花卉栽培者と花の郷里

盛芳園花卉栽培基地の劉徳君さんは、最新設備の整った温室の中で、参観者に花の品種を説明している
 40歳の劉徳君さんは、北京市豊台区花郷の農民であり、栽培基地のマネージャーだ。祖父の花卉栽培を見て育ったからだろう。花を育てることが生まれつき好きだった。心を込めて育てた花が咲いた時には、すがすがしい気持ちになり、達成感を味わう。

 高校卒業後に肉体労働や洋服販売のビジネスをしたにも関わらず、最後は先祖代々続いてきた本職、花卉栽培の仕事に戻ってきた。

 花郷地区は、北京市の南西郊外に位置し、同地の農民は、長く野菜や花卉を栽培して暮らしを立ててきた。元代以降は、栽培した白菜、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ、ニラ、ニンニクなどを都市部に供給し始めた。解放前の北京で、天秤棒を担いで花を売り歩いていたのは、大部分が花郷地区から来た農民たちだった。北方の冬は寒冷のため、同地の農民は、早くからオンドルで暖を取る方法を採用して、冬に野菜と花の栽培を行っていた。そして、ボタン、ロウバイ、ジャスミンなどを暖房室で育て、需要のある時に花を咲かせていた。

栽培基地には、ずらりと温室が並ぶ

 劉さんの祖父が現役だった頃、もっとも得意とした手法は、「花あぶり」である。庭に小さな室を作り、保温と充分な補光を行い、花を咲かせていた。そして都市部や農村の定期市、縁日などで売り、生活の足しにしていた。冬場には高値で取り引きされたが、各農家の生産規模は小さく、劉さんの家でも、暮らしていくのがやっとの状態だった。

 新中国成立後、花郷地区には、黄土崗人民公社が成立し、土地は共有化された。穀物、野菜、果樹、花卉栽培が、同地の主要産業である。文化大革命の時期には、生花は資本主義の兆候、「毒草」と見なされていた。そのため、誰も生花を育てる勇気はなく、花畑や長年栽培されてきた貴重な花や木を絶えさせてしまった。当時の中国人にとっては、腹を満たすことこそ、当面の急務だった。

 当時、劉さんの父親は、他の花卉農家と同様に、生産隊の畑と水田で野菜と米を栽培していた。家伝の花卉栽培技術を活かす場所はなく、自宅の庭で菊やジャスミンを栽培するだけで、友達から所望されれば贈るか、時々隠れて売って、家計の足しにする程度だった。

技術スタッフと意見交換している劉徳君さん(右)

 「改革・開放」後、衣食に困らなくなってきた中国人は、精神生活の充実を求め始め、生花が、都市生活の中で、欠かせない役割を担うようになった。いまでは、年越しや祝日、親戚や友人宅への訪問、部屋のインテリア、パ [ティー、病人のお見舞い、開店や引越しなどの各種お祝いや祝賀イベントなど、生花を買ったり贈ったりする理由には事欠かない。都市部での生花の需要が大幅に増加し、花郷地区の農民に、大きな実益をもたらした。

 黄土崗人民公社が、花郷に改名されたのは1982年のことだ。当地の農民は、先祖代々伝えられてきた花卉栽培技術を改めて発揮できるだけでなく、集団所有制経済の優位性を利用して、農業会社を設立し、近代的な花卉栽培基地を作り上げた。花郷は、今では花卉栽培農家のブランドになっている。

花卉栽培と花卉販売

 劉さんがマネージャーを務める盛芳園花卉栽培基地は、24ヘクタールあり、120人の従業員のほかに、15人の技術スタッフが働いている。同基地には、花卉の鮮度を保つための200平方メートルの倉庫、同規模の生花加工作業場、1万平方メートルの最新設備を備えた温室、約5ヘクタールの各種の自然光による簡易温室がある。

生花の人気は、花卉農家に実益をもたらし、基地の従業員の年収は、数年前の6000元から約1万4000元にアップした

 同地の花卉農家は、十数年前に露天栽培をやめ、室温や湿度を調節できる温室内で、無土、水中、立体などの先進栽培技術を採用して、生花を育てている。私たちはある温室内で、赤と緑が映えるベニウチワを見かけた。オランダ原産の種で、一般家庭で育てる場合、年に多くても2、3回しか花をつけないが、基地で先進の栽培技術を使えば、年15、6回咲かせることが可能だという。

