北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第16話)
大都から北京へ――明

                    文・李順然 写真・劉世昭

 

この街が北京と呼ばれるようになったのは
明の永楽年間からである
即位した永楽帝が「北平」を「北京」と改めた
北京を囲む城壁を築いた
北京の中心に紫禁城を建てた
北京の西北に長陵を造った
なにからなにまで整えてから
永楽帝は都を南京から北京に移したのだ

 

大都→北平→北京

故宮の太和殿は、紫禁城の中でもっとも大きな宮殿である。高さは35メートル、面積は2370平方メートルで、皇帝権力の大きさを象徴している

 今月からは、明代の北京のお話しです。北京は遼代には南京、金代には中都、元代には大都と呼ばれていました。それ以前には、北京と呼ばれたことはありません。

 明代に入ってからも、初代皇帝、洪武帝(1328〜1398年)、二代皇帝、建文帝(1377〜1402年)の時代の都は南京で、北京は北平と呼ばれていました。「北京」と呼ばれるようになったのは、明の第3代皇帝、永楽帝(1360〜1424年)のときからです。

 明の初代皇帝、洪武帝は、元に反抗する農民蜂起軍の首領で、中国南部をほぼ征圧したあと、1368年3月に南京で即位し、国号を明、年号を洪武として、都を南京に置きました。

 洪武帝は、同郷で腹心の徐達を司令官とする北伐軍を北に進め、その年の八月に元の大都を攻め落としています。そして、大都を北平と改めるようにという詔書を出し、四男の朱棣を北京一帯を統治する燕王に封じます。

 燕王となった朱棣は、姚広孝(1335〜1418年)ら有能な政治家の支持を得て、中国北部での地位を着々と固めていきます。一方、南京では70歳の洪武帝が洪武31年(1398年)に病死し、その嫡孫の朱允 が帝位を継ぎます。建文帝です。

 玉座に就いた建文帝がいちばん恐れたのは、各地の王の反抗、とりわけ叔父にあたる燕王の反抗でした。そこで、朱棣を燕王の座から降ろす工作をすすめます。

 建文帝の動きを感じとった朱棣は、兵を起して南京を攻めました。建文元年(1399年)のことです。

 4年にわたる戦闘のすえ、建文四年(1402年)に朱棣は南京を攻め落としますが、この際、建文帝は宮殿に火を放ち、焼死したとも、僧侶に身を変えて都落ちしたともいわれています。

 南京入りした燕王、朱棣は部下に推されて、明の第三代皇帝の座に就きました。永楽帝です。

 永楽帝は即位するとすぐ、永楽元年(1403年)に「北平」を「北京」と改める詔書を出しました。この改名は、明の都を南京から、自分が燕王として固い地盤を築いてきた北京に移そうという、永楽帝の戦略から出たものだったといえましょう。

煉りに煉った遷都計画

太和殿の左右には、銅製の亀と鶴が置かれている。鶴亀は千年の寿命があると伝えられ、悠久の山河を象徴している

 永楽帝が新装なった北京紫禁城の奉天殿(清代に太和殿と改名)で、文武百官の朝賀を受け、北京遷都を宣したのは、永楽19年(1421年)の正月元旦でした。なんと、20年近くかけて、じっくりと各方面の根まわしをすすめたあとの遷都だったのです。

 この20年近く、永楽帝は遷都をめぐって何をしたのでしょうか。

 まず、北京の安全の確保です。永楽帝は、みずから50万の大軍を率いて前線に赴き、元の残存部隊と戦う一方、南方から北京一帯に兵力を移動させるなどして北京の守りを固めました。永楽年間の北京一帯には、明の総兵力の半分以上の百万を超える将兵が駐屯していたそうです。

 次に手をつけたのが経済の復興です。西の山西や南の江蘇、浙江などから大量の移民を北京に迎えて、荒れはてた田畑を整理し、小作料の棚あげや引き下げを実行し、北京一帯の農業の発展を促しました。

 このほか、船舶の航行ができなくなっていた杭州―北京間の南北大運河の修復をおこない、南からの食料や宮殿造営の資材などを、直接、水路で北京に運べるようにしました。

 こうした準備と並行して、北京の都市建設と宮殿づくりもすすめられ、永楽17年には北京の城壁を南に1キロほど拡げる工事が、永楽18年には紫禁城を囲むお堀と紫禁城本体の工事が終わり、永楽十九年に北京遷都を実行したのです。

 明朝には、洪武帝と永楽帝のほかに、これといった有能な皇帝がでなかったのに、その治世が17代、276年も続いたのは、実務的な皇帝であった永楽帝の、用意周到な北京遷都によるところが大きいとする歴史学者もいます。私もこの説に賛成です。

 この半世紀、私は北京を足場に、たびたび中国の東北地方や内蒙古、新疆などを旅してきました。こうした旅のなかで歴史を振り返り、つくづく感じたのは、明朝がもし都を南京に置き続けていたなら、つまり都を北京に移していなかったなら、東や西や北の諸勢力との協調もむずかしかっただろうということでした。

 永楽帝の北京遷都は、明朝のみならず、その後の中国の歴史の流れに大きな影響を与えたと思うのです。

紫禁城の青写真

中和殿は太和殿の後ろにあり、屋根の先端に金メッキの擬宝珠(ぎぼし)のついた四角い建物で、その姿は端整、厳粛であり、珍しいものだ

 永楽帝が北京の建設でいちばん力を入れたのは、いまでは故宮と呼ばれ、ユネスコの世界遺産にも登録されている紫禁城の造営でした。

 明、清の24人の皇帝が暮らした紫禁城の造営は、永楽4年(1406年)に始まり、永楽18年(1420年)に終わっています。紫禁城は2枚の青写真、しかも実験ずみの2枚の青写真を下敷きにして造られました。

