その二
回顧し、思考し、提言する
                              張香山


   ――30年前、中国外交部の顧問だった張香山氏は、『中日共同声明』の起草に参画した中日国交正常化交渉の生き証人である。この30年間、中日関係はどう発展し、そして将来はどう発展すべきなのか。国交正常化交渉の忘れがたい歴史を振り返り、そして現在、存在している問題を考え、そのうえで、中日関係の将来について、張香山氏は重要な提言をしている――(編集部)  

【張香山氏の略歴】
 1914年、浙江省寧波生まれ。天津の中日学院で学び、33年から日本に留学、東京高等師範学校で学ぶ。37年に帰国、八路軍に参加。129師団対敵工作部副部長、中国共産党中央外事組副処長などを歴任。四九年以後、中国共産党中央対外連絡部秘書長、同副部長、中日友好協会副会長、外交部顧問、中央広播事業局局長、中国共産党中央宣伝部副部長、中日友好21世紀委員会中国側首席委員などを歴任した。現在は、中日友好協会顧問、国際交流協会顧問。

 中日両国の国交正常化が実現してから、瞬く間に30年が経った。

 当時、私は中国外交部の顧問をしており、周恩来総理の指導のもとで、中日国交正常化を実現するために発布された両国政府の『共同声明』の起草に参画した。この仕事にかかわる中で、数々の忘れられないことや、後になって思い出されることがあった。

 中でももっとも忘れがたいのは、日本が発動した中国侵略戦争に対する日本側の反省の記述に関する問題である。この問題は、国交正常化を実現する交渉の中で、もっとも多く論じられた。

 この問題は、もともと日本側から主体的に、それを『共同声明』の前文に書き入れようと提起してきたものだ。日本側が、最初の三回の首脳会談で示したこの問題に関する表現は、以下のようなものであった。

 「遺憾なことにこの数十年間、日中関係は不幸な経過をたどってきたが、その間にわが国が中国国民に多大なご迷惑をかけたことに対し、深い反省の意を表明するものである」

 周総理は9月25日の第一回両国首脳会談と、その夜催された歓迎宴会の挨拶の中で、この問題について、以下のように述べたのだった。

1972年9月29日午前10時、北京の人民大会堂で、中日両国は正式に『共同声明』に調印し、ここに中日関係の歴史に残る新たな1ページが開かれた(新華社)

 「1894年以来の半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略によって、中国人民は重大な災難を蒙った。また日本人民もその被害を受けた。『前事を忘れざるは、後事の師なり』。こうした経験と教訓を我々はしっかり覚えておかなければならない。中国人民は毛沢東主席の教えに従い、少数の軍国主義分子と広範な日本人民とを厳格に区別し……」

 続いて二日目の首脳会議では、周総理は、その前の晩に開かれた歓迎宴会での田中首相の挨拶に触れ、田中首相が「中国国民に多大なご迷惑をおかけしました」と述べたときに、演壇の下から、ひそひそと不満の声があがったことを紹介し、そこから展開して、歴史認識問題を再び論じたのである。周総理はこう述べた。

 「田中首相は、過去の不幸な歴史に対し遺憾の意を示し、また、深い反省を示した。これは我々が受け入れることのできるものである。しかし、『多大なご迷惑をおかけしました』(中国語では、『添了很大的麻煩』)というこの言葉は、中国人民の強い反感を引き起こした。なぜなら、たいしたことでもない場合でも、『添麻煩』というからだ。この言葉は、英語に訳せば『make trouble』である」

 これに対して田中首相は、こう弁明した。

 「『ご迷惑をおかけしました』という言葉は、日本では心からの謝罪の意を表すもので、今後、二度とそうした過ちを犯さないことを保証し、許してほしいという意味も含んでいる。例えば、過去、数代にわたって対立を続けてきた二つの家があって、その両家が縁組して親戚となったとすると、互いにこれまでのことに対して謝罪の言葉を述べるときに、『これまではご迷惑をおかけしました。今後は決していたしませんので、これまでのことは水に流してください』という。こういう表現が中国語に適当なものがあるかどうかは、私にはわからない。日本の言葉の多くは、中国にその源があり、もしあなた方に、より適切な語彙があれば、あなた方の習慣にのっとって改めてもよい」

 これに対して周総理はこう述べた。

 「『添麻煩』という中国語の意味は極めて軽い。例えば、今しがた記者がここで写真を撮ったが、会談のお邪魔をしましたという意味で、彼は一言『給にもん添了麻煩』(皆さん、ご迷惑をおかけしました)と言うのだ」

