燕京遊記 文人たちのモダンスタイル


今月の文人 高振宇

                   文・村松 伸

水、雲、竹。小宇宙にこめた
ふるさと宜興への賛歌。


高振宇(ガオ ジェンユゥ) 1964年生まれ。両親とも紫砂工芸の名手という家庭に育つ。日本留学を経て、93年北京通州区に築窯。この地での創作のほか、今年は陶芸ワークショップも始める予定。

 流れるような水紋がついた青白磁は、とても爽やかだった。ぽっかり空に浮かぶ雲紋は、軽やかに見え、竹の節をかたどった竹紋磁器はスマートでもある。ごつごつした感じはまったくない。通州区にある高振宇の工房兼自宅の二階は、作品の展示場となっている。大ぶりの壷、皿、瓶が無造作に置かれ、初めてぼくは現代中国陶芸の健やかさに感銘した。

 北京の骨董店や高級レストランで現在みられるのは、明清のカラフルな陶磁器の系統を引いている。実はぼくはその異国情緒ある華やかさが嫌いではない。宋の白磁や青白磁は身近にないし、あっても小ぶりで、中国大陸のもつ雄大さに欠ける。そんな偏見が、高振宇の作品を見て一挙に吹き飛んだ。

 一階にある中国式茶室は、さらに典雅さに溢れている。書が掛けられ、伝統的な卓、椅が置かれる。ウーロン茶を供され、ゆったりした部屋の中で、高振宇が作り出した宇宙にぼくははまり込んでいった。その隣には工房がある。大小いくつかの窯とロクロが置かれ、毎日夜遅くまで、ここで制作に励む。

 北京の東にあるかつての通県は、現在では北京の郊外住宅地となって、多くの文人たちが住んでいる。都心にも小さなアパートを持ち、郊外に別荘や工房を持つというのが、近年のアーティストたちの理想なのだ。『紅楼夢』の作者、曹雪芹の墓があって、紅学の大家で、高振宇の父親の古くからの友人、馮其庸が隣に住んでいるからここに移った。

 家の近くは南から大運河が到達し、かつては湾だった記憶が、楊家湾という地名に残っている。江南から運ばれた物資がここで水揚げされ、北京に搬送された。高振宇と妻の徐徐は、ここで古い磁器の破片を大量に見つけた。高速道路のために土が掘り起こされ、古い破片捨て場が出現したのだった。

 日本でも度々個展を行い、中国でも現代陶芸家として圧倒的な名声を勝ち得た高振宇は都市の喧騒から離れた通州で、瀟洒な邸宅に住み、トヨタの大型車に乗る。作品をつくり、友人がやって来ると茶室で茶を飲み、時折拾ってきた古い陶磁器の破片を愛でる。なんとすてきな人生か。37歳で、富も名声もすべて勝ち得てしまった。

東渡学轆轤

 しかし、流暢な日本語で、彼の短い人生を聞いていると、来し方は荒れ狂い、行く末には熱情が滾っていた。高振宇は1964年、江蘇省宜興市で、高海庚(1939〜85)を父とし、周桂珍を母として生まれた。両親とも紫砂工芸品の名手であり、高振宇も子供の頃から母親のそばで粘土をこねていた。したがって、彼はそんじょそこらの並みの陶芸家ではない。

 18歳で父親が改革して作った宜興市紫砂陶瓷工芸研究所に入り、現代の名人と誉れ高い顧景舟(1915〜97)に師事した。21歳で南京芸術学院に入り、理論や広い知識を学ぶ。大学院は北京の中央美術学院に入ったが、動乱の時期、さらに広い世界を知りたいという欲求は止み難く、1990年日本に渡った。ぜひロクロを学びたかったのだ。

