北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第18話)
十三の皇帝陵 ― 明

                    文・李順然 写真・楊振生

 

明の十三陵のなかで
いちばん大きいのは永楽帝の長陵
いちばん小さいのは崇禎帝の思陵
いちばん人が訪れるのは万暦帝の定陵
定陵の地下宮殿は絢爛豪華だが
万暦帝は満足できなかったろう
なぜなら最愛の女性が
ここに葬られなかったからだ

 

いちばん大きな長陵

大宮門から北へ向かう参道の両側には、24の石獣と12の石人がある。いずれも宣徳10年(1435年)に、一つの石から彫り出されて作られた

 前にも触れましたが、明の永楽帝(1360〜1424年)の南京から北京への遷都計画には、北京附近の皇帝陵の造営も含まれていました。

 もともと初代皇帝、洪武帝(1328〜1398年)の陵がすでに南京に設けられていましたので、永楽帝の陵も南京に造られるのがしきたりなのです。しかし北京遷都を心に決めていた永楽帝は、永楽五年(1407年)、礼部尚書(儀典相)趙 や風水先生(土地の吉凶を占う占師)廖均卿らを北京に送って、陵の場所選びをさせます。

 趙 たちがあちこち歩き廻り、3年かけて永楽7年(1409年)にやっと探しあてたのが、北京西北部の昌平区にある天寿山を中心に、北、東、西の三方を山に囲まれた盆地でした。ここが後に、明の十三人の皇帝の陵が山沿いに築かれた、明の十三陵なのです。

 十三陵に最初に造られた陵は、ここを選んだ永楽帝の長陵でした。天寿山の麓、明の十三陵の中心に位置し、永楽十年(1412年)に完成しています。

 そして、5年前に亡くなった徐皇后の亡骸がこの年に南京から運ばれてきて、ここに葬られました。永楽帝自身はさらに12年後、永楽22年(1424年)に病をおしての北征の途上、楡木川(現在の内蒙古自治区ドロン)で亡くなり、この年の12月に長陵に葬られています。

 長陵は、十三陵のなかでもいちばん大きい陵ですが、その壮大さを実感させるものの一つとして、本殿であるリョウ恩殿の60本の楠の柱がよく挙げられます。中央部の4本は直径1メートル17センチ、そのほかも1メートル前後の巨木で、そのうちの32本は「金糸楠」という、楠のなかでも最高の名木です。

 ところで、276年続いた明朝には、16人の皇帝がいました。北京の十三陵にはそのうちの13人が葬られているのですが、残り3人の皇帝の陵はいったいどこにあるのでしょうか。

 まず初代の洪武帝ですが、洪武帝が死んだとき、都はまだ南京にあったので、その陵は南京南郊外の鍾山の麓に造られました。孝陵です。

 続く二代目の建文帝(1377〜1402年?)の事情は、いささか複雑です。建文帝は叔父にあたる燕王、のちの永楽帝のクーデターで帝位を失い、行方不明になってしまったのです。南京城が攻められたときに焼死したとも、僧に身を変えて都落ちしたともいわれています。もちろん、陵は造られませんでした。

 下って七代目の景泰帝の陵も十三陵にはありません。オイラート軍の捕虜となっていた兄の六代皇帝の正統帝が釈放されて北京にもどり、その後、クーデターを起して帝位を景泰帝から取り上げてしまったのです。景泰帝は廃帝となり、その亡骸は北京西郊の玉泉山の王族墓地に葬られました。

 こんなわけで、十三陵にはこの3人の皇帝の陵はありません。

いちばん小さな思陵

 かなり前の話ですが、わたしは明十三陵の西の端にある明のラストエンペラー、崇禎帝(1610〜1644年)の思陵近くに、一カ月ほど住み込んで畑仕事をしていたことがあります。そのとき、先祖が明十三陵の墓守りだったという農民から聞いた話ですが、思陵はもともと崇禎帝の陵ではなく、崇禎帝の側室の田貴妃の墓だったそうです。それがどうして崇禎帝の陵になったのか、それにはこんな経緯があるそうです。

 崇禎帝17年(1644年)3月19日の明け方、北京を包囲していた李自成の農民蜂起軍が街の中に攻め込みました。もはやこれまでと感じた崇禎帝は、周皇后らに自害を命じ、自分も紫禁城の裏にある景山の槐の木に首を吊って死んでしまいます。現在の景山公園です。

 景山は、北京に都を置いた明の永楽帝が、風水の観点から元朝の「王気」を封じ込め、明朝の世々代々の繁栄を願って元朝の御苑跡に築いた山です。ここで崇禎帝が自害して明朝の歴史にピリオドが打たれるとは、なんと皮肉なことでしょう。

 北京に入城し崇禎帝の死を知った李自成は、投降してきた明の役人に、崇禎帝と周皇后の亡骸を早く片づけるよう命じました。ですが、即位後の崇禎帝は、西からは李自成の農民蜂起軍の、東からは満州族の清軍の攻撃を受けるなどなど、その対策に追われ、まだ自分の陵を造っていませんでした。

 そこで役人たちはとりあえず、崇禎帝の亡骸を、その側室の田貴妃の墓に入れることにしました。そして田貴妃の墓を開け、そこに崇禎帝を真ん中に、周皇后と田貴妃を左右に並べて葬ったというのです。

 その後、世は明朝から清朝に移ります。北京入りした清の三代皇帝、順治帝(1638〜1661年)が、順治16年(1659年)に皇室のしきたりに従って、崇禎帝らが葬られたところを崇禎帝の陵として思陵と呼び、「荘烈愍皇帝之陵」という碑を建てました。愍は崇禎帝の諡です。

