北京の旅・暮らしを楽しくする史話
 

わたしの北京50万年(第1話)
 北京の点と線――はじめに

              文・李順然 写真・馮 進

  50万年も昔の北京原人から
北京を舞台に脈々と続く人類の歩み
そこに現われたあの事件この人物
『三国志』の劉備は北京っ子だった
詩仙李白は北京で詩を詠んだ
わかき日の毛沢東は北京で恋をした
こうした点と点とを繋いでいくと
浮かびあがってくる一本の線・・・・・・
 

         劉備も北京っ子

 国内旅行にしろ、国外旅行にしろ、帰りの飛行機が北京の上空に差しかかると、毎度のことながら知らず知らず身を乗り出すようにして、窓の下の景色に目を向けています。

いまでは故宮と呼ばれている紫禁城。この紫禁城の前に立った色彩の魔術師梅原竜三郎は言った。「樹海の中の金色の甍と赤い壁の楼閣の景観は世界無類……」

 西に広がる平野、その先の方に横たわる山脈、あのあたりには50万年も昔の人類北京原人シナントロプスペキネンシスが暮らしていた洞窟の遺跡が残っているのです。この一帯からは北京原人の頭蓋骨だけでなく、20万年前の人類、新洞人、2万年前の人類、山頂洞人の骨や歯、石器なども出土しています。また、1万年前から4、5千年前の新石器時代の人類の遺跡となると、北京市門頭溝区の東胡林など、北京の東西南北に散らばっていますが、それを追うようにして北京に現われたのは燕という国でした。この燕の最初の都の遺跡も、北京市房山区の董家林一帯で発掘されています。多くの学者は燕国の誕生を紀元前1046年としています。北京は都としても三千年以上の歴史をもっているのです。

 燕は、全国統一をなしとげた中国最初の皇帝、秦の始皇帝(紀元前259〜前210年)によって紀元前222年に滅ぼされますが、始皇帝は紀元前215年の各地巡行のさいに北京に立ち寄っています。兵馬俑で知られる西安の驪山陵から出土したあの豪華な四頭立てのお召し馬車に乗ってきたのかもしれません。

故宮の東北の角にある角楼からは、近代的な大都市が眺められる。

 始皇帝が死んだ翌年(紀元前209年)には、北京の守備にかりだされていた河南省の農民出身の下士官、陳勝と呉広の反秦の造反が起きました。農民蜂起です。これはなんとか抑えつけたのですが、造反は各地に広がっていきました。劉邦(紀元前247〜前195年)、項羽(紀元前232〜前202年)が活躍する時代です。垓下のたたかいで項羽を破って漢の皇帝の座に着いた劉邦は、反乱制圧のためみずから北京一帯に乗り込んでいますし、一方の項羽も北京の南の石家荘に近い鉅鹿にまで兵を進めて秦の大軍を破っています。

 すこし下って三国時代、『三国志』でおなじみの劉備(161〜223年)は、北京生まれの北京っ子でした。『北京文化総覧』(北京師範大学出版社)にある歴代の北京出身の著名人のページには、劉備の名前が堂々と記されています。一方の曹操(155〜220年)は南の江蘇省の生まれですが、建安12年(207年)には大軍を率いて北京の土を踏んでいます。始皇帝、劉邦、項羽、劉備、曹操・・・・・・どうやら北京は英雄を生み、英雄を呼ぶ土地なのかもしれません。

         李白が見た北京

 下って隋(589〜618年)になると、南の杭州から北京までの南北大運河を開いた第二代皇帝煬帝楊広(569〜618年)が、この運河に船を浮かべて北京にやって来ていますし、続く唐代(618〜907年)では、やはり第二代皇帝太宗李世民(599〜649年)が、高句麗に出兵したとき、みずから北京を通って前線に赴いています。前線から帰った太宗は北京に憫忠寺というお寺を建てましたが、この寺は法源寺と名を変えて現在も北京市宣武区に残っています。

