燕京遊記 文人たちのモダンスタイル


今月の文人 呂勝中

                   文・村松 伸

熟練した手の技巧と
美に対する卓越したセンスと。


呂勝中(ル ションジョン)1952年生まれ。中国画を学んだ後、民間芸術から着想を得た作品を次々に発表。96年福岡市美術館、埼玉県県立近代美術館ほか、世界各国で個展を開催。今年はオランダで開催予定。

 北京のどこにでもあるようなややうらぶれた集合住宅の三階にまで昇って、彼の家の扉を見たとたんぼくは震えた。中国の伝統的な切り紙がぽんと一枚貼られていた。切り紙そのもの、そして、その貼り方、位置、それを見ただけで北京の東郊外の通州区にわざわざやってきたことは正解だったと感じた。

 ドアを開けて中に入り、窃盗団のように、二つの眼でもって部屋のあちこちを嘗め尽くす。本棚にある本、掛けられている絵、書、おかれている碗、彫刻、それを見るのは、一種の真剣勝負だ。心の震えはますます高まって、一方、ほっと安心もする。アーティストの呂勝中の家を訪れて最初の五分ほどのできごとであった。

ガラスに貼られた切り絵

 昔からの友人に会うわけではないから、何かしら準備がいる。でも多忙の身の上、いくらかの情報とか、伝聞とか、作品集を少し集め、いつも見切り発車でひとに会うことになる。その時手にしていたのは、1998年に広西美術出版社から刊行された呂勝中の作品集『招魂』だった。台湾の美術本のような伝統と現代とを調和させようとした豪華な装丁である。だが、感動したわけではない。

 そこには、1989年10月から1996年10月までの七年間の招魂をテーマにした作品が紹介されている。呂勝中は人型に切り抜いた赤い切り紙を素材に、さまざまなインスタレーションをくりひろげる。金属にする、巨大化する、無数に配置する、氷の中に閉じ込める、廃墟に貼る、部屋一面に貼る、大地に貼る、腐食させる、燃やす。その溢れるまでの思考のバリエーションには頭が下がる。だが、感動はほとんど伝わってこない。

 現場で繰り広げられる即興性こそがインスタレーションの命であるから、それを体験することもなく、美麗な作品集に閉じ込められた抜け殻に驚嘆することは、本来無理がある。それにこんなふうに機を衒った芸術行為を行なうことそのものにぼくは賛同していない。スノッブな若手芸術家然とした呂勝中の写真をその本の中に見つけ、熱心に眺めもせず、でも礼儀として通州区の彼の家まで携えてきてはいた。

 だから、本よりも少し老成した彼本人に会い、他人に見せるためでない日常の生活とそこにあるなにげない平凡な部屋のしつらいを見た一瞬、これまでの予断を捨てた。彼の人生、芸術観、日本旅行での体験など、話が進めば進むほど、ぼくは呂勝中の世界にひきこまれていった。

土俗の修養

針金の人形
愛用の鋏
手製の紙人形

 1952年山東省の青島に近い小さな山村に生まれた呂勝中は、履歴でいえば78年、26歳の時に、済南にある山東師範大学で美術を学び、卒業した。87年北京の中央美術学院に創設された民間芸術学科の第一期学生として修士課程を終了するまでの約十年が彼の美術界への登場の過程である。通常、いわゆるポスト文革世代は、77年から復活する受験によって大学に入学し、有能な頭脳とハングリーさで、一気に外界の新しい環境に適応した一群の人々である。

呂勝中

 その定義で言うと、呂勝中はやや早すぎる。高校卒業前に入隊し、復員したのち田舎の映画管理センターに配属され、美術だったら学んでもよいと上部から許可が出て、工農兵学生として、中国山水画を学ぶ。転機は、卒業後大学で教えていた時期、80年に訪れた。パリでおこなわれる中国美術の展覧会に展示される作品の二つが彼の大学に割り当てられ、山東特有の年画の作製を指名された。

 こんなもの簡単さ、と呂勝中は思った。だが、単純な色でもって、ステレオタイプの図柄を描くのは思った以上に難しかった。できあがっても絵は死んでいる。そこで年画の職人を探し出し、ひとつひとつ学んでいった。こう書くといかにも善行美談風になってしまうけれど、実際それで、呂勝中は民間芸術の奥深さを学んだ。

 美術に行かなかったならば、小説家になりたかった。読書好きの呂勝中は、首都北京の中央美術学院で数多くのひとびとと交わり、国外の美術の状況を本から学び、知った。しかし、その後の彼を支えたのはここで学んだ外国美術に関する知識の量ではない。それまで培ってきた土俗の修養である。

 彼の修養は、農村のソサ(オンドル)の上で養われた。農作業に明け暮れて多忙きわまりない生活で、唯一の娯楽は、朗読だった。冬の夜、両親、子供七人の呂勝中の家族は、かわるがわる本を朗読した。手は縄をない、藁を結ぶが、ひとびとの耳は朗読に向く。父が読み、兄が読み、そして、末っ子の呂勝中も読んだ。『三国演義』『西遊記』『紅楼夢』『閲微草堂筆記』、手当たり次第に本を見つけ、読んでいく。読めない字があっても、とばし、推測し、はては読み方を捏造したりもした。小学校に入る以前、こうして、中国でも僻地の山東の一寒村で、アーティスト呂勝中が形成された。

コウ上の夜なべのように

 呂勝中の芸術の根っこにある修養は、もうひとつ、彼の母親に負っている。幼い頃、コウに座り、切り紙を切って壁や窓に貼っていた母親の話を懐かしそうにする。一見、欧米風の芸術の直スリ的で、生硬い翻訳のように見える呂勝中のアートは、山東省の山村で誕生し、成長したものだったのである。

 そんな眼でもう一度、彼の作品集『招魂』を見直してみると、ぼくが彼に出会う前に感じた臆断が、するすると消えていき、コウの上で夜なべをする彼の母親の姿をあちこちで発見することになる。あるいは、中央美術学院の大学院の時、中国中を巡って廻合した切り紙に長けた農村の婦人たちの姿が、この作品に隠されている。欧米へ向かうのでなく、黄色い大地の中に新鮮なるものを発見し、それをさらに北京で学んだ新しい手法で表現していった。それは同時代の映画や小説、音楽に溢れた黄色い大地への憧憬と軌を一にしている。

 「招魂」シリーズの作品は、よく見ていくと決して、論理が先走っているのではない。赤い人型が、巨大化しようと、無数になろうと、金属になろうと、圧縮した屑紙で作ろうと、焼かれようと、カイワレ大根が植えられようと、いつもそこには彼の熟練した手の技巧と美に対する卓越したセンスがこもっている。それは尋常ではない。知が先行する現代アーティストは往々にしてこの手の技巧と美に対するセンスを伴っていないのだから。

 通州区にある彼の部屋には、中国全土を踏破した際の戦果がところ狭しとおかれている。伝統の木製ベッドも設置され、だが、あざとさが一粒も見られないのは見事だ。壷や碗など多くに混ざって、針金を巻いて作った味のある人形が一体あった。ひまに任せて夜作ったものだ。コウの上で呂勝中の母親がおこなった夜なべ仕事は、ここに受け継がれている。

 ひるめしを団地内の小さなレストラン「富河餐庁」で一緒に食べた。東北料理の壜子肉を肴に、昼から二鍋頭の杯を乾した。彼のインスタレーションを実見したいと、切に思った。( 写真・岩崎稔 コーディネイト・原口純子)(2002年2月号より)

村松 伸(むらまつ しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。