燕京遊記 文人たちのモダンスタイル


今月の文人 張火丁

                   文・村松 伸

京劇が実生活のなかに生きている。
すべてがその舞台だった。


張火丁(シャン・フオディン)
 1971年吉林省生まれ。京劇程派の後継者と認定され、99年には単独公演の成功により第17回戯梅花奨受賞。01年、モダン京劇『江姐』主演が話題に。現在、映画化も進行中。
 

 北京の南郊外に新築された高級住宅地に赴いた。琵琶奏者、楊静が住む「紫玉山荘」ほどの超高級マンションではないものの、北京でもひとが羨むようなマンションのひとつではある。その二階に張火丁の住まいはあった。周囲にはまだ建物は密集していない。のどかに車を洗っているひとや散歩する親子づれの姿も見える。

 京劇界の女優としていま最も時めき、近頃革命のヒロインの京劇映画『江姐』を撮った張火丁の美しさに眼を見張った。道に迷ったぼくたち一行をマンションの入り口まで迎えに来てくれていたのだ。その立ち振る舞いの見事なこと、一瞬でぼくは喧騒の北京から別の世界へと呑み込まれていった。たまたまその時、曹雪芹の『紅楼夢』を読み止しだったから、意識の中では『紅楼夢』の舞台、大観園と現実とが混濁していく。

 部屋は豪奢ではないけれど、ひとり住まいには十分広い。来年結婚するとのことだったからその新居なのかもしれない。『人民中国』の取材があるからと、近くに住む実母がわざわざ出向いて、場所を整えてくれていた。まさに『紅楼夢』の「金陵十二釵」、お姫様たちの世界の再現である。

 

 部屋には生活感がまるでない。マンションの外枠は2002年北京の上級レベルなのだが、インテリア、家具、食器、書籍、そんなものは、質素で20年前とさして変わりない。この趣味は彼女のというより、母親のものであるのだろう。ドイツ公演から帰ってきたばかりだから、何もなくて、と申し訳なさそうにしてはいたものの、生活感のなさこそ、張火丁の存在を解く鍵だと思った。

 それは否定的な意味ではない。むしろ、俳優として最も優れた生き方ではないのか。インタヴューの合間、ぼくは張火丁の話すことば、振る舞いに、魅了された。たゆたうようなことばのリズム、やや古めかしい会話の語尾、そして、指先まで意識を込めた所作、すっくと背筋を伸ばしてイスに座り、美しく足を組む。唱(うた)、唸(せりふ)、做(しぐさ)という京劇の基本が実生活のなかに生きている。いや、すべてが京劇の舞台そのままであった。生活感を排除し、常に全身全霊を舞台に集中することこそ、俳優の使命なのである。

 特注で作らせた服、飾り物を見せてもらった。その際の喜びの様は、群を抜いていた。ビデオも使えないんです、これからは英語でも勉強しなくては。そう、先ほどまでやや恥じ入って実生活を述べていたのとは異なった自信がそこにあった。

毅力10年

 

 中国、いや、日本でも同様なのだが、芸術界で女性が成功するためには、最低限美貌が必要だろう。その上に才能とさらに努力、対象に対する飢餓感が必須となる。これまで出会った男性のアーティストたちが、親の人間関係などというなんらかの有形無形の資力を受け継いでいたのに対し、女性は両親からの精神的な支えと自らの努力にのみ依拠して成功してきていた。楊静、そして、この張火丁がその好例なのである。

 1971年生まれの張火丁は、父親が北方の地方劇、評劇の役者、兄が京劇を志していたことに、大きく影響をうけた。14歳のある日、張火丁は京劇の役者になりたいと、父親に強くせがんだ。以来、艱難辛苦の10年が始まる。錦州戯曲学院の試験に落ち、京劇の権威筋に見てもらったなら、身体つきが京劇には相応しくない、とこれまた拒絶された。

