燕京遊記 文人たちのモダンスタイル


今月の文人 竜安志

                   文・村松 伸

20年間醸成されたパラレル
ワールドがいま北京で交差する


竜安志(ロン アンジ)1961年ニューヨーク生まれ。アメリカ弁護士。81年南開大学留学を経て、香港の大学にてアメリカ人としてはじめて法律修士号を取得、コンサルタントに。

 北京に住んでいた頃だから、もう20年以上も昔のことだ。西北郊外の清華大学の留学生寮に住み、配給制は免除されたけれど、贅沢品は何もなかった。ただ、日本からやってきたぼくには、その貧しさはけっして悲しいものではなく、むしろ、質実で清貧な生活態度だと羨ましくみえた。

 時たま、本務である研究を進めなくてはと焦燥感に駆られ、日本から持ってきた自転車にまたがって、北京城内の古建築めぐりをしたものだった。北京に残るのは、紫禁城などの明清時代の公共建築ばかりではない。四合院という伝統的な住宅が、しかし、解放後の住宅難から集合住宅と化して、あちこちに残っていた。スケッチブックとカメラを携え、こんな四合院に住めたなら、と羨望をもって徘徊した頃が懐かしい。ぼくの中国文人への憧憬はここで形作られた。

 ちょうど同じく1981年の夏、北京ではなく、天津の南開大学にひとりのアメリカ人留学生がやってきた。その学生はLaurence J. Brahm、中国名を竜安志という。その竜安志に会うために、2001年秋、ぼくは東四九条を歩いていた。20年前、四合院調査で歩き廻った地区のひとつである。寒い冬、昼飯を食べる場所もなく、路上で売られているマントウを喰らいついた。20年後、東四九条には小奇麗なレストランがいくつも並んでいる。

竜安志。ホテ
ルのバーにて

 指定された面会場所は、その通りにある古い四合院を改造したバー、及び、ホテルだった。まだ、竜安志の経歴を知らなかったから、ぼくの英語で大丈夫だろうか、とやや緊張しながら、きれいに修復された四合院の門をくぐった。これまで四合院は多数見てきてはいたけれど、これほど小さなものは初めてだった。

 扉をノックする音がする。自転車を引いて大男がやってきた。普段着で席につくと、ぼくが飲んでいたエスプレッソのダブルを注文し、やや英語訛りのある、でも、語彙はぼくよりも圧倒的に豊富な中国語を操って、81年夏からの20年間の中国生活を話してくれた。それはまさにぼくの20年と中国という地で起点を同じくして、どこかで分岐した、あたかもパラレルワールドようなものでもあった。

中国第一(チャイナ・アズ・ナンバーワン)

ホテル内のしつらえに独特のセンスが溢れる

 竜安志の名前が世に出たのは、『チャイナ・アズ・ナンバーワン』(1997年)だった。エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)からヒントを得て書かれた、中国語タイトルでは『中国第一』(企業管理出版社)というこの書は、現在の中国経済の隆盛を大胆に予想している。中国を知らないジャーナリストの一知半解を冷笑し、アメリカ人のもつ中国に対するダブル・スタンダード的意見を強く批判する。外国人の書いた中国関係書籍で、今どきこれほどの中国礼賛は珍しい。

 出版されたばかりの竜安志編『中国的世紀』(香港中華文化出版社)には、さらに21世紀の中国の明るい未来が満ち満ちている。読みながらあちこちがこそばゆくなる。政治や経済に疎いぼくには格好の中国語の教科書となっても、正直言ってとびぬけて面白い本ではない。20年前の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の予想が悲惨に外れたことを知っているぼくたちは、竜安志のこの本に懐疑的になるのもやむをえないのだろうか。

 アメリカの弁護士資格を持つ竜安志は、天津で勉強した後、香港の大学でアメリカ人としてはじめて法律修士号を取得した。その後、香港のコンサルタント会社で欧米の多国籍企業の中国進出を戦略的、法律的側面から支援するようになった。

紅色資本(レッドキャピタル)

 待ち合わせた場所は、竜安志のアイデアで創設された新紅資倶楽部が経営するホテルである。古い四合院を買い取り、改装し、ホテルとバーにしたものだ。会社の名前は、1997年の香港返還を機に彼が著した本『レッドキャピタル』に由来する。おおまかに本の内容を紹介すれば、資本主義制度が返還後の香港で力強く生き、そこで誕生した「レッドキャピタル」こそが、中国の未来の原動力となっている、と要約できようか。

四合院の入り口にて

 その際、「ニューレッドキャピタル」というフランス・ワインのブランドを作って友人に配ったことからすべてが始まった。竜安志が作った、中国語でいうならば「新紅資」というトレンディなブランドは、友人たちに引き継がれて会社となった。バー、ホテル、そして、レストランを経営する。

 四合院につくられたバーやレストランのモチーフは60年代の北京である。ソファ、テーブル、ラジオ、時計、扇風機など、30年代の上海モダンを受け継いだ60年代の北京モダン・デザインで満ちている。文革毛沢東バッジが飾られ、毛沢東が紅旗に乗って閲兵する姿のオリジナルの置物が部屋の調度として用いられている。21世紀の変化のただなかにある北京で、レトロとしての60年代が立ち現れている。これこそぼくが20年憧れてきた住まい、インテリア、そして生活であった。

 20年の昔、北京と天津での共通体験は、ふたりのふたつの異なったパラレルワールドで20年間醸成され、だが、2001年の北京で再び交差した、そんな驚きが彼の話を聞くうちに徐々に徐々に巨大化した。いずれも20年前の原体験に憧れ、中国的文人になろうとしてきた東夷と西戎の空しい努力なのでは、と思わないでもない。ただ、今でも北京に住む竜安志の方が、いまだインタビューに現を抜かすぼくよりも、三歩も四歩も中国文人に近いことは確かだ。

 竜安志のお薦めのレストランは、もちろん、「新紅資倶楽部」。北京の友人たちを引き連れて60 年代レトロの四合院でのディナーを楽しんだ。味については、まあ、言わないでおこう。( 写真・岩崎稔 コーディネイト・原口純子)(2002年3月号より)

村松 伸(むらまつ しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。