特集(2)
香港の未来は明るい ある実業家の素顔
                                張春侠

新華集団の本社ビル

 1984年、香港の復帰に関する中英交渉が進められていた当時、香港ではさまざまな噂が流れた。一部の香港人は、香港の未来がよく見通せないと感じ、次々に海外に移住して行った。このため香港の地価の暴落を招いた。

復帰後の香港(写真・劉世昭)

 香港の人々がこぞって家や土地を慌てて売りに出しているとき、香港新華集団総裁の蔡冠深さんは、その逆を行き、安い値段で屯門に広さ8万平方フィート(1フィートは約30・48センチメートル)の土地を競争入札で購入した。十数年が経ち、今、その地価はなんと20倍にもはね上がり、蔡氏集団は大きな利益を得たのだった。

 人々をびっくりさせた快挙に水を向けても、蔡さんは淡々と笑うだけだ。彼の目から見れば、香港はもともと中国領土の一部分で、祖国復帰はさらに香港を発展させるうえで有利となるに決まっているからだ。「1997年は香港の新しいスタートであり、新たな発展のチャンスであった。祖国復帰後の香港の未来に私は単なる自信ではなく、十分な確信を持っていた」と蔡さんは言うのである。

膨大な中国大陸部への投資

 蔡さんは1957年、澳門の貧しい家庭に生まれた。生まれて間もなく、蔡さんの一家は香港に移住した。

 1974年、蔡さんは文学や歴史の有名な学者となる夢を抱いて日本へ行き、京都に留学した。彼は京都の静けさが気に入り、生け花、茶道、座禅などは神秘的な美しさがあると感じた。のちに日本へ行くたびに、彼は必ず京都のお寺に詣で、座禅を組み、昔のことを思い起こすのだ。

蔡冠深さんと会見する江沢民国家主席(右)(香港新聞集団提供)

 しかし一年後の1975年、蔡さんは父に命じられてやむなく香港に戻らざるを得なくなった。そして文学や歴史の学者になるという人生とはまったく異なる生活を始めたのだった。それは父の海産物加工工場を、ゼロから再建することであった。

 父が一生懸命指導してくれたのと、本人も刻苦奮闘した結果、蔡さんはたちまち非凡な度胸や見識を発揮し始めた。20歳で、初めての澳門の官有地の競売に参加し、一挙にそれを落札した。25歳の時には、新華集団総裁に就任。その後、海産物加工業を徐々に中国の大陸部、東南アジア、北アメリカ、オセアニアなど20の国や地域に広げ、年間売上総額は40億香港ドルに達した。蔡さんは名実ともに、香港と東南アジアにおける「海産物の王」となったのである。

 さらに蔡さんは、不動産業と金融業にも手を広げ、ここでも優れた業績を挙げ、注目された。

 蔡さんから見れば、中国領土の一部である香港が、復帰するとかしないとかいう問題は、根本的に存在しなかった。だから、香港と中国大陸部の関係を非常に大事にすると同時に、香港が大陸部に依存していることをよく知っていた。1979年から新華集団は、大陸部に投資して工場を建て始めた。この20余年間に、大陸部に対する投資は20億香港ドルを超えている。

 90年代の初期、大陸部では猛烈な不動産ブームが巻き起こり、バブル経済が蔓延し始めた。朱鎔基副総理(当時)と会見した蔡さんは、「大陸部の銀行が不動産に手を出すのは、まるで国の金を使ってビルを建てるのと同じです。一見、経済が繁栄しているようにみえますが、実際は潜在的な経済危機が進行しているのです」と率直に意見を述べた。その後、国は経済に対しマクロ的調整と規制を行い、数年間の努力によって中国経済はソフト・ランディングに成功した。これによって、その後のアジア金融危機の被害を防ぎとめる有利な条件を創り上げたのである。

 ハイテク時代が到来すると蔡さんは、ソフト産業の発展こそが科学技術による国家の振興と国民の収入の大幅な増加をもたらす重要な道筋だと敏感に察知した。そして国内外の実地調査と研究を重ねたすえ、中国の経済が持続的に健全に発展しつづけるためには、科学技術も国際レベルに追いつかなければならないと固く信じるようになった。

 当時、すでに中国人民政治協商会議(政協)の全国委員になっていた彼は、政協の会議などのさまざまな場で、科学技術による国家振興の持つ重大な意義をためらうことなく主張し、香港と中国大陸部の科学技術交流を積極的に組織し、技術講座やシンポジウムを挙行した。1999年には新華科学技術集団を創立し、7千万元を出資して広州の中山大学とともに中大新華軟件産業有限公司を設立した。またハイテクプロジェクトの産業化を実現するため、中国科学院の物理研究所、ソフト研究所、金属研究所、北京大学、上海大学などと共同で十分な資金とマネージメントの経験を提供した。

