わたしの北京50万年(第10話)
李白のみた北京――唐

                    文・李順然 写真・劉世昭

  杜甫は「李白一斗詩百篇」と詠ったが
李白が雪の降る北京で綴った詩には
酒の匂いはあまり感じられない
安禄山の暴政に向けた焦り 憤り
おのれの弱さに向けた歎き 悲しみ
民を愛し 国を憂う情に溢れている
李白は一字一句を心に刻みながら
春を待たずに北京を離れた
 

万里の長城 雪景色

冬の北京・金山嶺の万里の長城
 唐というと、李白、杜甫、白居易……といった詩人が頭に浮かびます。こうした詩人のなかには、北京を訪れた人もいます。

 まず名が挙げられるのは李白(701〜762年)でしょう。李白が北京の土を踏んだのは天宝11年(752年)です。「貞観の治」とならび称せられる「開元の治」にも翳りが見え始めていました。

 都、長安では、風流皇帝といわれた玄宗李隆基(685〜762年)が絶世の美女、楊貴妃との愛に溺れ、政治をおろそかにし、宰相李林甫と、楊貴妃のいとこで検察などの実権を握る侍御史楊国忠の対立は深まり、その年の11月には李林甫が死んで、楊国忠が全権力を一手にします。こうしたどさくさに乗じて安禄山(703〜757年)が、玄宗と楊貴妃に取り入って勢力を伸ばし、范陽(北京地方)、平盧(東北地方)、河東(太原地方)の節度使(軍政長官)を兼任し、この三つの地方を独立王国としていました。北京はこの独立王国の中心だったのです。

 李白はしばらく都、長安の玄宗のもとで、文書を起草したりする翰林供奉をつとめていましたが、その自由飄然とした性格が災いして、天宝3年(744年)には長安を去らざるをえなくなり、「才を懐いて遇せられず」という気持ちを胸に、各地歴遊の旅にでています。そして天宝11年には北京に足を伸ばしています。『北京歴史紀年』(北京出版社)によると、旧暦の10月から11月にかけてとなっていますから、冬の北京を訪れたわけです。李白51歳の時だったのです。安禄山支配下の冬の北京で、李白はなにを目にし、なにを考えたのでしょうか。李白の北京での詩から、その一端をかいまみてみましょう。

 『北風行』で、李白は次のように書いています。

 燕山の雪花大なること席の如し
 片片と吹き落つ軒轅台
 幽州の思婦12月
 歌停め笑罷めて雙娥摧く
 門に依りて行く人を望み
 念う君が長城の苦寒まことに哀むべし

北京・八達嶺の万里の長城にある居庸関

 自己流に解釈してみましょう。「北京を囲む燕山にひらひら舞う蓆のように大きな雪、その昔、黄帝が登ったという軒轅台にも、静かに降る。ここ幽州(北京)で物思いに沈む出征軍人の妻、歌うことも笑うことも忘れた愁にあふれる両の瞳、門に倚りかかり行く人を望む。万里の長城の彼方で苦しむ君を念い、深く哀しむ」――まあ、こんな意味になるのでしょうか。雪にかすむ万里の長城、北のさいはて、戦火に緊迫する北京、出征した夫の安否を気遣う妻の悲しい瞳……、平和に寄せる李白の心がひしひしと感じられます。

 もうだいぶ前のことですが、わたしも雪の降る万里の長城に登ったことがあります。幾重もの雪のカーテンで閉ざされた万里の長城は、物音一つなく、限りなく静かでした。知らず知らず、毛沢東の『沁園春・雪』の一節を口ずさんでいました。

 北国の風光
 千里氷封じ
 万里雪飄る
 長城の内外を望めば
 惟だ莽莽たるを余すのみ

安史の乱と李白

陜西省興平県馬嵬坡にある楊貴妃の墓

 李白は春を待たず、二ヶ月ほどで北京を離れています。20万の兵を握り、この地でわがもの顔に振る舞い、さらには唐王朝転覆のクーデタ ーさえおこしかねない安禄山の動きをみていられなかったのも一因かもしれません。この辺の事情は、のちに李白が親友の江夏(現在の岳陽)の太守韋景俊に贈った詩からもうかがえます。

 「乱離を経たる後 天恩野郎に流さる。旧遊を憶いて懐を書し 江夏韋太守良宰に贈る」という、自分の身の上を綴った長いタイトルの長い詩ですが、その一段を書き抜いてみましょう。幽州(北京)の旅での見聞を記したくだりです。

 十月 幽州に到れば 戈エン 星を羅ぬるが若し
 君王 北海を棄て 地を掃い 長鯨に借す
 呼吸して百川を走らせ 燕然 摧傾すべし
 心地 語るを得ず 却って蓬瀛に棲まんと欲す
 弧を彎いて天狼を懼れ 矢を挟んで敢えて張らず

 自己流に解釈してみましょう。「10月に北京にやって来て目にしたのは、きらきら光る武器を手にした大勢の兵士のただならぬ姿だった。玄宗皇帝は、この北の土地を捨て、暴れ者の安禄山に借し与えてしまったのだ。安禄山は山を越え、川を渡って中原に迫ってくるだろう。このことを知っていながら、誰にも語れず、蓬莱、瀛州の仙境に逃れたいと思う自分の意気地なさが情けない。弓を取っても敢えて矢を放てない自分の意気地なさが情けない」といった意味になるのでしょうか。