 だが、田中首相は「私の言う『ご迷惑を……』の意味は、決して軽くはない。我々両国の間には、相互理解が必要であり、両国の国民が受け入れることのできる表現方法を探し当てなければならない」と述べた。

 9月27日、毛沢東主席が田中首相と会見した。この席でも毛主席は、この問題について田中首相に尋ねている。会見終了後に開かれた外相会談で、『共同声明』の最後の詰めが行われたとき、大平外相は厳かに席から立ち上がって、『共同声明』に書き入れられる予定の以下の文言を、一字一句、丁寧に読み上げたのだった。

 「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」

 この表現の中から、「多大なご迷惑をおかけしました」という言い方はなくなっていたうえ、中国人民に重大な損害をもたらした責任をも認めていた。このため我々は、受け入れることができると考え、電話で周総理に報告し、たちどころに周総理の同意を得た。

 28日未明、外相会議で『共同声明』の確定稿が完成し、直ちに両国の総理に送られて、審査・決定された。そして『共同声明』は予定通り、29日に調印され、発表されたのである。

 私は、『共同声明』の歴史問題に関する記述は、以下の方針と原則に貫かれていると考える。それは第一に、歴史を正視し、歴史を歪曲したり改ざんしたりしてはならない。そうすることによって今後両国は、あのような大きな悲劇を再び繰り返さない。これは堅持しなければならない原則である。

 第二に、歴史を正視するのは、今後の世々代々にわたる友好を実現するためであり、決して古い債務を清算するためではなく、ましてこれを用いて日本を叩こうというものでもない。毛沢東主席は、再三、日本の友人たちにこう言ってきた。過去の問題については、経験と教訓を認識し、総括することによって再び過ちを犯さない、これがもっとも重要なことであって、謝罪の言葉を述べる必要はない、と。

 我々は毛沢東主席のこうした方針に従って、大平外相の述べた表現をあっさりと受け入れたのだった。ここで指摘した二つの方針は、今後も、歴史問題を処理する際に、適用され続けることは明らかである。

問題が発生する根源は何か

1978年10月26日から29日まで、ケ小平氏は日本政府の招きに応じて正式に日本を訪問した。これは中国の指導者の初の日本訪問だった。ケ氏は、福田赳夫首相とともに、中日の『平和友好条約』の批准書の交換式に参加した(新華社)

 中日両国が国交正常化を実現してからの30年間の両国関係をかえりみると、全体としては、友好協力の発展が主流であったということができる。しかし、両国の友好協力関係の発展には、時として起伏があり、曲折があって進んできたことを見ておかなければならない。

 この30年間は、おおむね以下のようなプロセスをたどってきた。

 一、 1972年から1982年まで。両国関係の発展は順調であり、解決が難しい問題はほとんど発生しなかった。

 二、 1982年から1995年まで。両国関係は、依然として大きな発展を遂げる一方で、明らかな意見の相違や摩擦、紛争が表れた。

 三、 1995年以後。ポスト冷戦の国際情勢の深刻な変化と、中日両国自身の大きな変化によって、両国の友好協力の大きな枠組みは変化しなかったとはいえ、両国の意見の相違、摩擦、紛争は激しさを増し、これによって中日関係は大きくかき乱された。

 両国の意見の相違、摩擦、紛争には、政治問題もあれば、経済問題も安全保障などの問題もあるが、重要なのは政治問題である。政治問題は、年によって具体的な中身はそれぞれ異なるが、その根本的な性質から分類すれば、主なものは二つの問題である。それは、歴史認識の問題と台湾問題である。

 こうした問題が生まれてくる根本的な原因を探ってみると、それは主として日本の一部の政治家や官僚、右翼団体のボスらが、『中日共同声明』や『中日平和友好条約』の原則に基づかず、あるいはそれを拒否して、過去の歴史や日台関係の問題に対応することから引き起こされていることがわかる。もし、さらに深くその根源を探ってみると、これは戦後、日本が米軍に占領されて以来、軍国主義思想は徹底的には取り除かれず、民主化の実現も不徹底で、かなり多くの右翼勢力が温存されたことと密接な関係がある。

