W杯サッカーに初出場する中国チーム
苦闘の歴史と高まる期待


 
 

 第17回ワールドカップ(W杯)サッカーが5月31日、日本と韓国で開幕する。W杯がアジアで開催されるのは初めてで、世界のサッカーファンの耳目が東アジアに集まる。中国のサポーターは、日本、韓国のサポーターとこの喜びを分かち合っている。

 中国のサポーターにとっては、さらにうれしいことがある。それは、中国チームが44年来、初めてW杯の決勝に出場できることだ。昨年、4年に一度の「ダイナスティーカップ」が開催された。人々の関心は、日本と韓国に集まったが、中国のサッカーチームも、「神秘のコーチ」と称えられるボラ・ミルティノビッチの指揮の下で、残り二試合を残して、W杯出場権を獲得した。

W杯の予選に出場した呉承英

 新中国成立以来、中国の経済や社会のたゆまぬ発展にともなって、中国のサッカーも、初期の普及の段階を経て、プロのサッカーが組織されるまでに発展し、さらに中国プロ・サッカーのリーグ戦が行われるまでになった。一万人を超す中国のサポーターたちは、W杯初出場の中国チームを応援するため、韓国に行こうとしている。

 

今夜は誰も眠れない

中国チームの符賓(左)、楊璞(左から三人目)、江津(左から四人目)が、高々と国旗を掲げて、勝利を祝った

 2001年10月7日のあの夜を振り返ってみよう。

 北京・三里屯のバーには、空席がまったくなかった。その夜の話題はもちろん、W杯予選の、中国対オマーンの試合だった。この試合によって、中国が二試合を残してW杯の決勝に出る資格を獲得できるかどうかが決まる。

W杯の予選で、ヘディングで競り合う謝輝

 遅く来れば、サッカーの試合中継を観戦する最も良い場所がなくなってしまうのを恐れたからだろう、日が暮れると、バーは早々と満員になってしまった。店の主人が言うには、中国チームの試合がある日はいつも、バーの売上げは特に良いとのことだ。

 ゲームは北京時間の午後7時45分にキックオフした。中国チームが攻勢と防御を繰り返すたびに、バーにいる人々は期せずして「ワー」「ワー」と叫び声や歓声をあげた。

白熱する「甲A」リーグの試合(北京国安―山東魯能戦)
ドリブルで突破する中国の9番、白潔(中)

 後半20分、中国チームの于根偉が、ペナルティーエリア内で強烈なシュートを放って、ゴールを決め、得点を入れた。その瞬間、バーの中は「ウォー」という叫び声でわきかえった。イスに座っていた人はみな跳びあがった。20歳前後の女性ファンは、「于根偉、愛してるわ」と絶叫した。

 そして次の瞬間、みんな静まりかえった。ゴールの喜びが、期待に変わったのである。誰もがみな、この得点が勝利に結びつくよう望んだのだった。みな手を取り合って、目はテレビ画面にくぎ付けとなった。わずか二十数分の時間が、このときばかりは非常に長いと感じられた。

 ついに試合終了を告げる審判のホイッスルが吹かれた。中国チームは勝った。中国チームはついにW杯決勝に出場することができたのである。

 だれもが自分の気持ちを抑え切れなかった。テレビ画面上では、中国チームのキャプテン、范志毅が、両手で顔を覆い、フィールドにひざまずいていた。バーの中では、感激したサポーターが涙を流していた。このとき、一人のサポーターが、バーから外にとび出した。そして大通りで、大声で叫んだ。「中国チームが勝ったぞ」

 その叫び声はたちまち大きな反響を引き起こした。通りに面したバーというバーから、雷のような歓声が上がり、みんなが口々に叫びながら、外へ出てきた。ある人は手に国旗を持って左右に振った。互いに見知らぬ同士が、手を叩きあって勝利を祝った。多くの道路は瞬く間に、わき立つ大河の流れのようになった。