 唐代には、李白(701〜762年)、孟浩然(689〜740年)、高適(706〜765年)といった詩人も北京を訪れています。『北京歴史紀年』(北京出版社)によると、各地歴遊の旅に出た李白が北京を訪れたのは天宝11年(752年)の旧暦の10月から11月にかけてで「燕山の雪花大なること席の如し、片片吹き落つ軒轅台」と北京の雪景色を詠った「北風行」などの詩を残しています。

什刹海は北京の西北にあり、西
海、后海、前海からなっている

 この旅で、李白は北京一帯の節度使(軍政長官)安禄山(?〜757年)が反乱をおこそうとしている気配を感じ、これを憂う詩も作りました。とかく見落としがちな忠臣としての李白の一面をうかがわせる詩ですが、はたせるかな、3年後の天宝14年(755年)に安禄山は北京で反唐の兵を挙げ、都長安をも攻めおとし、風流皇帝玄宗李隆基(685〜762年)が蜀(現在の四川省)に逃れるという一幕もありました。安禄山は北京の燕にちなんで国号を大燕とし、北京を燕都を呼び、皇帝の座に着きましたが、6年足らずのハプニングでした。史書でいう「安史の乱」です。

           五朝古都

景山公園の万寿亭か
ら北を眺めれば、す
ぐ隣に清朝の歴代皇
帝の神像をまつった
寿皇殿が見える。ま
た、北京城の中軸線
に沿って北に、元、
明、清代に時を報じ
た鼓楼と鐘楼がある
景山公園の万寿亭から西には、中国に現存する最古の古代園林である北海公園の瓊島の上に建つ白塔が望まれる
早朝の天安門

 その後、契丹族の遼(938〜1125年)、女真族の金(1115〜1234年)、蒙古族の元(1271〜1368年)が北京に都を置きます。遼と金の場合は、南に北宋、南宋などがあり、完全な「天下の都」ではありませんが、元の場合は、ジンギスカン(1162〜1227年)の孫フビライ(1215〜1294年)が全国統一をなしとげたので、北京は文字通り「天下の都」となりました。フビライは、これまでの都の東北に、現在の北京のルーツとなる壮大な新しい都を建設しました。北京を、遼は「南京」、金は「中都」、元は「大都」と称しています。

 元に続く全国的政権の明(1368〜1644年)、清(1644〜1911年)の首都も北京でした。清は満州族の政権です。よく北京を「五朝古都」と呼ぶのは、遼、金、元、明、清の五朝が都を置いたからです。故宮、天壇、頤和園、明の十三陵、八達嶺の万里の長城、北海公園・・・・・・などなど、北京の名所旧跡の多くは、元、明、清のころのものです。元代にはイタリアの商人、マルコ・ポーロ(1254〜1324年)、明代には日本の画家、雪舟(1420〜1506年)、清代にはベルギーの宣教師フェルビースト(1623〜1688年)・・・・・・と、かなりの外国人が北京を訪れ、北京を世界に紹介し、また世界を北京に紹介しています。

 中国の最後の封建王朝清は、辛亥革命によって1911年に倒れました。映画『ラストエンペラー』に描かれているように、1924年には清朝のラストエンペラー溥儀が皇居紫禁城(故宮)から追放されています。

 1937年から1945年までの北京は日本軍に占領され、その植民地支配のもとにおかれました。この暗い日の北京市民の暮らしは、北京で生まれ、北京をこよなく愛し、北京を描き続け、北京で死んだ作家、老舎(1899〜1966年)の代表作『四世同堂』に、北京人のことばで記録されています。日本語にも翻訳され出版されていますが、この小説の舞台として登場する胡同(横町)「小羊圏胡同」は北京西北部の護国寺近くの小楊家胡同がモデルです。老舎はこの胡同で生まれ、ここで童年時代をおくっています。いまも残っているこの小楊家胡同から、あの胡同、この胡同を縫って積水潭という池のほとりまでの30分ほどのコースは、一年、四季折り折りの北京の匂いを感じさせてくれるわたしの好きな散歩コースです。

