わたしの北京50万年(第11話)
五朝古都の幕あけ――遼

                    文・李順然 写真・楊振生

 

遼の誕生は五朝古都の幕あけ
遼は北京を「南京」と名づけた

遊牧民の契丹族が興した北国の遼にとっては
たしかに南の都だったのだろう

この南京を政治家、王安石が訪れている
この南京を文人、蘇轍が訪れている

この南京をイスラム教の伝道者が訪れている
この南京を日本の使節が訪れている

 

契丹・キタイ・キャセイ

牛街にあるイスラム教寺院

 北京は「五朝古都」ともいわれています。

 ここでいう五朝とは、北京に都を置いた遼、金、元、明、清の五王朝で、遼はそのトップバッターとして北京に登場したのです。

 それまでも燕のように北京に都を置いた国はありましたが、いずれも中国北方の地方政権でした。ところが、遼や金は、南の宋と天下を二分した強国であり、元、明、清は文字通り全国政権でした。こうして、北京は、中国歴史のなかでますます脚光を浴びるようになっていくのです。

 20代、300年近く続いた唐王朝は、唐の哀帝の天祐4年(907年)に幕を閉じ、五代十国の時代に入ります。五代とは北方の後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五王朝、十国とは、南方の前蜀などの十の国で、いずれも短命弱体でした。

 その支配も限られた地域で、北京一帯には、シラムレン河流域(現在の内蒙古・赤峰一帯)で遊牧生活をおくっていた契丹族が勢力を伸ばしていました。契丹族は北京周辺を襲って、漢族の農民や役人を連れ去ったりしていましたが、そのうちにみずから進んで、悪政と戦乱の続く北京から逃れて契丹族の支配地域に入る漢族の農民や役人もでてきます。さらには、崇文のように、契丹の地に天雄寺というお寺を建て、仏法を広める漢族の僧侶もあらわれました。

 契丹族の首領、耶律阿保機(872〜926年)は、亡命してきた漢族の役人のうちの才能のある人物をどんどん登用し、その協力を得て契丹の実情にあった国家制度の確立に力を入れ、916年には竜化州(現在の内蒙古自治区赤峰市)に契丹国を打ち建て、みずから皇帝の座につきました。契丹の太祖です。ちなみに、ロシア語のキタイ、英語のキャセイなど中国を指す単語は、契丹の音訳だといわれています。

小倅皇帝

 936年のことです。皇帝を夢みる後唐の河東節度使(現在の山西省一帯の軍政長官)、石敬隧(892〜942年)が、契丹に援兵を求めてきました。兵を出してくれれば、北京をふくむ現在の河北省と山西省北部の燕雲十六州を契丹に割譲する、年貢として毎年絹30万匹を契丹に納めるなど、石敬隧が出してきた好条件に引かれて、契丹は援兵を送ります。

 この援兵に助けられて石敬隧は、後晋の皇帝の座に着くのですが、援兵を出してくれた契丹の太宗、耶律徳光(902〜947年)を「父君と仰ぎ」「子の礼を尽くす」ことを誓わされています。そして938年には「父君」に、燕雲十六州の地図を献上して、国土売り渡しの手続きをすませます。11歳も年下の契丹の太宗の前に「父君」とひざまずき、助けを乞う石敬隧は、中国の史書では「子倅皇帝」と書かれ、笑い草となっています。

雍正6年(1728年)に、大覚寺に建てられた典型的な鉢伏型の霊塔、迦陵禅師の塔

 北京をふくむ燕雲十六州を手に入れた契丹は、その年つまり938年に国号を遼とし、北京を「南京」と称して上京(現在の内蒙古自治区巴林左旗)や東京(現在の遼寧省遼陽)、中京(現在の内蒙古自治区赤峰市)とならぶ遼の都とします。遊牧民族である契丹族は、このように都をあちこちに置き、皇帝は各地を廻って統治をおこなっていたのです。北国である遼にとって、北京はたしかに国の南に位置し、南の都「南京」だったのです。