 順治帝としては、こうしたやり方で、漢族の心を捉えたかったのかも知れません。とはいってもやはり血のつながりのない他人の墓。たいしたお金はかけなかったようで、思陵は明十三陵のなかでも西の端にあるいちばん小さな陵となってしまったのです。

いちばん人が集まる定陵

 明十三陵のうち、訪れる人がいちばん多いのは万暦帝(1573〜1620年)の定陵でしょう。ここだけが発掘され、柩の置かれている地下29メートルの玄室にまで入ることができるのです。この玄室は地下宮殿とも呼ばれていますが、ここからは皇帝、皇后の柩のほか、金の王冠など3000点を超える見事な副葬品が出土し、地上に設けられた陳列館に展示されています。

地下宮殿の定陵は、明の神宗万暦帝と二人の皇后を祭った陵墓で、総面積は1195平方メートル。内部に梁はなく、アーチ状の石で支えられている

 中国科学院の院長をしていた郭沫若(1892〜1978年)らの提案で定陵の発掘が始まったのは、1956年の5月19日でした。最初の計画では、長陵が目標でしたが、あまりにも大きくてどこから手を付けていいか見当がつかず、目標を定陵に移しています。

 そして、刑務所に墓泥棒の「達人」をたずね「経験」を聞くなど、いろいろ苦労して1957年の9月21日に地下宮殿の石の扉が開けられました。なんと1年4カ月もかかったのです。

 定陵の主である万暦帝は、58歳で亡くなりました。在位年数48年で、明代ではいちばん長く皇位にあった皇帝です。中国の封建王朝の皇帝たちは、その在位中に、つまり生きているうちに自分の陵を造ってしまうのですが、万暦帝も21歳のときから自分の陵の造営を始め、6年の歳月と白銀800万両を使って定陵を完成させています。

 当時の白銀800万両というのは、一千万人の民衆の一年分の食糧にあたるそうです。長陵より規模が小さいとはいえ、定陵は明十三陵のなかでもトップクラスのものであることは間違いありません。

十三陵の石牌坊は、嘉靖19年(1540年)に建てられた。高さは14メートル、幅は約29メートル、漢白玉を刻んで作られており、現存する中国最大の石牌坊である

 しかし、万暦帝にとって定陵は、結果としてはたいへん不満なもの、いや最悪のものとなってしまったようです。というのは、万暦帝は21歳のときから息を引き取るまで、北京南郊の大興生まれの鄭貴妃という女性を愛し続け、死を前にしても重臣を枕元に呼んで、鄭貴妃を皇后に冊立し、定陵に葬るようにという遺言を残したのです。

 けれども、鄭貴妃は定陵に葬られてはいません。定陵の玄室には柩が三つ並んでいます。真ん中の大きなのが万暦帝の柩、その左右に子供を生めなかったが生涯万暦帝の糟糠の妻だった孝瑞皇后と、万暦帝のあとを継いだ泰昌帝を生み、死後に皇后に冊立された孝靖皇后の柩が置かれているだけです。万暦帝の遺言は、まったく無視されたのです。

いちばんの悪者は万暦帝?

 万暦帝の一生は、ある意味では最愛の鄭貴妃を皇后にしようとして、これに反対する周囲の役人たちと争い続けた一生だったともいえましょう。このために、万暦帝は皇帝としての執務を投げだす「政治サボタージュ」までして、明朝最悪の皇帝といわれました。『明史』でも「明の亡ぶは、実に神宗(万暦帝)に於いて亡びしなり」と書かれているのです。

 万暦帝にいろいろ問題があったのは確かでしょうが、一人の女性を変わることなく愛し続けた皇帝という点では、わたしはいささか万暦帝に同情的です。鄭貴妃を皇后にしようとする皇后冊立の問題が起きる前の万暦帝は、政治面でもたいへん情熱的だったとする学者もいます。

長陵は、明の成祖永楽帝、朱隶を祭った陵で、そこに建てられたのリョウ恩殿は二重の庇の大きな建物である。幅は約67メートル、奥行きは約29メートル

 例えば、万暦13年(1685年)の4月17日、万暦帝は駕籠に乗らず徒歩で、紫禁城から天を祭る天壇まで往復して、雨乞いをし、豊作を祈っています。紫禁城から天壇までは、わたしの足でも3、40分かかる道のりです。しかも北京の旧暦の4月はもう夏。かなり暑く、徒歩で往復するのは並たいていのことではありません。

 明史の研究家として知られ、ニューヨーク州立大学の教授などをしていた黄仁宇氏は、その著『万暦15年』で万暦帝のこの行動を高く評価し「天壇に向かう万暦帝の敬虔な姿、穏やかな足どりをみて感激しないものはいなかっただろう」と書いています。

 ついでにもう一つ。史書ではよく万暦帝のことを「酒色に溺れて、いつも足もとがふらついていた」と書いていますが、定陵の万暦帝の亡骸を調べたところ、右足が左足よりかなり短かったことがわかりました。万暦帝の足もとがふらついていたのは、別に「酒色に溺れていた」ためだけではなく、足の重い病気もその原因だとする学者もでています。

 ちなみに、柩からでてきた万暦帝の髪の毛を分析したところ、血液型は 型だったそうです。すこし猫背で、身長は1メートル65でした。こんなことも頭に入れて定陵の地下宮殿の三つの柩の前に立つと、定陵見物もいっそう面白いものとなるでしょう。

 来月は、明の都の北京を訪れた日本の画家、雪舟のことなどを取り上げてみようと思っています。 (2003年6月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。