新世紀の中日関係は

 世界はすでに新世紀に入ったが、この新世紀のうちに中日両国は世々代々の友好を実現し、友好協力の付き合いを続けていくことができるだろうか。

 将来を展望するとき、前途は明るいと私は思う。その理由は、こうした関係を発展させる必要性と可能性が依然として存在し、かつまた引き続き役割を発揮し続けるからである。その必要性と可能性とは――

 一、 中日両国はともにアジアの国であり、一衣帯水の隣国同士でもある。両国には二千年にわたる友好往来の歴史があり、同じか、あるいは似たような文化の伝統を共有している。

 二、 1894年以後の半世紀の間、日本軍国主義は中国に対し侵略戦争を行い、両国人民はともに深くその災難を蒙った。歴史の実践は「和すればすなわち利あり、闘えばともに傷つく」ことを証明している。だから友好協力を発展させるのが唯一の正しい選択である。

1998年11月26日、江沢民主席と夫人は、皇居で、天皇、皇后両陛下と会見した(新華社)

 三、 中日両国は国交正常化後、『中日共同声明』『中日平和友好条約』および後に両国が共同発表した『共同宣言』に署名した。これは両国の友好協力関係を発展させるための重要な保障となっている。

 四、 中日両国の経済関係は、大きな相互補完性を持っている。両国の経済協力は、30年にわたる発展を経て、すでに両国の友好協力の重要な基礎となっている。今後、両国が経済協力を行う潜在力は依然として大きい。

 五、 世界の主な潮流は当面、平和と発展の方向へ流れている。これは中日両国の友好協力関係の発展にとって有利であり、同時に両国の友好協力関係の発展は、世界とアジアの平和と安定、安全と発展にとって有利である。このため各国人民、特にアジアの人民は、中日両国の友好協力関係の発展を望んでいる。

双方が注意すべき問題

 当然、近年来、両国の友好協力関係の発展を妨害し、阻害する一部の要因が大きくなってきていることを、我々も見落としてはならない。例えば、両国の経済水域の主権や国家的利益にかかわる問題では、絶えず紛争が発生し、外交交渉に持ち込まれている。

 また日本ではいわゆる「中国脅威論」がまき散らされ、それが日本人民の中国に対する親近感を弱め、また中国も日本に対して、果たして日本が平和的に発展する道を堅持することができるかどうかという疑いを深める結果を引き起こしている。両国のメディアによる中日友好協力に関するニュース報道はかなり減り、マイナス面の問題の報道が増加している。

 両国の友好協力関係の発展をかき乱す二つの古くからある問題――すなわち歴史問題と台湾問題が依然、絶えず噴出し、新たな波紋を巻き起こしている。

 こうした中日間にたちこめた暗雲を一掃し、中日関係の前途をいっそう明るいものにするために、中日双方が以下のいくつかの問題に注意を払うことを、私は提言する。

 第一、『中日共同声明』『中日平和友好条約』『共同宣言』の精神をしっかりと貫徹しなければならない。とくにその中の、正確に歴史問題に対応することと「一つの中国」の原則、さらに「歴史を鑑として未来に向かう」方針に関しては、この精神を貫かなければならない。そして中日友好関係をずっとかき乱してきた歴史問題と日台関係問題を消滅させるか、あるいはその比重を軽くする努力をしなければならない。

 第二、『中日共同声明』と『中日平和友好条約』が定めている「反覇権条項」を堅持しなければならない。これは時代遅れのものでないばかりか、中日両国がともに地域の大国になったという状況のもとで、さらに必要なものになっている。日本は平和の道を堅持し、軍事大国の地位を求めず、中国は永遠に覇権を称えず、大国主義にならないこと、それが両国の平和的発展を保証する。また実際行動で、両国人民の相手に対する疑念や猜疑心を取り除かなければならない。

 第三、両国の指導者や政治家の交流と対話、政府間の協議を深める。広範な交流を通じて、相互の理解と信頼を増進することができる。こうすることによって、機を逸することなく双方の疑念を払拭することができ、両国間に発生した問題を直ちに解決するのに役立つ。

 第四、両国の各方面での協力を強化、拡大する。両国間の経済協力を引き続き拡大するとともに、国際経済、とくに東アジア地域の経済協力に貢献する必要がある。

 第五、双方のメディアは、両国の友好協力関係発展のために、積極的な役割を果たさなければならない。

 第六、民間交流を強化する。中日友好は、つまるところ人民同士の友好である。それは時代の流れに合致することであり、両国人民にとって必要なものである。両国人民の共同の努力によって、中日友好協力のパートナーシップは必ず発展することができる。 (2002年9月号より)