 あなたは田舎劇の評劇役者になればいい、そう侮蔑のこもった批判に発奮したのか、張火丁はぜがひでも京劇役者になろうと考えた。父と娘の親子鷹は、北京の京劇役者王蘭香の門をくぐったところで、やっとその才能を認められる。1986年、15歳で張火丁は天津戯曲学校を受験し合格したものの、校区が違っていた。自費で通わざるをえなかった。娘の毅力も凄まじかったが、それを実現した両親の奮闘、まるで修身の教科書のエピソードようだ。

 

 それからとんとん拍子で張火丁は京劇界の花形になっていく。卒業と同時に、北京軍区戦友京劇団に入団する。なんとしてでも本場北京にやって来たかった。それが叶うと、今度は次の目標、程派の技巧を学び始める。京劇には民国時代から建国初期、四人の名優がいて、それぞれ一派をなした。梅蘭芳の梅派もそのひとつで華やかさを売り物にしていた。程硯秋に始まる程派は、苦しみに耐える女性を巧みに演じることで定評がある。まさに、張火丁に打って付けだった。

 1993年、張火丁は22歳で当時の程派を継承する78歳の趙栄陦を師とすることが許された。程派を受け継ぐということが公式に認められたのだ。張火丁の芸はますます上達していく。翌年、初めて一人舞台を演じる。10年の努力はここに来て報われた。とんとん拍子とはこのことで、大役を獲得し、各種の賞を受賞する。

江姐の如く

 張火丁の快進撃はまだ続く。昨年の六月、北京の長安大戯院で、『江姐』を演じた。この物語の江竹?(1920―49)は、解放直前に国民党反動派の拷問に耐えながらも最後は殺された女性の英雄である。貧しさ、努力、愛、党への忠誠、すべてがこの主人公のわずか29年の人生に充填されている。江姐は1951年に事跡が文章として紹介されて以来、映画でも舞台でも上演され、現代中国人にとってはお馴染みの気丈なヒロインである。

 

 まさに、張火丁と瓜二つ。中国共産党結党80周年を記念したこの現代京劇を、ほぼ同じ年齢で演じた張火丁は、映画監督張元を感動させた。彼の手でそのまま映画に写し取られ、いまや彼女の名声は京劇界からさらに中国社会全般の張火丁へと拡大しようとしている。

 『江姐』のCDを聞きながらこの稿を書いている。その歌声は高く、力強い。今回の取材の写真を取ってくれた岩崎さんとコーディネイターの原口さんが、テレビの撮影現場に行ったときだった。どんなに永い間でも張火丁は、辛抱強く、静かに出番を待っている。しかし、一旦出番となると、164センチの身体にオーラが出た。顔は変わり、一瞬で張火丁は女優に変身した、と。残念ながら、ぼくはその場にいなかった。でも、CDを聞き、DVDを見るだけで、芸術の神が彼女に宿るという意味は理解できる。

 実生活で張火丁はあいかわらず、恬淡としている。有名になったことをむしろ厭うているようでもある。大観園という京劇の世界ではすべてを獲得してしまった。だが、一端そこから外に出た姫様を迎える現実の社会はそれほどやさしいものではないのだろう。ここ数日、撮影の仕事が続いた、と焦燥したこころを覗かせていた。女優であるということは、江姐のごとく、生命を削ることなのかもしれない。

 彼女お勧めのレストランは、勤務先に近い瓦缸寨。四川料理のこの店は、名称の通り無骨な食器で料理を出し、彼女の気取らない姿を現している。忙しいからと、あっさり会食をご辞退されたが、美味なる蟹をつつきながら、芸術の神がご光臨あそばぬ際の、張火丁の素朴な魅力を反芻し、再度の遭遇を祈願した。(2002年9月号より)

村松 伸(むらまつ しん)1954年生まれ。東アジア建築史・工学博士。78年東京大学工学部建築学科卒業後、81〜84年清華大学留学を機に中国に淫す。著作に『中華中毒』など。本欄の題字、イラストも担当。