 日本語を学びながら、東京の北千住に住んだのは芸大が近いからだった。時たま、芸大に行っては逸る心を抑えて門のところで佇んでいた。だが、彼の習ったデッサン法では芸大に入ることはできない。東京駅の駅下の焼き鳥屋でアルバイトをし、先輩にこれも焼き物じゃないかと冗談を言われた、今だからそう笑い飛ばすこともできる。

 やっと合格した武蔵野美術大学大学院で2年間、ロクロを学んだ。日本では土をどれだけ使ってもよい、その自由さと寛容さに驚いた。中国にはない「歪み」の美学も知った。陶芸家の地位の高さを羨ましくも思った。93年に北京に帰って、この地に中国人としては最初の個人用の窯を作ったのは、日本の闊達に振舞う陶芸家への憧憬からだったろう。

 日本で、高振宇が健やかに成長したのは、たまたま入学できた武蔵野美術大学陶磁器コースが実用性を貴ぶ学風だったこと、そしてなにより、ほんの子供の頃から粘土をこねまわして宜興の紫砂工芸技術を自由に扱えることができたからだ。この太湖のかたわらにある江南の小さな町を、高は今でもこよなく愛しているようだった。水、雲、竹、現在好んで使う紋様は、いずれも故郷宜興への賛歌でもある。

技巧の重み

 紫砂というのは、宜興で取れる堅い紫色の鉱石を指していう。それを採掘し、細かく砕き、粉にまで磨り潰す。水を加えて杵で叩き、薄く均一にした粘土を何千枚と重ね合わせ、さらにその度に杵で叩く。この根気は並大抵ではない。粘土を円柱にしたり、角柱にしたりし、さらに削って整えていく。

 明初に始まった宜興の紫砂工芸は、景徳鎮が官製の謹厳さが要求されたのに対し、個性と文人趣味が貴ばれた。作り手の名前が印として刻まれ、書かれたり刻まれたりする文字の品格や内容、作者名が評価の対象となる。明代の文人たちが愛し、清朝の皇帝たちもその風雅さに酔いしれた。日本にも明末に持ち込まれ、文人趣味の核となっている。

 こんな500年以上続いている紫砂工芸の歴史すべてを高振宇は生まれた時から背負ってしまった。技術とともに責任も同時に彼の背には張り付いている。離れには別の工房があった。母親、周桂珍は今でも茶壷を作っている。そばには、孫、つまり、高振宇と徐徐の9歳の娘が遊びで作った犬や鳥が並べてあった。かくして技術は受け継がれていく。

 拾ってきた磁器の破片を見せてくれながら、染付けをやりたい、と高は言う。でもほら見てください、この絵。一万回くらい描いてやっと出てくる技術ですよ、と。名人の道は遥かに遠い。だが、高振宇の場合その重圧に押しつぶされずに、新たな道を切り開いたことの方が重要だ。宜興だけにいたのでは到底突破できない袋小路を、国外に出ることで破ることができた。何万回と模倣することによって伝統は継承されていく。これを「臨」という。それができると「破」しなければならない。その二つがそろってのみ新たな次元に達することが可能なのだ。

 自慢の茶室で、高振宇はふたつの茶壷を見せてくれた。ひとつは、北京の骨董市場、潘家園で買った明代のもの、もうひとつは神戸の美術館で見た隠元禅師がもたらした茶壷を模倣した彼の作品。いずれも、巷で売りさばかれている技巧にのみ走った宜興紫砂工芸とは一線を画している。大胆な造形がその二つにはあるのだ。満ち足りたように見える工房生活の未来には、まだ挑戦する心が潜んでいた。

 高振宇と共にした昼食は、しゃぶしゃぶだった。江南で生まれた高は、北の食事がいまでも口にあわない。でも、福華肥牛火鍋城で食べた牛肉と各種のキノコのしゃぶしゃぶは、ちょっとその辺にはない、いい味だった。ことしの夏、ぼくは宜興を訪れてみようと今準備を進めている。( 写真・岩崎稔 コーディネイト・原口純子)(2002年4月号より)

村松 伸(むらまつ しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。