 無数のサポーターが、四方八方から天安門広場に向かった。一時間にもならないうちに、天安門広場には1万人以上が集まった、という。

 自発的な祝賀の行動は深夜まで続いた。北京国安サッカークラブのサポータークラブ主任の武英芳は、こう分析している。

 「おそらくこの勝利を得るまでに、中国のサポーターは、あまりにも長く待たされたせいでしょう。中国チームは1957年にW杯を目指して出撃して以来、今日の予選突破に到るまで、どれだけ失敗と挫折を繰り返してきたことか。中国のサポーターは、44年間、抑圧してきた感情を、ここで一挙に押し流し、鬱憤を晴らす必要があったのです」

ついにかなった名選手の夢

熱狂的な中国のサポーターたち

 中国チームがオマーンに勝った次の日の朝、一人の中年男性が、手に花束を持って、北京工人体育場にやってきた。彼は花束を芝生の上に置いてこう言った。

 「お父さん、会いに来ました。良いニュースを報告します。中国チームがついにW杯に出ることになりました。あなたが数十年も待ち望んでいた夢が、ついにかなったのですよ……」

 この男性の父は姜傑祥といい、新中国が成立した後、初代のサッカーナショナルチームのメンバーであった。

 姜は大連の生まれで、小さいころからサッカーに夢中だった。自分の家で作った布製の靴は、彼がボールを蹴るため、数日もしないうちに、靴の前と後に穴が開いた。時には足から血が出たが、それでも彼はボールを蹴り続けた。

 50年代初め、姜は、彼の願い通りに、中国初代の「国脚」の称号を与えられた。彼の技量は全て完成されていて、ナショナルチームの傑出した左のディフェンダーであった。まるで命がけのように猛烈に球を奪うため、サポーターたちはみな彼を「ニエ命三郎」と呼んだ。「ヘン命三郎」は水滸伝に登場する英雄豪傑の一人で、命がけでことを行うためこのあだ名が付いた。

 1957年、新中国になって初めてのサッカー・コンクールで、彼は観衆にもっとも愛されている選手の一人に選ばれた。

 1988年、姜は病気で入院した。手術を受ける前に、彼は妻の手を取ってこう言いつけた。それは、死んだら自分の遺骨を、彼がかつて国の名誉のためにがんばった北京・先農壇体育場と工人体育場の、左のディフェンダーの定位置に埋めてほしいというものであった。彼はサッカーとともに生きてきたが、死後も、若い人たちがボールをどう操るかを見たかったのである。「そうしてくれれば、私は安らかに眠ることができる」と彼は遺言した。

 1990年、姜は心臓病でこの世を去った。彼の二人の息子が遺骨を受け取ったとき、意外にも骨壷の中に十数センチの鋼の板が一枚あった。医者がこれを鑑定したところ、この鋼板は、断裂した大腿骨をつなぐために打ったものであることがわかった。息子たちは驚き、あきれた。

カク海東(右)は、中国「甲A」リーグの二〇〇一年の最優秀ストライカーに選ばれた。

 もともと、長時間にわたる激しすぎる訓練と、繰り返される強い当たりによって、姜の身体は満身創痍になっていた。1956年、姜は大腿部の手術を受けたが、ナショナルチームで引き続きプレーできるように、彼は誰にも本当のことを話さなかった。家族でさえ、彼の死後はじめて、傷があれほど重かったことを知ったのである。

 家族は涙を流しながら、姜の遺骨を先農壇体育場と工人体育場のグラウンドに埋め、彼の願いをかなえたのだった。

 後に中国のナショナルチームが工人体育場で試合をするとき、当時のキャプテンだった李富勝はこう言った。

 「われわれはイレブンではなく、12人でプレーしていることを忘れるな。もう一人、姜傑祥が、われわれとともにいるのだということを」

国際試合に初参加した中国

 中国のW杯出場がなかなかやって来なかった。しかし、中国の現代サッカーの源は、遠く19世紀の八〇年代まで遡ることができる。当時、香港の皇仁学校と聖約ノェ学校の中国人学生が、英国人の真似をしてサッカーを始めた。その後、中国の一部の沿海都市にある学校で、サッカーは盛んになり始めた。

北京高徳体育経紀有限公司が資金を出して、中国サッカー協会の役員と「甲A」リーグの一部のコーチが英国を視察した。(写真提供・北京高徳体育経紀有限公司)
2001年10月、中国で初めて発行されたサッカー籤。中国国家体育総局の袁偉民局長が最初の籤を買った(撮影・馮進)