 中原、つまり中国の中心部を北から屏風のように囲む燕雲十六州を手に入れた遼は、南に下って中国全土を握ろうと考えるようになります。こうして「南京」と称せられた北京は、この夢を実現する前線の総司令部的存在となったのです。いわば軍都です。

 遼の会同3年(940年)には、遼の太宗、耶律徳光みずから北京に乗り込み、漢族皇室の儀典にもとづいて文武百官を接見し、また後晋などの使節の朝賀を受けています。

セン渕の盟と北京

 960年のことです。後周の帰徳節度使(現在の河南省商丘一帯の軍政長官)をしていた趙匡胤(927〜976年)が宋を建国し、都を開封に置きました。宋の太祖です。宋は着々と勢力を伸ばし、全国統一をめざしますが、遼にだけはどうしても手がつけられません。北の遼と南の宋は、拒馬河を境にして攻めたり攻められたりを繰り返します。

 ちなみに、趙匡胤は三国時代の英雄劉備と同郷、拒馬河の北岸の菘州の人といいますから「北京っ子」だったわけで、拒馬河を渡って故郷に錦を飾りたい気持は人一倍強かったのかも知れません。拒馬河はいまも流れを止めず、北京から石家荘に行く高速道路からも目にすることができます。

天寧寺の塔

 遼の統和22年、宋の景徳元年(1004年)九月には、遼の30万の大軍がこの拒馬河を越えて深く南に入り、その年の11月には黄河北岸のセン渕(現在の河南省濮陽県)に達しました。遼の聖宗・耶律隆緒(971〜1031年)みずからの親征です。きっと軍都である南京(現在の北京)からの出陣だったのでしょう。これを迎えうって、宋も真宗趙恒(968〜1022年)みずからが指揮をとって兵をセン渕に進め、遼、宋の大軍がセン渕で対峙し、一触即発の事態となります。ここで、どちら側からともなく講和の話がもちあがりました。

 その年、つまり1004年の11月、遼と宋の和議が成立します。交渉がセン渕でおこなわれたので、史書は「セン渕の盟」とよんでいます。「セン渕の盟」は中国にとっても、北京にとっても特筆されるべき意義をもっていました。まず「セン渕の盟」では、遼と宋は兄弟として対等の関係にあるとしていることです。これは、中国中央部の漢族の中央政権と、辺疆の少数民族とのあいだの最初の平等条約で、その後の中国の諸民族間の和にとって一つの手本をしめすものだったともいえましょう。

 「セン渕の盟」にはまた、宋が遼に毎年銀10万両と絹織物20万匹を贈ることが記され、その引渡地を北京としています。これは中国の南北交流の中継地としての北京の地位を確立するものでした。こうして北京は、軍事の都から経済交流の都、さらには文化の都、政治の都、遼の事実上の首府と発展し、そのごの全国政権の都の土台を築いていくのです。

蘇東坡一家と北京

 「セン渕の盟」から、宋がこの条約を破って遼に攻め込んだ1122年までの百余年、遼と宋は各方面でかなりよい関係を保っていました。この百余年に宋が遼に送った使者は、文書にその名が残っている人だけでも1600人を超え、そのなかには政治家では王安石、文人では蘇轍といった著名人の名もみられます。こうした使者は、北京を主な訪問先とし、北京には永平館など宋の使者の宿泊にあてる施設が設けられていました。

 遼と宋の皇室の関係はきわめて良好で、「セン渕の盟」の翌年、1005年には遼の蕭皇太后の誕生を祝う宋の使節が北京を訪れ、1022年に宋の真宗が逝去したときには、遼の聖宗の勅命で北京の憫忠寺、現在の法源寺に真宗の霊堂が設けられて、北京各界の人たちがその死を悼んだ、と史書は書いています。