 同基地では、生花栽培のほかにも、企業や事業体、生活区などの緑化計画、草木の選択や栽培についての提案も行っている。高い園芸デザインレベルがあって、はじめて入札で勝ち抜くことができる。

 技術スタッフのほとんどは、専門学習と職業訓練を受けている。私たちを案内してくれた技術員の郭春雷さんは、生まれも育ちも花郷地区の農民だ。彼は、高校卒業後に軍人となり、復員後、ふるさとに戻り、花卉業界に入ることを選んだ。

 同基地は彼を上海で研修させ、その後、技術主管を務めさせている。郭さんは、「ふるさとでの花卉栽培の仕事を選んだのは、今後大きく発展する可能性を秘めた業界だと思ったから。ここでの仕事は、都市部の肉体労働と何ら変わらない。自分達が育てているのが花だってことだけでね」と話した。

 現在、同基地の年産は、生花300万本、鉢植え30万鉢以上、緑化用の苗木は50万株以上で、年商は1000万元に達する。近年、生花は日本や韓国、オーストラリアなどにも輸出されている。取材に出掛けた日にも、日本の会社が交渉のために足を運んでいた。

日本など、外国の花卉会社の参観者も後を絶たない

 その日は、ちょうど春節(旧正月)休みが終わったばかりの頃だったため、温室の花卉は、半分以上が植えられていない状態だった。郭さんは、「春節は花卉販売のピークで、春節前のにぎやかさと言ったらなかった。見てのとおり、ほとんどの花が買われていった」と話した。

 春節は、中国人がもっとも重視する伝統的な祝日である。年越しを祝って贈り物をする習慣は変わっていないが、贈り物の種類が変わってきた。以前は、タバコ、酒、菓子折り、果物を贈る人が多かったが、最近では、生花になった。生花を飾ったおしゃれなかごや満開の真っ赤なツツジの鉢植えが、親戚や友達にお祝いと春の香りを届ける役割を果たす。

 心を込めて花を贈るという新しい習慣が、生活を温もりのあるものに変える。今年の春節、特に人気だったのは、ツツジ、コチョウラン、シクラメン、パイナップル、ベニウチワ、ポインセチア、カラーなど。これらの色鮮やかな花が、祝日の華やかで楽しい雰囲気を運んでくれる。縁起のよさそうな名称も、人気の秘密だろう。

春節の花卉の売れ行きは好調で、従業員は、苗の準備に余念がない

 例えば、シクラメン。鮮やかな花をつけるだけでなく、中国語では「仙客来」といい、「仙人のような客人が来た」という心地よい響きがある。客間に置いておけば、訪れた親戚や友達は愉快になり、主人としても誇りを感じることができる。

 今年の新暦の正月と春節の期間、北京の花卉市場では、1000万鉢以上の花卉を販売し、生花の供給は1億株を超えた。品種は、大分類で19あり、細かく分けると500種以上に達した。

 現在、北京の三環路と四環路沿いには、20近い大中型の花卉卸売り市場があり、年取引額は5億5千万元以上である。

現在と未来

 前述の劉さんの息子は、15歳の中学3年生だ。息子が花卉栽培に興味を持っているかどうかに話題が及んだ時、劉さんは言葉に詰まって、「あいつを(基地に)連れて来たことはあるが、ぶらぶらしただけで、花については何も聞いてこなかった。何の興味もないようだ」と残念そうに話した。

生花専売店

 ある時劉さんは、「農業大学で花卉栽培を学び、家業をついでほしい」と息子に話したことがあったが、反応は麗しくなかったという。息子は電子関連や各種電気機器の修理に興味があり、すでに、ちょっとしたトラブルなら、友達のパソコンを直してしまうほどの腕前がある。

 劉さんは、仕方がないという表情で、「子どもは、将来に対して大きな選択空間がある。私の頃とは違う。当時は小さい頃から農業を手伝ったものだった。手に職があってこそ、生活の糧を得られたから」と話した。

盛芳園花卉栽培基地は、北京市中心部に、生花専売店5店舗を持つ

 生活について、劉さんはこう言った。仕事は順調で、年収は7万元あって衣食には困らないが、競争が激しすぎて、心休まる閑もない。以前は昼間は生産隊で働き、夜は自分のものだった。庭で花を育て、小動物を飼い、のんびりとした生活を享受できた。しかし今はそんな余裕はない。ほとんどの余暇を接待や人付き合いに取られ、そんな友人や同業者との交流を通して、花卉業界の最新情報や動向を知る必要がある。そうすることでようやく、自分の花卉栽培基地をさらに発展させることができる。