李白の画像

 たしかに、当時の北京は安禄山の独立王国の一大軍事拠点となっていました。このことは、北京をテーマにした李白のそのほかの詩からもうかがえます。

 「幽州胡馬客の歌」では
 ボウ頭 四に光芒 争戦 蜂のあつまるが若し
 白刃 赤血を灑ぎ 流砂 これが為に丹し」
 と詠い、
 
「北上行」では
 「沙塵 幽州に接し 烽火朔方に連なる
 殺気 剣戟よりも毒に 厳風 衣裳を裂く」
 と詠っています。

 はたせるかな。李白が感づいたとおり、安禄山は李白が北京を離れた2年後、つまり天宝14年(755年)11月に、北京で挙兵し、同郷の史思明とともに唐王朝に矛先を向けたクーデターを起こします。史書でいう「安史の乱」です。

安禄山と楊貴妃

 挙兵した安禄山は洛陽、長安に兵を進め、大燕の皇帝を自称します。玄宗は長安を脱出して蜀(四川)に逃れますが、一行が長安を出た翌日に、馬嵬という所で、楊国忠の暴政に怒った玄宗の近衛軍の将兵が楊国忠を殺し、さらに楊貴妃の処分を迫ります。険悪な空気に押された玄宗皇帝は、宦官の高力士に命じて楊貴妃を縊り殺し、やっと将兵を鎮めることができました。

西安の碑林の中にある石刻『貴妃出浴図』

 後日談ですが、この楊貴妃殺しは玄宗の意を汲んだ高力士と近衛軍の司令官陳玄礼が打ったお芝居で、殺されたのは楊貴妃の召使い。楊貴妃本人はひそかに海を渡って日本に逃れていたという話が、中国でも日本でも伝えられています。現に日本の山口県大津郡由谷町の二尊院には、楊貴妃の墓があるそうです。由谷町は日本海に面した静かな入江、由谷湾にある町で、楊貴妃が漂流してここにたどりつき、身を隠していたという話も真実味をおびてきます。

 楊貴妃はしばらくここで暮らしたあと他界し、地元の人たちが墓を造ったというのです。この墓の近くには楊貴妃像も建てられ、観光に一役買っているそうで、「拝めば美人になれる」と訪れる観光客には老若を問わず、女性の姿が目立つとか・・・・・・。

 話が北京からそれてしまったようですが、楊貴妃は十数年にわたって北京の主だった安禄山を養子として可愛がっていた。つまり安禄山の義母だったのです。長安を訪れる安禄山がまずたずねるのは、玄宗ではなく楊貴妃で、あれやこれや北京の土産を贈り、いろいろ北京の話もしたことでしょう。

居庸関を出ずれば

 李白のほかにも、北京を訪れた唐代の詩人というと陳子昂(661〜702年)、王之渙(668〜742年)、孟浩然(689〜740年)、李益(748〜829年)、張籍(765〜830年)……などの名があげられます。このほか、盧照隣(637〜689年?)、張鋭(667〜703年)、賈島(779〜834年)といった北京出身の詩人もいます。

 高適(702〜765年)も幽州節度使管轄下の渤海の人だったという説がありますから、北京人に近いといえましょう。みな、北京をテーマにした詩を残しています。今回は高適の「薊北より帰る」をご紹介して筆を擱くことにしましょう。

 高適は開元15年(727年)から何回か北京の土を踏んでいるようですが、この「薊北より帰る」の一行目の薊門は、北京の西北、昌平区にある八達嶺の万里の長城の南にある居庸関のことです。北京から八達嶺の万里の長城に行くときにここを通るのですが、この一帯の谷間の濃いみどりは昔から「居庸畳翠」として燕京八景の一つに数えられています。

 ここから八達嶺までの十数キロは、山がせまって深い谷となっており、遠く秦、漢の時代から軍事上の要衝となってきました。明朝滅亡の口火を切った農民蜂起軍、李自成の北京入城も、この居庸関からだったのです。明の崇禎17年、清の順治元年(1644年)3月15日のことです。居庸という地名は、秦の始皇帝が万里の長城を造るのにかりだした人夫(庸)を、ここに居住させたことによるとのことです。

 現在の居庸関には、元の至正3年(1343年)に造られた、白い大理石を台基とする雲台が残っています。雲台の上にあった白い塔は姿を消していますが、雲台の壁には四天王像やサンスクリット、チベット、パスパ、ウイグル、漢、西夏の六種類の文字で「如来心経陀羅尼」など経文が彫られています。当時の北京が諸民族の交流の場であったことを示すものでしょう。パスパ文字はフビライが造らせた文字ですが、あまり使われず消え去った幻の文字です。八達嶺の万里の長城に行ったついでに、時間があったら立ち寄ってみるのもいいでしょう。

 「薊北より帰る」は、居庸関の風景をバックに、契丹族とのたたかいで敗れた薛楚玉ら唐の5人の将軍の姿を目にして前線から帰ってきた高適の心情を歌っています。高適は「安史の乱」では玄宗に随行して長安を脱出していますから、忠君の人だったのでしょう。

 馬を駆る薊門の北
 北風辺馬哀しむ
 蒼茫たり遠山の口
 豁達として胡天開く
 五将已に深く入り
 前軍止だ半ば廻るのみ
 誰か憐れまん 意を得ずして
 長剣 独り帰り来たるを

 来月の第11話では「五朝古都の幕あけ」というタイトルで、北京に都を置いた遼、金、元、明、清の五王朝のトップバッター、遼について紹介しようと思っています。(2002年10月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。