出し、この偉大な人物の大きな度量を示したのである。

155メートルの落差がある三畳泉の滝

 麓の九江市から車で廬山に登る道は、蛇のようにくねくねと曲がり、毛沢東が詩の中で詠んだように、四百回以上も右に曲がり、左に曲がって、眩暈を催すほどだ。それほど廬山は険峻である。

 行くことおよそ二時間。風景名勝区の中心であるコ嶺鎮に着く。廬山の北の峰に位置する・嶺鎮は、三方を山に囲まれ、一方は谷に面し、一頭の牝牛のような形をしているため、コ嶺鎮と呼ばれるようになったという。

 夏の廬山は、ザアーと雨が降ってはすぐにあがる。雨がやむと、山あいからたちまち霧が湧き上がる。風に吹かれた濃い霧は、山の尾根に沿って這い上がり、あっという間に道という道を覆い尽くしてしまう。小さな山あいの鎮は見えては隠れ、霧の中を歩くとあたかも天国を歩いているかのような錯覚にとらわれる。

廬山の別荘群は、600余りの建物があり、コ嶺一帯に集中している

 今のコ嶺鎮は、現地の住民が住み、生活している以外に、各地から来た観光客の多くがここに宿泊している。ホテルやレストランが、山あいのこの小さな鎮の街道に沿って両側にびっしり並び、観光客で大いににぎわっている。

 陽が西の山に落ちると、濃い霧はだんだんと消えて行き、街道がだんだんとその姿を現す。人々の姿は次第に少なくなって行き、鎮は白昼の喧騒から静けさを取り戻すのだ。

詩に詠われた廬山の風光

湖畔の別荘(廬山風景区管理委員会提供)

 廬山の悠久の歴史は、前漢(紀元前206〜紀元8年)以前にまで遡ることができる。伝承によると、今から4000年前、夏王朝の初代帝王の禹は、治水のためにこの地にやって来たが、ハ陽湖の中にある大孤山(鞋山とも言う)から洪水が向かう方向を観察し、洪水を治める方法を研究したと言う。

 この伝承は、文字に記載されてはいないが、紀元前126年に、前漢の歴史家、司馬遷が廬山に遊び、考察した際、その著書『史記』の中でこのような記載を残している。

 「余、南ニ廬山ニ登リ、禹ノ九江ヲ疎スルヲ観ル」(疎は水路を通すの意味)

 これが、最初に歴史資料に記載された廬山に関する記述である。以来、歴代の文人墨客が廬山の名を慕ってここに遊び、その思いを詩や詞に託してきた。東晋(317〜420年)以来、廬山を詠った詩や詞は、四千余首にも達する。

明の洪武26年(1393年)、太祖朱元璋が詔を発して建てた御碑亭。これは瓦、屋根の棟、壁、柱、門がすべて石で造られた石亭である

 東晋の詩人、謝霊運の「廬山ノ絶頂ニ登リ、諸橋ヲ望ム」や南朝(420〜589年)の詩人、鮑照の「石門ヲ望ム」などはどれも、中国最初の山水詩の一つである。田園詩人と言われる陶淵明は、一生涯、廬山を背景に創作活動に従事し、中国の田園詩の詩風を拓いた。有名な『桃花源記』はその代表作の一つである。

 唐の時代になると、廬山を詠った山水詩の創作は、芸術的絶頂期に達する。李白は五回も廬山に遊び、十四首の詩を残した。その中で「廬山ノ瀑布ヲ望ム」はとくに世に知られている。

 日照香炉生紫煙 
  日は香炉を照らして紫煙を生ず
 遥看瀑布挂長川 
  遥かに看る瀑布の長川を挂くるを
 飛流直下三千尺 
  飛流直下す 三千尺
 疑是銀河落九天 
  疑うらくは是れ銀河の九天より  落つるかと
 (訳は、青木正児著『李白』による。「長川」を「前川」とする説もある。)

廬山には豊富な野生植物が2155種もあり、その中には希少植物が97種ある

 李白は、ごうごうと音をたてて落ちる廬山の滝を、美の極地にまで高めた。この詩は「絶唱の佳作」と称えられ、この数十年、中国の中学校の国語で必修教材になっている。

 北宋の詩人蘇軾(蘇東坡)も廬山に遊び、絶世の佳作「西林ノ壁ニ題ス」を残している。

 横看成嶺側成峰 
  横に看れば嶺と成り、側には峰  と成る
 遠近高低各不同 
  遠近高低おのおの同じからず
 不識廬山真面目 
  廬山の真面目を識らざるは
 只縁身在此山中 
  只身の此の山中に在るに縁る
 (訳は、近藤光男著『蘇東坡』による)

 蘇軾はこう詠って、廬山の「真面目」のために不滅の墨跡を残し、この詩は後世まで伝えられ、これを知らぬ中国人はいない。

歴史の舞台となった別荘群

1903年に建てられた美廬別荘

 清の光緒11年(1885年)、外国人では初めて、ロシアの商人が廬山にやって来て、土地を租借し始めた。次いで英国の宣教師が来て、英国政府の対清政策と外国勢力を利用して圧力をかけた。その結果、その年の11月29日、九江の道台と英国の駐九江領事とが、廬山・コ嶺の長沖谷を999年間、租借する『コ牛嶺案十二条』に調印した。このときから英、米、仏、独、露など十八カ国の人々が次々に廬山にやって来て、コ嶺に別荘を建てたのである。

 1930年代になると、廬山は、当時の国民政府の「夏の首都」となった。蒋介石は何回も廬山の美廬別荘にやって来た。この美廬別荘は、英国のナイトの称号を持つ人物が1903年に建てたもので、1922年にある外国人女性の手に渡り、その女性が蒋介石の夫人、宋美齢と個人的に深い付き合いがあったため、1934年、蒋介石夫妻にこの別荘をプレゼントしたのだった。

美廬別荘内の宋美齢が使った寝室

 1937年夏、中国共産党の指導者の周恩来が廬山に二回やって来て、美廬別荘で蒋介石と交渉し、有名な『国共合作の公表についての中共中央の宣言』を提出し、国共両党の第二次合作を促し、抗日統一戦線を形成した。

 今でも廬山には、600以上のさまざまな様式の別荘があり、有名な避暑地となっている。毎年夏が来れば、国内からも外国からも観光客が引きもきらずにやって来ている。(2004年9月号より)