 1936年、中国は初めてオリンピックのサッカー競技にチームを派遣した。しかし、当時の国民政府は、資金面で十分な援助をすることができなかった。22人で構成された中国チームは、2カ月以上も前に出発し、途中で試合をしながらオリンピックに参加する費用を調達しなければならなかった。

 長旅であり、しかも途中で27試合も行った後、中国チームはついにオリンピックの試合の行われるベルリンに着いた。しかし、試合をしながらの旅行による疲労がひどかったため、中国チームは英国チームに0―2で敗れ、中国サッカーの初の国際試合は早々と終わった。

 新中国の成立は、中国の体育活動に春をもたらした。毛沢東主席は「体育運動を発展させ、人民の体力を増強させよう」と呼びかけ、このスローガンの下で、全国津々浦々で、体育運動を展開する一大潮流が巻き起こった。サッカーも大衆の中で盛んになっていった。当時、ほとんどの大工場や鉱山、企業、団体はみな自分のサッカーチームをつくり、いつも互いに試合を行った。

 新中国の第一代の指導者たちは、サッカーに大きな情熱を注いだ。当時、国家体育運動委員会の指導をしていた賀竜元帥は、いつも現場に赴いて試合を観戦した。1958年、中国チームは初めてW杯の予選に参加し、敗れたが、賀龍将軍は悲憤慷慨して「三大球技が予選を突破できなければ、死んでも死にきれない」と言った。当時、「三大球技」といえば、サッカーとバスケットボール、バレーボールだったが、当時の中国は、いずれも成績が芳しくなかった。

スコットランドダンディーに入った范志毅

 当時、中国の指導者たちが、中国のサッカーチームの実力に高すぎる評価を下していたとはいえ、サッカーは確実に活気にあふれて発展する現象を見せ始めていた。

マンチェスタークラブのテレビ局のインタビューを受ける祁宏(左)

 その後、中国は、張俊秀、年維泗ら15人の若い選手を選んで、ハンガリーに留学させた。一年半の研修と試合を通じて、彼らの基礎的技術と実戦能力は大いに向上した。こうした選手たちは、その後の30年間、相次いで中国サッカーの指導者となり、またその生き証人となった。

 しかし、やっと歩き始めたばかりの中国サッカーは、ちょうど幼い子供がまさに成長を始めようとしているとき、1966年、「文化大革命」が始まった。そして10年に及ぶ大災難によって、サッカーは徹底的に叩き潰されたのである。この10年で、中国のサッカーは、はるか世界から置き去りにされたのだった。

暗黒の「五・一九」事件

サッカーは、子供たちの好きなスポーツの一つだ(撮影・馮進)

 ご存知のように、中国の閉ざされた大門は、1978年12月、ついに開け放たれた。改革・開放政策の実行に伴って、さまざまな分野で、凍結が解除され、復活し、新しいものが出現してきた。中国人の生活はだんだんと改善され、テレビの保有台数は、倍々の勢いで増加した。主婦たちの買い物籠の中も豊かになり始めた。若い人たちは、流行のラッパズボンをはいて喜んだ。サッカーもまた、静かに始動し始めた。

 1979年、中国は、国際サッカー連盟における合法的地位を回復した。82年には中国の中央テレビが初めて、第12回W杯の試合の中継放送に成功した。世界の一流のサッカー試合が、突然、人々の目の前で展開されたのである。中国の観衆は、スター選手のすばらしいプレーに酔いしれた。

 その後、W杯や欧州選手権など重要な試合が行われるたびごとに、中国の勤め人たちは、「仕事の低迷期」に突入した。時差の関係で、中国人がヨーロッパで挙行される試合を見るのは、通常、深夜になる。サッカー狂は、深夜に起きだして試合を見る。そして一晩中、精力を使い果たすから、次の日は当然、元気が出ない。だから、仕事がうまくいかない。ひどい場合は、試合の時期になると、家庭内で「大地震」が発生することもある。深夜に試合のテレビを見るため、家庭全員が安眠を妨げられる。夫婦間で争いが起こるのもみなこのためである。

