わたしの北京50万年(第6話)
劉邦とその子孫たち――漢

                    文・李順然 写真・祁慶国

  項羽を敗って漢の皇帝となった劉邦は
大軍を率いて北京を征圧した
息子の劉建を燕王に立て 北京を治めさせ
そのごも
劉沢 劉嘉 劉定国 劉旦・・・・・・と
劉氏一族が燕王の座に着いている
この漢代の北京を
洛陽に向かう日本の使者が通ったかも・・・・・・
 

劉邦と北京

大葆台前漢墓の墓室

 全国を統一し、万里の長城を築いたり、西安の兵馬俑で知られる驪山陵を造ったりした秦王朝は短命でした。始皇帝が全国を統一(紀元前221年)してからの11年と、2世の胡亥の3年ほどの治世、そのあとを継いだ子嬰は紀元前206年に皇帝としてではなく、秦王として劉邦に降伏しています。子嬰の在位はわずか46日間でした。3人あわせても15年の天下だったのです。

 秦滅亡に火をつけたのは、始皇帝が死んだ翌年(紀元前209年)に起きた陳勝、呉広の造反でした。陳勝と呉広は、北京の守備に駆りだされていた河南省の農民出身の下士官です。北京郊外の慕田峪の万里の長城あたりに駐屯していたようですが、移動を命ぜられ、安徽省の宿県にさしかかったとき大雨に遇い、命令された時間通りに目的地に着けなくなりました。当時、この種の命令違反は死刑と、決められていました。陳勝、呉広は、どうせ死ぬなら積もり積もったうっぷん晴らしに、いっそのこと造反しようということになったようです。

 これに誘われるかのように、全国各地でも反秦の火の手があがりました。劉邦(紀元前247〜前195年)、項羽(紀元前232〜前202年)も反秦の旗をかかげて登場し、やがて劉邦、項羽対決の時代を迎えます。そして紀元前202年に、垓下(安徽省霊壁県)で、劉邦が項羽を破って漢の初代皇帝の座につきます。漢の高祖です。

 話を北京に絞りましょう。漢誕生当時の北京地区に君臨していた燕王は、臧荼でした。臧荼はもともと燕の将軍でしたが、反秦の戦いでは項羽のもとで働き、その功を認められて燕王になった人です。つまり項羽の人脈上の人物です。

大葆台前漢墓の「黄腸題ソウ」

 劉邦が項羽を破って漢の皇帝になったという知らせに震えあがりました。すぐに反漢の兵を挙げ、西に向かい、代地(河北省蔚県)を攻めます。劉邦はみずから大軍を率いて出陣し、臧荼を捕え、大勝利を収めて反乱を征圧しました。

 代地は河北省といっても北京に近く、追い討ちをかけた劉邦が北京の土を踏んだのはほぼ確実で、史書にも劉邦の大軍が上谷(現在の北京市延慶県)を平定したという記載があります。

 臧荼に替って燕王の座についたのは、太尉(国防相)を務めていた盧綰でした。盧綰は劉邦旗上げのときからの仲間です。それだけではありません。劉邦の父親と盧綰の父親は親友、そして劉邦と盧綰は同じ日に、同じ村で生まれた竹馬の友なのです。劉邦にとっては、もっとも信頼できる男を、北京を支配する燕王に任命したといえましょう。

 ですが、7年後(紀元前195年)には、盧綰が敵に通じているという密告が劉邦のもとに届きました。劉邦は都、長安に盧綰を呼んで事の真相をただそうとしますが、盧綰は病気を口実に長安行きを拒み、劉邦の疑いは決定的なものになります。この年、劉邦は盧綰の王位を廃して自分の末子、八男の劉建を燕王に立てました。盧綰は匈奴の地に亡命し、その生涯を終えています。

燕王劉建の墓

新の王莽の時代に発行された貨泉

 こうして、漢の各地の王から異姓はすべて粛清され、王は劉氏一族だけとなりました。劉邦は「国王は劉氏一族があたる」と言って、秦の郡県制にたいして漢は、各地に国を設け、国王には皇族をあてる郡国制をとったのです。

 劉邦が紀元前195年に死ぬと、皇后の呂后が、その子を恵帝として皇帝の座につかせ、自分は呂太后として漢の実権を握りました。呂太后が執権した15年に実行したのは「呂家天下」、つまり呂氏一族の登用です。燕王の劉建は劉邦の子なので、さすがに手をつけかねていましたが、劉建が死ぬとすぐに一族の呂通を燕王に立てました。紀元前180年のことです。

 しかし、呂太后はこの年に死んでしまい、呂通の燕王在位はわずか1年で、そのあとはまた劉氏一族が復活し、劉沢、劉嘉、劉定国、劉旦、劉建、劉舜、劉コウ、劉嘉と、前漢の燕王は、みな劉氏一族が名を連ねています。いずれも劉邦の子孫たちです。

 ここで名が挙がっている劉旦は、在位50余年で前漢の全盛時代を築いた武帝劉徹(紀元前156〜前87年)の息子です。また劉建は武帝の孫にあたり、前述の劉邦の八男で第3代燕王だった劉建とは同姓同名の別人です。劉嘉も2人いますが、やはり同姓同名の別人です。

 この第九代燕王、劉建の墓が、1974年に北京市豊台区の大葆台で見つかりました。老荘思想の原典『荘子』に「天子の棺椁は七重なり」ということばがありますが、掘りだされた劉建の棺椁も七重で、棺は楠で造られていました。