 今日の新華集団は、海産物業、不動産業、金融業、インフラ建設、ハイテク産業の五本の柱からなる多国籍企業に成長した。

金融危機を乗り越える

「香港の明日はさらによい」(中央は江沢民主席)(香港特別行政区政府新聞署提供)

 目まぐるしく変化する情報時代。事業はいつも順調に発展するとは限らない。
 1997年10月、アジア金融危機が爆発し、香港の株価は大暴落した。ハンセン指数がもっとも下がったときには、香港の金持ちの多くは財産の半分以上を失った。蔡さんも多くの株を持っていた。幸い、彼の経営手法が堅実で、自己資金の30%が、株を担保にした借金だった。しかし担保として保有していた多くの企業の株は、最高70%以上も下落してしまった。こうした事態にすばやく対処しないと、新華集団は10億香港ドル以上もの損失を出すことになる。

 株を投げ売りするか、それとも保持し続けるか。蔡さんは躊躇し、髪が抜けるほど悩んだ。新華集団が株を担保に取っている多くの上場企業は、すでに集団で株を投げ売りし、自己破産する準備を整えていた。

 中華人民共和国香港特別行政区の第一期政府推薦選挙委員会委員として蔡さんは、英国の植民支配を終わらせ、「港人治港」を実行している特区政府に深い愛着を感じていた。金融危機の嵐を前にして、彼はまず香港経済全体の発展とその将来という「大局」を考えた。

 香港経済が回復するかどうか。香港市場に対する人々の自信こそが最も肝心である。外資は株を投げ売りして、その金をドルに替えて逃げ出すことができる。しかし香港の企業はどうだろうか。もし自分の企業が株の投げ売りを強行すれば、その株を担保として借金している企業に大きな打撃を与えるだけでなく、香港の株式市場の激震と下落をさらに加速させ、さらに多くの上場企業を破産に追い込むことになる。その結果、失業率が上昇しつづけ、香港の経済をさらに深刻な危機に陥らせることになる、と彼は考えた。

 「最も困難の時こそ、我々はがんばらなくてはならない」。彼は株主総会ではっきりと態度を表明した。そして反対論を押し切り、株主を説得して、株の投げ売りするという考えをやめさせ、香港経済と運命をともにし、いっしょにこの難関を乗り切ろうと決心した。
 そして金融危機が去り、香港の経済が回復していく過程で、新華集団は最大の受益者の一つとなったのである。金融危機の暴風雨の中で正しい針路をとることができた所以について彼は、「その決断は祖国と香港に対する自信から来たものだ!」と語った。

巨額の資金を科学、教育事業に

 最初に蔡冠深さんと会った人は、このおっとりした人物が百億香港ドルを擁する企業のリーダーとはなかなか信じられない。新華集団では彼は職員たちを見下したりせず、いつも自分の同僚として扱い、彼らの仕事や生活に関心を寄せ、職員からも慕われている。

 中国大陸部に投資して企業を経営するばかりではなく、大陸部の公益事業にも大いに貢献している。中国改革・開放がはじまって間もなく、父とともに故郷の中山県に資金を寄付して学校を始めた。以来の20余年間、蔡氏の一族が大陸部の学校のために2億香港ドル近いも寄付した。父が引退した後、蔡さんは独自に科学教育事業への支援を始めた。山間僻地を駆け回って、少数民族の児童に教育を受ける機会を提供するために尽力するとともに、香港と大陸部の大学に奨学金を設けたり、科学研究プロジェクトに資金を出したりした。

 1995年、中国科学院の成立40周年の際には、1500余万元を寄付して『蔡冠深中国科学院アカデミー会員栄誉基金会』を設立し、その年の6月8日、蔡さんは銭学森、厳済慈両氏を含む115名のアカデミー会員と名誉会員に、初の奨励金を与えた。今日まで毎年、基金会に追加の寄付を行い、その額はすでに1500万元を超えている。奨励奨をもらう科学者の人数も年を追って増え続けている。

 蔡さんは、優秀な若い科学者こそが科学事業の発展の中核をなす力だと考えている。このため彼はさらに1200万元を寄付して、「中国科学技術協会青年科学技術奨励金」を設立し、毎年、科学の新しい分野において優れた成果を収めた40歳以下の優秀な科学技術者百名に奨励金を出している。最近では、20億元を投資して、瀋陽に高級住宅区と10万平方メートルのハイテク区を建設し、これによって中国・東北の重要な重工業都市であるし瀋陽の発展を促そうとしている。

 蔡さんはいつもこう言う。

 「私は貧しい家庭に生まれたので、小さいころ社会からいろいろ助けてもらいました。だから生活にゆとりが出た後、父はいつも私たちを戒めて『水を飲む時はその源を忘れてはいけない。祖国に奉仕しなければならない』と言っていました」

 故郷に報いるのは、企業家が社会に対して果たさなければならない職責であり、また、自らが祖国に報いるもっとも良い方法だ、と蔡さんは考えているようにみえる。 (2002年7月号より)