 人々は毎日、争うようにスポーツ紙を買い求める。公園やバーで、サッカーを論ずる人たちはいたるところに見られる。サポーターの数は、急激に増えていった。同時に、中国人がサッカーに熱をあげるに伴って、中国チームに対する期待はますます高まっていった。それはほとんど病気といってもいいほどの高まりだった。

中国のサッカーが予選を突破したことを記念して発行された郵便切手は、好評だった

 1985年5月19日に発生した事件は、中国人にとって長く忘れることのできないものである。W杯予選の最後の一試合は、中国チームがホームで、香港チームを迎えて戦った。引き分けならば予選を突破できるという有利な状況の下で、中国チームは意外にも1―2で敗れ、W杯の出場権を失ったのだ。

 さしも大きな北京工人体育場の中はたちまち大混乱に陥り、数万人のサポーターたちは、国家体育運動委員会を取り囲んで攻撃した。多くは涙を流しながら、当時のヘッドコーチの曾雪麟に、辞職して、天下に謝罪せよ、と要求した。

 曾は当時を振り返り、こう言う。「私はそのとき、噴火口の上に自分が座っているように感じた。明日のお天道様が拝めるかどうかさえわからなかった」

 感情のコントロールを失った一部のサポーターは、街頭に出て、一部の商店や自動車、さらに外国人に対してまで、過激な行動に出た。政府はやむを得ず、多数の警官を出動させて秩序の維持に当たった。これが「5・19」といわれる中国サッカー史上の暗黒の一日である。
 1989年、中国チームは再びW杯に出場できそうになったとき、また驚くべきことが起こった。中国チームが1点リードで迎えた後半、終了間際の3分間に、相手チームにゴールを二本決められたのだ。上海の若いサポーターは、その場で突然死してしまった。当時、直接の責任を問われた選手の董礼強は、その重荷に耐え切れず、次の日、路上で突然卒倒して……。

 失敗に継ぐ失敗。中国のサッカーがW杯に出られるまでの歴史は、中国のサポーターたちが傷だらけになった歴史でもある。

プロ・サッカーリーグ発足

 1990年、イタリアでW杯が成功裏に挙行されてから、世界的なサッカーブームが巻き起こった。しかし、中国チームは予選で、意外にも1―2でカタールに敗れ、W杯の出場権を他の国に差し出すことになった。中国サッカー界は再び苦しみの中に沈み、自ら抜け出すことができなかった。改革を求める声が、全国各地から起こった。

 1992年、中国サッカー界の各級の指導者たちが、北京の西の郊外にある紅山口に集まって、これから中国のサッカーをどうすべきかについて話し合った。

 北京国安サッカークラブの前総経理の楊祖武は、当時を振り返ってこう言っている。

南京に建てられた中国ナショナルチームの選手たちの看板

 「その時、中国のスポーツ界は、発展できるかどうかの重要な時期に直面していました。それは、引き続き従来通りの道を進むのか、それとも市場経済に向け改革を進めるのかということです。中国のサッカーは大衆的な基盤があるのに、成績は振るわない。だから中国のスポーツ政策を決定する人々は、サッカーを改革の突破口にし、改革の試験田にしようと決めたのです」

 この会議で中国のサッカー界の指導者たちは一致して、プロ・サッカーリーグを設立することを決定し、その準備を始めた。プロ化とは、サッカーチームをサッカークラブの形にし、独立採算の産業にすることを指す。各クラブは経営自主権を持ち、その収入は、政府の財政支出に頼らず、入場料や広告、テレビ放映権、選手の移籍費などによってまかなわれる。選手とクラブは契約を結び、相手を選択できる自由を持つ。

 プロ化以前は、中国の各地方のチームは、各級の地方政府の管理下にあり、チームの選手はみな、その地方の体育学校の中から選抜され、その選手に政府が賃金を支払っていた。選手たちはその地方を代表して全国的な試合に出場することしかできず、引退後は、政府が仕事を手配してきた。こうした管理体制の結果、資金は不足し、設備は不完全で、選手は他のチームに移動できない、などの不利な要素に突き当たらざるを得なかった。