 また、棺椁のまわりは樹齢百年以上の1万5880本のコノテガシワの木を横に並べて囲んでいます。これは「黄腸題ソウ」という様式で、漢代の皇室の埋葬様式にかなうものでした。

 この墓の西側から王妃の墓が発掘されましたが、これも王は東、王妃はその西という漢代の皇室の埋葬様式によるものです。

 400点を越える副葬品のなかで目を見張るのは、朱塗りの3輌の馬車と、それを引く11頭の馬です。劉建が生前使っていた実物で、生き生きしており、劉建が死んだ紀元前45年、つまり2000年前の北京にわたしたちを誘ってくれます。墓は地下10メートルのところにあり、上部と底部は木炭や石膏で固められていたので保存状態はかなりよく、発掘したときにはすがすがしい木の香りが漂ったそうです。いまでは、この劉建の墓をすっぽり包むドーム形式の大葆台前漢墓博物館が誕生して一般公開されています。

老山前漢墓の女性

老山の前漢墓

 前漢の墓といえば、20世紀も終わろうとしていた1999年の冬のことです。北京西部、石景山区の八宝山墓地の隣りにある老山という小高い丘で、墓泥棒が捕まりました。地下鉄一号線の八宝山駅の近くですが、ここで毎朝ジョギングをしている人たちが、新しい土を盛った跡が一つまた一つと増えていくのに気付き、警察に届けでたのが逮捕のきっかけです。

 警察が内偵をすすめていくと、墓泥棒説が浮上してきました。1999年の12月24日の夜、犯人たちが「作業」をはじめたところを一網打尽にしたのです。

 中国社会科学院、北京大学などの考古学者が現場に入って調べたところ、前漢のかなり大きな墓が見つかり、本格的な発掘調査が始まりました。そして2000年8月20日には、椁という柩の外側を覆っている木の枠をはずす模様がテレビで現場から実況中継されました。わたしも3時間ほどテレビに釘づけにされたのですが、ここでハプニングが起きました。前漢時代の漆器や彩色の陶器などの副葬品とともに、死体がでてきたのです。

 墓泥棒かもと思ったのですが、なんと身長一メートル60センチ前後の女性でした。すでに墓は荒され、女性はこの墓の主人公で柩から引きずりだされたのだろうというのが大方の見方です。墓の規模からみてこの女性は王妃クラスの人物、そうなるとこの女性の夫である王クラスの人物の墓が、この墓の東側にあるのが前漢時代の埋葬のしきたりです。前述の劉建の墓もそうでした。はたしてこの女性の夫はだれなのか、学者たちの目は墓の東側に移っているようです。

漢倭奴国王の金印

 中国では前漢を「西漢」、後漢を「東漢」と呼んでいます。そして、そのあいだに外戚の王莽(紀元前45〜23年)が皇位を簒奪して「新」という国を造った15年ほどのハプニングがありました。日本の福岡県の糸島半島で出土した貨幣「貨泉」は、この王莽が発行したものです。そのご、前漢の武帝の兄弟で、長沙王だった劉発の血筋をひくともいわれる劉秀(紀元前6〜57年)が王莽を倒し、更始三年(25年)に光武帝として打ちたてたのが後漢です。

漢倭奴国王の金印

 劉秀、つまり光武帝といえば都の洛陽を訪れた日本の使者に「漢委奴国王」と刻んだ金印を授けたという話があります。中国では『後漢書』に「光武中元2年(57年)正月、・・・・・・東夷の倭奴国王、遣使奉献す。・・・・・・光武印綬を賜う」という記述がみられます。また日本では、天明4年(1784年)に、九州の志賀島(福岡市東区)から「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土しています。こうした裏づけのあるこの話は実話だといえるでしょう。光武帝が死ぬ前の月のことだったようです。

 わたしが興味をもっているのは、この日本の使者がどんなコースで都の洛陽に辿りついたかということです。

 「漢委奴国王」の金印の「委」は「倭」で、日本のこと、「奴国」は「儺県」あるいは「奴津」という文字であらわされた「な」の地方、いまの福岡市付近のことです。使者はこの辺から出発し、船でまず朝鮮半島の南端に向かったようです。

 そして、そこからは岸づたいに北上して、現在の平壌などがある楽浪郡で上陸し、ここからは陸路をとり遼東を通って洛陽に行ったようです。宋末元初の馬端臨の著『文献通考』にも、漢代の日本の使者は「遼東より至る」という文字がみられます。

 そこで『中国歴史地図集』(北京・地図出版社)の漢代のページを開いてみました。なんと、前漢、後漢を問わず日本の使者が上陸した楽浪郡も、日本の使者が通過した遼東郡も、現在の北京のある広陽郡も、みな北京にその役所を置いた幽州刺史部に属しているのです。楽浪郡から遼東を経て洛陽に向かったとなると、北京を通ったと考えるのはごく自然でしょう。加えて前回の「万里の長城」で書いたように、当時の北京から洛陽には現在の石家荘、邯鄲などを経由する始皇帝の造った幹線道路があったのですし・・・・・・。

 こんなわけで、わたしは二千年も昔に「漢委奴国王」の金印を洛陽から日本に持ち返った使者は、往きも帰りも、当時の北京一帯を通ったのではないかと、素人ながら「確信」しているのです。その50年後の安帝永初元年(107年)に、倭の国王、帥昇(師昇とする説もある)が漢に献じた人員160人もこのコースを通ったのでは・・・・・・

 あれこれ想像してみるだけでも楽しくなってくるのです。

 次回は『三国志』の時代に入って「北京っ子だった劉備」というタイトルのお話です。お楽しみに・・・・・・。(2002年6月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。