 遼と宋のあいだの経済や文化の交流も、北京を舞台に盛んにおこなわれました。宋の使者として北京入りした蘇轍は、蘇軾つまり蘇東坡の弟で、その父蘇洵や兄とともに「三蘇」とよばれ、宋代の三大文人に数えられています。この蘇轍が朝廷に出した遼からの帰国報告には、北京の役人が「三蘇」の文章や詩にたいへん精通していたと書かれています。弟思いの蘇軾が北京に旅立つ蘇轍に「子由契丹に使いするを送る」というはなむけの詩を書いていることも、蘇轍の北京訪問の史実の裏づけといえましょう。子由は蘇轍の字です。

 遼と宋の貿易のなかで宋の書籍の占める比重はたいへんなもので、同時の北京の本屋さんには宋の書籍がたくさん並んでいたそうです。北の遼は、政治制度から農耕技術、文化芸術にいたるまで、すぐれたものをどんどん南の宋から学び、自分を強くしていったのです。

 ちなみに、いまもその姿を残している海淀区の古刹、大覚寺や、宣武区の天寧寺の13重の塔などは、遼代に建立されたものです。大覚寺は契丹族が好む正面を東に向けた「朝日」という独特の建築様式をとり入れた郊外の静かなお寺で、いまでも境内の茶室でお茶を楽しむことができます。

北京――渤海国――日本

 契丹族は漢族だけでなく、ほかの民族ともすすんで交流をすすめました。北京の西南、宣武区にある牛街にいまも残っているイスラム教のモスク、清真寺は、遼の聖宗13年(996年)に西域からやってきたサイハイナスルテインが建てたものです。

 牛街一帯には、いまもこのモスクを中心にイスラム教徒が多く住んでおり、独特の雰囲気を漂わせています。モスクだけでなく、イスラム学校、イスラム病院、イスラム料理店もあります。いまでは北京の夏の味覚となっているスイカも、遼代に西域から契丹族の手で北京に伝えられ、続く金の時代に宋を通して日本に伝えられたそうです。

 西だけではなく東との交流もあったようです。『遼史』の大安7年(1091年)と大安8年(1092年)には、日本からの使者が遼を訪れたと記されており、『北京通史』(中国書店)では遼の役人が北京で、日本からの使者と会ったと書かれています。

 これを裏づけるように、日本の『百錬抄』の嘉保元年(1094年)の項目には、大宰権帥をしていた藤原伊房が僧明範を契丹に送って貨物の交易をさせたが、これは日本の国禁を犯すもので罰せられたと書かれています。

渤海国の遺跡(撮影 祁慶国)

 当時は遼と宋の関係がよかったので、日本の使者は宋の支配する蘇州など中国東南部に上陸し、そのあと陸路で北京に入ったのだろうと思いますが、契丹族はこれよりも前に、北廻りの独自の日本への道を持っていたようです。

 また契丹国だったころの話ですが、中国・朝鮮国境一帯を支配し、日本とも経済、政治、文化などで深い関係にあった渤海国を征圧した契丹族の首領、耶律阿保機は、すぐにこれを直轄地とせず、東丹国とし長男の耶律倍(898〜936年)を送って支配させています。当時、渤海国から日本へは毛皮などが、日本から渤海国へは絹などが海路でおくられ、その額もかなりのものでした。渤海国側の出港地は東京竜原府、現在の吉林省琿春市で、ここから図們江(豆満江)を下って日本海にでて、日本に向ったようです。東丹国王となった耶律倍は、渤海国時代に大使として二度も日本に行ったことのある裴 という役人を東丹国の使節として日本に送ったという記録は残っています。

 その後、この中日間を結ぶコースはどうなったのでしょうか。まったく素人のわたしの推測ですが、遼になってからも、またその後もこのコースはなんらかの形で残っていたかもと思うのです。そうだとすると、北京から日本への北廻りのコースが浮かびあがってくるのですが……。渤海国の都があったとみられる現在の黒竜江省牡丹江の寧安市渤海鎮では、渤海国の遺跡の発掘、整理が進められているそうです。なにが出てくるか楽しみです。

 次回契丹族の遼に替って北京入りした女真族の金という国にスポットをあて、「燕京八景」というタイトルで筆をすすめてみようかなと思っています。(2002年11月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。