 1994年、中国のプロ・サッカーリーグが発足し、中国のサッカーに活力と質的変化がもたらされた。八年にわたる試行錯誤を経て、中国サッカーはすでに相対的に安定し、完成した時期に入った。現在、中国には、「甲A」「甲B」と「乙級」の三階級と青年リーグがある。2001年のシーズンまでに、「甲A」が十三チーム、「甲B」が十一チーム、「乙級」が十六チームとなった。試合はリーグ戦とトーナメントがあり、毎年、4月から12月まで行われる。

 また、チーム造りもかなり改善された。訓練施設は比較的完備された。それぞれのチームは独自の管理法をつくっている。例えば北京国安チームは、ホームは北京工人体育場で、北京の南の河北省香河県に、独自の練習用の基地をもっている。ここには、国内一流の芝の練習用グラウンドが全部で七面あり、30室の客室と訓練施設を持っている。

 人材養成の面では、国安は1984年生まれ以後の少年サッカー選手の採用を始め、2年に一回、年齢の異なるチームを作り、同年齢の少年サッカーの国内試合にいつも参加させている。彼らの訓練のため、国内や外国から多くの優秀チームの練習用ビデオを買い入れ、これに基づいて練習を指導している。また、国内や外国から優秀なコーチを招聘し、指導に当たらせている。数年間の人材養成で、すでに一部の優秀な若い選手が育ち、第一線に投入され、ナショナルチームにも数名の優秀選手を送り込んだ。

 プロ・サッカーリーグができてから、中国は外国からの優秀な選手とコーチの招聘を非常に重視してきた。1997年には、韓国からコーチの崔殷沢とユーゴのアンドゥレジッチを中国に招いて指導させ、「甲A」リーグの大きな話題となった。その後、英国人のホートン、韓国人の李ユト珠、ユーゴのミルティノビッチも中国にやってきた。

 中国の選手たちも、プロリーグで鍛えられ、一部の優秀な選手が相次いで外国のチームでプレーする姿が見られるようになった。一九九八年八月には、范志毅、孫継海が、イングランドのサッカークラブに移籍し、続いて楊晨もドイツ・フランクフルトクラブに移籍した。彼らは現地のサッカーファンに愛され、高い評価を受けた。現在、海外で活躍する中国選手は、范志毅、楊晨、張效瑞、孫継海の四人で、さらに数人の選手が外国のクラブと目下交渉中である。

 外国のメディアは、中国のサッカーがすでに国際的なサッカーの循環の輪に入ったと論評している。中国のサッカーがコマーシャルベースに乗り始めたと、中国人は強く感じている。

「偉大な調教師」米盧

勝利を喜ぶミルティノビッチ

 中国チームを教えたことのある数人の外国人コーチの中で、中国のサポーターが永遠に忘れることができないのは、ミルティノビッチという名前である。いつも自信にみち、微笑を絶やさないユーゴのこの老人は、数奇な経歴の持ち主である。

 彼はかつて米国、メキシコ、コスタリカ、ニジェールの四カ国のナショナルチームを、初めてベスト十六入りさせ、W杯の決勝トーナメントに進出させることに成功したのだ。そしていま、中国もまた彼の人生でまた一つの勝利の到達点となった。

 ミルティノビッチが中国のファンの前に最初に姿を見せたのは、ある雪の日の午後だった。彼は黒っぽい外套を着て、肩からカバンを斜めにかけ、清掃労働者とともに微笑みながら、国家体育総局の門の前に積もった雪を掃いていたのである。清掃労働者たちはその時おそらく、彼らとともに仕事をしているこの老人が、後に中国サッカーを率いて勝利に導いたヘッドコーチだとは、わからなかったに違いない。


 ミルティノビッチは「サッカーを楽しむ」という言葉をいつも口にした。ヘッドコーチに任じられてから彼は、中国の選手たちに、スポーツ競技は楽しいものだという考えを教え込み、長い間サッカーが、政治や民族と絡んでもたらされる圧迫感を軽減したのだった。