 劉さんの定年退職した父親にも、別の悩みがある。ここ数年、北京の市街区の拡大により、都市に隣接した花郷地区も、生活が都市化していることだ。

花郷地区の人々の新居となった草橋欣園生活区

 彼の家がある草橋村では、1998年から、「旧村改造プロジェクト」が始まった。地方政府は、新しく建てられた住民楼(マンション)を廉価で村民に販売し、従来の村落は、徐々に都市と何ら変わりない住宅区になりつつある。99年、劉さん一家も何十年も住んだ旧家を離れ、草橋欣園生活区の新居に引っ越した。同じ建物の六階に劉さん夫婦と息子が住み、3階に彼の両親が住んでいる。

 都市化した生活にも、劉さん家族はすぐになじんだ。彼は、農村の子どもは、誰もが都市の生活にあこがれている。マンションの清潔で便利な生活を嫌がる人なんていないと言う。

 しかし、劉さんの両親、特に父親は違った。お年寄りは、生まれてからずっと、花や鳥をかわいがってきた。旧居では、庭いっぱいに花を植え、自分で楽しむだけでなく、隣人や村人とも一緒に愛でていた。そして夏の夕暮れ時には、庭に出て夕涼みをし、おしゃべりして過ごしていた。

 マンションに移り住んでから、楽しみを奪われてしまった彼は、たびたび病気をするようになった。狭いベランダには、服や布団を干さなくてはならず、とても花を育てる場所はない。庭も花もなく、隣人と何の遠慮もなく付き合える環境もなくなり、生活は無味乾燥になってしまった。

 父親の心を察した劉さんは、新しい生活に慣れてもらおうと、マンションの良さを繰り返し説明した。例えば、冬でも練炭の暖房を焚く必要がなく、灰の処理も不要で、室内の洗面室は、公衆トイレとは比較にならないほど清潔、便利なことなどを聞かせた。また、大きな水槽を四つ買ってきて、花や鳥に向いていた関心を金魚の飼育に向けてもらおうとした。それに父親が、好きな時に村に戻り、まだ引っ越していない昔からの友人とおしゃべりできるようにと、中国のお年寄りに人気の大人用の三輪車を買ってきた。

草橋村の1200あまりの家族のうち、すでに700家族以上がマンションに引っ越した

 老夫婦は、引っ越してから一年くらい経った頃、ようやくマンションでの生活のコツをつかんだ。今では毎日、朝早く起き出して、まず朝市を見て歩き、近所の人とおしゃべりしながら買い物を済ます。そして公園を散歩する。彼らは、北京市の公園の年間パスを購入し、大きな公園に順番に出掛けることにしている。こうすることで、体を鍛えられるだけでなく、家でつまらない思いをせずに済む。かつて近所の人とおしゃべりしていた時間は、こうして朝市と公園での生活に変わった。

 劉さんによると、彼の父親がもっとも満足しているのは、マンションが清潔なことで、両親の部屋は、劉さん家族の部屋よりもずっと清潔だという。「仕事帰りに寄った時など、父は靴についている土を嫌がり、スリッパに履き替えるように言うほどだよ」

 劉さんにはこんな願いがある。息子を説得して、農業大学などで、電子技術あるいはコンピューターを学ばせることだ。これらの専門は、将来必ず、花卉業界で役に立つ。「できれば、自分の後を継いでほしい。のんびり説得するよ」(2003年5月号より)


∇「旧村改造プロジェクト」前後の住宅の変化例
 (草橋村の5人家族の劉徳君さん)

 ・従来の住宅:平屋建て
     建築面積 210平方メートル
     庭面積  150平方メートル

 ・現在の住宅:マンション(草橋欣園)
        総面積180平方メートル
        庭なし

※従来の住宅と現在の住宅は、「交換」した。

※規定面積以上の部屋を希望する場合、優遇価格の1500元/平方メートルで購入できる。同地区のマンション平均価格約4000元/平方メートルと比べお手頃に設定されている。

∇盛芳園花卉栽培基地の国内販売額の変化
 (生花、鉢植え、苗木などのあらゆる花卉)

劉徳君さんは、草橋欣園の部屋の内装に、10万元以上を掛けた