 「故郷に錦を飾る」ということばがありますが、明の初代皇帝、洪武帝は、南京で即位した翌年、つまり洪武2年(1369年)に、故郷である安徽の臨濠(現在の安徽省鳳陽県)で、宮殿造りを始めました。儒教の教典『周礼』の宮殿造営の定めにもとづく、壮大な宮殿です。 

 洪武帝は造営にあたって「天下の中を取って立つ、四海の民を定める」という詔書をだしていますから、都もここに移そうと考えていたのでしょう。ところが、どうしたことか、宮殿もほぼできあがった洪武八年(1375年)に、急に工事中止の命令を出し、宮殿造営の場を南京に移しています。

 南京の宮殿は、臨濠の宮殿の青写真と経験を踏まえてすすめられました。現在もその遺跡は、南京市東部の午門公園などに残っていますが、規模も、華麗さも、臨濠の宮殿には遠く及ばなかったといわれています。

 北京の紫禁城は、この二度の宮殿造りの青写真と経験を踏まえて造営されたもので、どちらかというと臨濠の宮殿に近いとされています。

 石座の彫刻などの華麗さは臨濠が優るが、屋根の瑠璃瓦を黄色一色にした美意識では北京が優る……などなど、両者はなかなか甲乙つけ難いようですが、昔のままの姿で現存しているというのが、北京の紫禁城の最大の強みでしょう。

 いずれにしろ北京の紫禁城は、中国の宮殿建築の集大成、最高峰であることには間違いありません。

 ちなみに、紫禁城の総面積は72万平方メートル、建築面積は16万平方メートル、建物の間数は中国で縁起のいい数字とされる九にちなんで9999間だといわれ、皇帝の即位の儀式などがおこなわれた主殿の奉天殿は、中国最大の木造建築物です。

竜吻と押魚

故宮の門に懸かる扁額に書かれた漢字の「門」という字には、下隅のハネがない。太和門の「門」の字も、最後はハネない

 15年近くかけて造営された紫禁城ですが、完成した翌年、つまり永楽19年(1421年)の4月、主殿の奉天殿とこれと一組になっている華蓋殿(清代に中和殿と改名)、謹身殿(清代に保和殿と改名)の三大殿が火事で焼けてしまいました。落成してからわずか九カ月後のことです。

 火災の原因は落雷だったようです。どうしたことか、この三大殿は火事という疫病神にとりつかれ、永楽19年の火事のほか、明代だけでも嘉靖36年(1557年)、万暦25年(1597年)にも全焼しています。

 奉天殿など紫禁城の三大殿がたびたび火事に遭ったのには、それなりの理由もあったようです。まず、皇帝即位の儀式などの大典がおこなわれる奉天殿は、皇帝の至高の権力を示す北京でいちばん高い建物でなければならず、これを超える建物を造ることは許されませんでした。そこで、奉天殿は平原の北京での落雷の絶好の標的となってしまったのです。

 また、奉天殿は乾燥した気候の北京にある最大の木造建築物で、燃えやすかったことも火事の原因にあげられています。

 歴代の皇帝は、紫禁城の火災防止にとても頭を悩ましていたようです。神だのみというか、いまでも紫禁城のあちこちに、皇帝たちが残した火災よけのまじないを目にすることができます。

 たとえば、太和殿の屋根の大棟の両端の鴟尾は竜吻とよばれるもので、普通の鴟尾が尾を強調しているのに対して、「吻」という字からもうかがえるように、口は突出させています。その大きく開いた口は、鴟尾の持つ「水をもって火に克つ」火消しの役割をいっそうきわだたせたものだといわれています。

 また、屋根の隅棟の先端には、鳳に乗った仙人を先頭に、竜、鳳、獅子、天馬、海馬……など、十種類の奇獣を形どった飾り瓦が並べられています。これは走獣とよばれる一種の飾りものですが、ここにもおまじないの要素があります。七番目に並ぶ押魚は、伝説上の海に住む怪獣で、火消しの名手だそうです。

 ちなみに、紫禁城の中の門に懸けられている額の「門」という字の多くは、その最後の一画の「亅」が上に撥ねないで「l 」になっているのですが、これも火災防止のおまじないだとか……。

 そう、故宮参観には、小さな双眼鏡を持っていくと竜吻とか、押魚とか、門の額とか、こうした細かいところまで見ることができ、楽しさ倍増は請け合いです。

 もちろん、歴代の皇帝たちは、いろいろ火災防止の具体的な措置もとってきました。たとえば、太和殿の前に置かれている大きな銅のかめは、防火用水を入れる容器でした。太和殿の美観を傷つけないようにと、かめ一つあたり金3キロを使って、厚い金メッキをしたといわれています。

 1900年にイギリス、アメリカ、日本、フランス……など八カ国の連合軍が北京に侵入したとき、その一部が紫禁城になだれ込んで文物財宝を奪い去り、このかめの金メッキまで剥して持ち帰ってしまいました。いまでも、太和殿の前の銅のかめには、このとき金メッキを削り取った傷あどが、はっきりと残されています。

 紫禁城については、これからも折にふれて紹介することになるので、今回はこの辺で。次回は「北京城門めぐり」というタイトルで、明代に築かれた北京の城壁とその要所、要所に設けられた城門のお話です。(2003年4月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。