 彼が正式にヘッドコーチになった後、ナショナルチームに対し、多く試合をするよう要求しつづけた。ナショナルチームの練習が多くなれば、各クラブの主力選手が国内の試合に出場できなくなる。このため、中国サッカー協会は、2001年のリーグ戦の日程を変更せざるを得なくなった。この決定が公になると、スポーツメディアはしきりに「中国サッカー協会はW杯を危険な賭けに出した」と批評したものだ。


 W杯の予選の試合で、中国チームはわずか1点差でモルジブに勝った。しかし、当時のサポーターたちは、中国チームの動きは悪く、ヘッドコーチは無能だと思い、数百人がナショナルチームの乗った車を取り囲み、「米盧(ミルティノビッチの中国名)はやめろ、ナショナルチームは解散せよ」と一斉に叫んだ。

 しかしミルティノビッチはまったく意に介さなかった。かえってメディアに対して「われわれの選手は大変すばらしい。最も重要なのは、われわれが勝ったということだ」と述べた。

 選手の起用についても彼は、きわめて巧みであった。今回のW杯予選の前、サッカー協会とメディアは一致して、孫継海を高く評価したが、ミルティノビッチは彼をなかなかナショナルチームに招かなかった。しかし最終予選の一戦に、ミルティノビッチは孫を主力で先発させた。その結果、孫は、この予選の中でもっとも出色の選手となったのである。

 このように、理解しがたく、複雑な性格の老人が、超人的な魅力を持ち、激しい感情に乏しかった中国のチームに未曾有の活力を注入したのだった。試合のグラウンドで、中国チームの若者たちは、いまだかつてなかったほどの自信と激しさを表に出した。対カタール戦では、1点差で負けていたのに終始乱れず、終了数分前についにタイに追いついた。

 中国サッカー界の元老である年維泗や張俊秀らも、中国の選手たちが次第に成熟し、その水準はかなり向上したと認めた。ミルティノビッチの知能が、これまでとは違う中国チームを作り出したのである。このため、彼を中国サッカーの「偉大な調教師」と呼ぶ人もいる。

愛すべきサポーターたち

中国で展示されたダイナスティーカップを争うように見る少年サッカー選手たち

 サッカーの世界でもっとも愛すべきは、熱狂的なサポーターであることを、誰も否定できないだろう。期待を裏切られるたびに、もっとも傷つくのは彼らである。そのたびに腹をたて、金輪際サッカー場には来ないと誓うのだが、新たな試合が始まると、彼らはまたスタジアムの中で熱狂的な叫び声をあげているのだ。

 中国のサッカーリーグ戦が始まってから、サポーターたちのサッカーに対する熱狂は、自分の応援するチームとスター選手に対する支持に変わっていった。

 例えば、北京国安チームは、独自のファンクラブ会員制度を持っていて、現在の会員は1500人以上いる。そのうち女性は19%を占めている。応援団は800人以上いて、これは完全にサポーターが自発的に組織したものだ。試合のたびに彼らは国安チームのユニフォームを着て、旗をふり、太鼓を叩き、大声援を送る。国安のチームカラーは緑なので、試合のたびにスタジアムは緑一色になり、それが海のようにうねるのである。熱狂的なサポーターたちによって、スタジアムは沸騰する溶鉱炉のようになるのだ。


 かつて国安チームがアウェーで試合したときには、2000人以上のサポーターが組織され、50台以上の車を連ねて北京を出発した。旅の間、彼らは歌を歌ったり、楽しく語らったり、気分は大いに盛り上がった。

 あるカップルは、国安チームがアウェーで大連チームと試合するのを大連まで応援に行くその船の上で、結婚式をあげようと決めた。そして船上で、新郎新婦が入場すると、知り合いのサポーターもそうでないサポーターも、彼らの永遠の愛を祝福したのだった。


 また、定年退職した老夫婦が自転車で瀋陽を出発し、「甲A」のチームを持つ都市を回って全国を旅した。老夫婦は、その都市に着くと当地のチームを訪問し、選手たちと記念撮影をし、どこでもチームとサポーターの熱烈な歓迎を受けた。

