ナイチンゲール記賞を受けた看護師長


 「非凡なる勇気と献身的精神を兼ね備え、傷病者や障害者、戦争による被害者の救護に力を尽くした者で、ナイチンゲール記賞を受ける望みがある者が、実務の中で犠牲になった場合は、同記賞を追って贈ることができる」(フローレンス・ナイチンゲール記賞規則第二条)

 悲しいことに、葉欣さんは家族や同僚と永別し、この世を去った。全中国の人々が新型肺炎SARSと闘っている重要な時期に、SARS抗戦の第一線に立って勇敢に闘ってきたこの看護師長は、SARSによって無情にも、その若い命を奪い去られたのだった。

 5月12日は、特別の意義を持つ国際看護師デーである。赤十字国際協会は正式に、葉欣さんにナイチンゲール記賞を追贈した。もし彼女の霊魂が存在しているなら、これは彼女に対する一番の慰めになっただろう。

 葉欣さんは生前、広東省の中医病院二沙分院救急診療科の看護師長だった。1956年7月、彼女は広東省徐聞県の医者の家に生まれた。看護師となってから、その仕事ぶりが抜群であり、品行は方正だったため、わずか4年で看護師長に任じられた。この病院の中でもっとも若い看護師長となった彼女は、死神との競争で分秒を争う救急診療科で、23年間ずっと働いてきた。

 2001年、福建省の山地から来た重症患者が、救急診療科で治療を受けた。病状がやっと安定したとたん、この患者は家に帰してほしいと言い出した。葉欣さんはそうしないよう懸命に忠告したのだが、患者は言うことを聴かず、救急診療科は救急車で患者を家まで送り帰すことを決めた。

 葉欣さんは進んで、救急車に乗って付き添い看護をすると申し出た。22時間も車に揺られながら看護したすえ、患者は安全に帰宅することができた。しかし彼女は腰がまっすぐに伸びなくなってしまった。だが、できるだけ速く職場に復帰するため、彼女は次の日の午前中に、自費で航空券を買い、飛行機で広州に帰ってきた。「葉欣さんは自分の仕事に対しずっとこんな風に一生懸命でした」と同僚たちは言っている。

「この患者の検温や肺の聴診、痰の吸引は私がすでに済ませたので、あなた方は入って来てはいけません」――SARSを迎え撃つ闘いの日々の中で、同じ科の看護師たちは彼女がいつもこう言うのを聞いた。

 2月から広東省中医病院二沙分院は次々にSARS患者を診療した。それ以前に、同病院の本院で、第一線の医療従事者がSARSに感染して倒れたので、葉欣さんはとくに注意深かった。毎朝彼女は、30分前に救急診療科にやってきて、皆に配る予防薬を準備し、医者や看護師、看護労働者一人一人に配って回った。それは病院の清掃労働者も例外ではなかった。

葉欣さんは、病室に入る前には服や靴、靴下をとり換えること、マスクや帽子、ゴーグルをしっかり着けること……といったさまざまな予防措置を繰り返し強調した。彼女の眠る時間は毎日、数時間しかなかったが、寝る前に薬を煎じるのを忘れたことはなかった。その煎じ薬は「花旗参」であったり、「冬虫夏草」であったりしたが、彼女はそれを次の日、病院に持って行って、免疫力を高めるため同僚たちに飲ませたのである。

 ある日、心臓の冠状動脈を患っている梁という患者が、発熱と咳のため救急診療科にやってきた。そして見る見るうちに病状が悪化し、呼吸が困難になり、精神的に不安定となって、心臓も呼吸も衰弱した。葉欣さんは一番に救急診療室に駆けつけ、手馴れた手つきでベッドの一方の背を持ち上げ、患者が半身を起こす状態にし、酸素マスクをつけ、心電図をベッドのそばに置き、強心剤を静脈注射した。こうして2時間が過ぎ、患者はついに危険状態を脱したのだった。

だが葉欣さんは休みもせずにすぐ別の患者の救援に取りかかった。なぜなら、人工呼吸器をつけた7番ベッドと9番ベッドの二人の患者を看護する仕事があり、彼女の検査を待っていたからだ。このように、葉欣さんには、危険性が高く、厳しい仕事がついて回った。しかし彼女は、家族からの電話が来ても電話口に出ようとはせず、電話を受けた同僚に「いま仕事中。大丈夫と伝えて」と言うだけだった。