梅蘭芳の故居は西城区の護国寺
街9号院にあり、もとは慶親王
府の一部であった。故居の中に
は、彫刻家の劉開渠らが制作し
た漢白玉製の梅蘭芳の像がある
小楊家胡同。ここから新街
口大街まではすぐそばだ。

 1949年は、50万年の北京の人類の歴史にとって特筆されるべき年でした。この年の10月1日、若き日のひとときを北京でおくり、1918年には天安門の前で中国革命の先駆者李大艪フ「庶民の勝利」という演説を聞いて感銘した毛沢東が、30年ぶりに北京の土を踏み、明、清の宮殿の表玄関である天安門、自分にとっても思い出のある天安門、しかもその楼閣の上から、全中国に、全世界に向かって、中華人民共和国の成立を宣言し、その首都を北京としました。北京はこの日から中国の民衆の首都となったのです。

 余談ですが、若き日の毛沢東は北京で同郷の楊開慧との恋の花を咲かせています。先ほどふれた市内のお寺、法源寺に二人が連れだって行った記録も残っています。1919年のことです。二人は北海公園などを散歩し、森の都北京の街角の樹に毛沢東と楊開慧の頭文字MとYを刻ったという話も伝えられています。毛沢東と楊開慧は、1920年の冬に長沙で結婚しています。

          北京の点と線

 50万年という北京の歴史をフルスピードで「わたし流」におさらいしてみました。北京原人から現在の北京っ子まで、この長い長い歴史のなかに現われたあの事件、この人物・・・・・・、こうしたさまざまな点と点を繋いでいくと、一本の長い長い線が浮かびあがってきます。わたしは北京に住んで半世紀になりますが、今日もこの点と点とを繋いで長い長い線を手繰っていくクロスワードパズル解きのようなゲームを楽しみながら、北京を遊歩しています。

皇帝の御苑であった高さ43メ
ートルの景山に登れば、朝陽
門内大街を望むことができる。
元代には斉化門と呼ばれ、明
代に朝陽門と改称された。

 この遊歩のなかで、見たり、聞いたり、語ったり、考えたり・・・・・・、楽しいことです。北京を舞台に人類が和から戦へ、戦から和へ、さらに和から戦へ・・・・・・と繰りひろげてきた大スペクタクル――ときには血で血を洗う大スペクタクルのなかにも、わたしはいつも人類の和を求める心が底流に貫かれてきたのを感じるのです。そして、それが農耕民族と遊牧民族と狩猟民族の融和、北方人と南方人の融和、儒教と仏教と道教の融和・・・・・・と和の輪をゆっくりと大きく広げて「和を貴しとなす」とか、「和して同ぜず」とかいった中華民族の心を育くみ、培かってきたように思うのです。一本の糸、いや一本の太い棒のように・・・・・・。こうしたなかには、また一万年前の北京に住んでいた東胡林人の巻貝で作ったネックレスや牛の骨で造ったブレスレットから、清朝になって東北部の満州族が北京に持ち込み改良した旗袍(チャイナドレス)などなどにもかいま見られる北京っ子の美も求める心を感じるのです。これも一本の糸、いや一本の太い棒のように・・・・・・。

 前置きが長くなりました。この『わたしの北京50万年――北京の旅・暮らしを楽しくする史話』では、北京の50万年の歴史の大河を遡るわたしの北京遊歩から、だいたい年代順にあれやこれやの点を拾いながら、筆のすすむままに綴ってみようと思っています。なにか線のようなものが浮かんでくればいいのですが・・・・・・。いずれにしろ、あなたの北京の旅、暮らしに、いくらかでも色を添えられればいいなと願っています。あくまでも、その時、その場の素人の「感」であり、「勘」であり、「理」や「学」ではありません。あしからず・・・・・・。

 来月の第二話では「漢方薬と北京原人」というタイトルで、50万年前の人類北京原人の謎を追ってみようと思っています。(2002年1月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。