中国ナショナルチームのヘッドコーチ、ミルティノビッチ

 熱狂的なサポーターの物語は、いくらでもある。彼らはサッカーの守護神である。しかし彼らの行動はいつもすばらしいものとは限らない。世界のどの国のサポーターも同じだが、中国のサポーターも、時には感情が激してしまうことがあり、一部の人は理性を失うこともあるのだ。このため中国の各サッカークラブとも、現在、サポーターに対する正しい指導を重視するようになっている。

輝かしい活躍の女子サッカー

 中国のサッカーを語るとき、女子サッカーを無視するわけにはいかない。中国のスポーツ界にはもともと「陰が栄えれば陽が衰える」という言い伝えがある。中国のサッカー界は、このもっとも良い証明となっている。中国の男子サッカーがいまやっとW杯に初めて出場するが、女子サッカーはすでにW杯の準優勝一回、オリンピックでの準優勝一回、数次にわたるアジアカップの連続保持など、誇るべき成績を収めている。これには中国の男性たちも、まったく「汗顔の至り」である。


 1999年の女子W杯では、中国女子サッカーは、優れた個人技と流れるばかりのコンビネーションで、観客の目を楽しませた。中でも 番の劉愛玲は、準決勝で、びっくりするほどのオーバーヘッドのシュートを二本決めた。このことはサッカーの教科書にも書かれて、学習のお手本となっている。キャプテンの孫ゥは、その年のW杯の優秀選手に選ばれ、2002年W杯決勝の組み合わせ抽選会に出席した。こうした成績はどれも、男子サッカーが足元にも及ばないものである。

 中国の女子サッカーは1980年代に始まった。当時、女子サッカーの訓練の条件は非常に悪かった。北京郊外に、ブルドーザーで整地しただけの平らな土地と数軒の宿舎があるだけだった。ある元コーチは、当時を回顧してこう言っている。


 「当時の練習場は、飲み水さえ問題だった。練習中、選手は喉が渇くと、わざわざボールを塀の外に蹴りだして、球を拾いに行くという口実をつけて塀の外にある水道管のところに行き、冷たい水を飲んで一休みしたものです」

 女子サッカーの選手たちは花の青春時代を中国のサッカーに捧げた。劉愛玲、温利容の二人は、ナショナルチームの試合のために婚期を遅らせた。ママさん選手の孫慶梅は、ナショナルチームが彼女を必要としていることを知ると、迷うことなく子供を家族に託して面倒をみてもらい、ナショナルチームのために尽くした。

米国に向かう中国女子サッカーの選手たち(左から范運傑、温麗蓉、孫ブン、劉愛玲)

 中国女子サッカーは、世界の女子サッカーのためにも大きな貢献をした。1988年、中国・広州で、国際サッカー連盟、アジアサッカー連盟、中国サッカー協会が共同主催して、国際サッカー連盟の女子サッカー招待試合が挙行された。全部で12カ国がこれに参加し、当時としては世界最高水準の女子サッカーの試合が行われた。この試合では、ノルウェーチームが優勝し、中国チームは四位だった。

 この成功によって、女子W杯サッカーはその基礎を固めた。1991年、中国は再び世界女子サッカー選手権を挙行し、成功させ、世界女子サッカーの発展のための基礎を定めた。


 1996年、中国女子サッカーがオリンピックで準優勝したとき、アジアサッカー連盟のヴィラパン事務局長は「これは中国にとっての光栄であるばかりでなく、アジアの光栄である」とたたえた。

 中国の女子サッカーは現在、世界的に注目されている。そして中国のサポーターの誇りとなっている。孫ブン、劉愛玲、高紅らベテラン選手は、米国の女子サッカー大連盟に加入し、多くの年若い選手が中国女子サッカーの中堅に成長した。中国の女子サッカーは、W杯優勝に向け突撃を始めている。

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 2002年のサッカーW杯では、中国はブラジル、トルコ、コスタリカと同じ組に属している。好都合なことに、コスタリカチームは、初めてW杯に出場したとき、そのヘッドコーチはミルティノビッチだった。この「神秘のコーチ」が、昔の「ご主人」と対戦する。はたしてどうなるだろうか。彼はW杯で、中国チームをどこまで勝ち進めることができるだろうか。

 初めてW杯に出場する中国サッカーにとっては、道はまだ、遥かに遠い。(2002年5月号より)