 同病院がSARS患者を救護した期間中、葉欣さんはできるだけ重症患者の検査や救護、治療、看護を一手に引き受けた。時には同僚たちを室外に締め出して、まったく相談しないということさえあった。

 しかし、不幸はすぐにやってきたのである。2月24日は葉欣さんにとって、いつものように忙しい日であった。前夜、彼女は宿直だったが、そのとき全身に痛みを感じ、倦怠感がひどかった。SARSの診療が始まって以来、彼女は昼も夜も仕事をし、いったい何時間働いたかも分からない状態だった。

 24日午前、腸閉塞の疑いのある急性の腹痛患者が救急診療科にやって来たが、この患者のいくつか症状が、医者や看護師の重大な関心を引き起こした。検査の結果、果たせるかな、またSARSだった。間もなく患者の病状は急速に悪化し、すべての激しい症状は、この患者が毒性の非常に大きな重症患者であることを示した。

 葉欣さんは専門の医者らとともに迅速に救護活動を展開し、患者はついに死線から引き戻された。しかしSARSはこのとき、葉欣さんの身体に侵入したのである。

 翌日、葉欣さんは全身に寒気を感じた。検査の結果、彼女はSARSに感染していると確定診断された。そして彼女が27年間勤めてきた広東省中医病院の本院に入院せざるを得なくなった。

 治療が始まったばかりのころ、彼女はまだ電話をかけることができた。そこで彼女は毎日、勤め先の救急診療科に電話を入れ、みんなにSARSの予防薬を飲むのを忘れないよう、彼女と接触したことのある同僚に体温に注意するよう、さらに看護師は7番ベッドの患者の尿量を記録するよう、9番ベッドの患者に寝返りを打たせ、背中を軽く叩くよう……などと言うのだった。

 発病してから4日目、彼女に呼吸困難の症状が現れた。そこでやはりSARSに発病した救急診療科の張主任とともに、重症患者を看護するICU(集中治療施設)に送られた。ここでは患者はみな酸素マスクをつけているため、携帯電話でショートメッセージを送ったり、紙片に字を書いたりして、互いに励まし合うことだけしかできなかった。救急診療科の看護師長と主任が、ICUの中でも「鴻雁、書を伝う」(手紙をやりとりする)をしていると、みんなは冗談を言ったものだ。

 同僚が彼女と接触し、感染する機会を少なくするため、彼女は自分で点滴の液を補充した。医者や看護師が彼女のすぐ近くで肺の音を聞き、痰を吸引する時にはいつも、紙に「私に近づかないで。伝染するから」と苦労しながら書いた。病院の院長や他の同僚が見舞いに来たときには、彼女は「私は苦しいけれども耐えられます。お心遣いには感謝しますが、今後は見舞いに来ないで下さい。皆さんに病気をうつしたくないのです」と書いた。

 3月11日、同室の張主任は、葉欣看護師長からの最後の紙片の便りを受けとった。それには「私はもう本当に耐えられなくなりました。人工呼吸器をつけなければなりません」と書かれていた。同じように呼吸困難に陥っていた張主任は震える手で「看護師長、あなたはきっと大丈夫だ。全病院の医師、看護師が我々を支持しているよ!」と返信を書いたのだった。

 しかし張主任は、これ以上看護師長からの返事を受けとることはなかった。3月24日の明け方、葉欣さんは静かにこの世を去った。

 その同じ日、ICUにいた一人の患者が退院した。その患者こそ、2月24日の夜、葉欣さんが命がけで看護したあの腸閉塞とSARSの合併症を起こした男性だった。このことを知らせれば、彼の将来の生活に暗い影を落とすかもしれない。そうしないために、退院する彼に、救ってくれたあの看護師長が現在、半生を捧げた病院の中で永久の眠りに就いているということを誰も知らせなかった。

葉欣さんが世を去った後、中国共産主義青年団中央と中央党史研究室、国家トウ(木へんに當)案局が4月20日、インターネット上に「葉欣記念館」のホームページを開設した。その後わずか三日間で、これに延べ100万人以上がアクセスし、1万5000以上のメッセージを書き込んだ。このメッセージは、葉欣さんを追悼し、SARSと闘う第一線の多くの医療関係者に対し崇高な敬意を表するものであった。

           『人民中国』インターネット版 2003/5/30