その三
蕭向前氏(当時・覚書貿易事務所中国側代表)に聞く
正常化に向け前進、前進、前進を
                              小林さゆり

   中日国交正常化を成し遂げるために、中国から日本の連絡事務所に派遣され、国交正常化にとってきわめて重要な「橋渡し役」となった人物がいる。蕭向前氏(84歳)=当時・中日覚書貿易東京連絡事務所首席代表。赴任から田中角栄首相の内閣成立、国交正常化までその間わずか百日足らずであったが、そこには関係打開を目指した人々による数々の歴史的なドラマがあった。国交正常化30周年にあたる今年、当時の舞台裏を知る蕭向前氏にインタビューし、日本での貴重な経験や忘れられないエピソード、正常化に学ぶ今後の両国関係などについて、ざっくばらんに語ってもらった。(肩書きは当時)  

蕭向前氏
。1918年中国遼寧省生まれ。瀋陽の奉天師範学校卒業後、38〜42年東京高等師範学校、東京文理科大学で学ぶ。52年から対日関係業務に当たり、72年に覚書貿易東京連絡事務所首席代表。駐日中国大使館参事官、外交部アジア局長、駐バングラデシュ大使などを歴任後、現職に。現在、中国太平洋経済協力委員会委員などを兼任する。著書に{とこしえ}『永遠の隣国として』(サイマル出版会)など。

 そう、あれは1971年9月のある日のことでした。「文化大革命(文革)」の混乱期にあった当時、山東省の農村に下放させられていた私に、「すぐ北京に戻るように。何か仕事があるようだ」という連絡が入ったのです。私は「廖承志の四天王」(廖承志・中日友好協会会長のもとで対日関係の業務に当たっていた趙安博、孫平化、王暁雲、蕭向前の四氏)という名目で紅衛兵に批判され、幹部の研修学校「五七幹部学校」に入って労働をさせられていました。

 何事かと思いつつ帰京すると、藤山愛一郎さん(日中国交回復促進議員連盟会長)を団長とする超党派の議員訪中団を接待しなさいという。当時は周恩来総理も「文革」を牛耳る四人組に包囲され、非常に緊迫した情勢でしたので、北京に着くまで具体的なことはまったくわかりませんでした。その時の「対日工作(対日関係業務)の人たちを呼び返しなさい」という周総理の指示により、私の仕事が再開されたのです。

 当時は米ソ・中ソの対立により、アメリカと中国が関係回復を図ろうとする国際情勢の激動期であった。また、日本でも同盟関係にあったアメリカの「頭越し外交」(ニクソン大統領の特使キッシンジャー氏が71年7月、秘密裏に訪中した米中和解への劇的な外交展開。翌年2月に同大統領の訪中が実現)に衝撃を受け、独立国家としてアメリカより先に中国と関係回復しようという「先駆け国交樹立」の気運が高まっていた。

 国交のない中日両国には、経済貿易を発展させるため64年に双方に設けられた「中日覚書貿易事務所」があったが、東京連絡事務所(渋谷区恵比寿)の初代首席代表・孫平化氏は「文革」のために中国へ呼び戻されており、事務所の代表はしばらく空席となっていた。

 藤山さんを団長とする超党派の議員訪中団は71年10月、中日国交回復基本四原則を盛り込んだ共同声明を発表し、各界に大きな影響を与えました。

訪中を前にした田中首相、二階堂官房長官(右端)と会見した孫平化氏(左から2番目)、蕭向前氏(左端)=1972年8月15日、帝国ホテルで(蕭向前氏提供)

 翌72年春に単独で中国を再訪した藤山さんは、佐藤栄作首相の次の政局について「福田(赳夫)さん以外なら、三木(武夫)、田中、大平(正芳)さんのどなたが総理になられても、日中国交回復を実現させるでしょう」と予測して、「国交正常化のためには東京連絡事務所の強化が必要だ。早急に首席代表を赴任させてほしい」と周総理に願い出ました。

 その後まもなく、中国政府が私を東京連絡事務所の首席代表に命じたのです。藤山さんと私はすでに何でも話せる友人になっていたので、私が赴任すれば彼とうまく協力しあえるという政府の判断だったのでしょう。

 蕭氏の東京着任は7月3日だったが、7日には退陣した佐藤内閣にかわって田中内閣が成立。首相は「中国との国交回復を急ぐ」と表明し、周総理からは歓迎の意が表された。「反中国政策」をとったそれまでの佐藤内閣では考えられない情勢の急展開であり、両国はいよいよ国交正常化へと秒読み段階に入っていった。

 7月10日には、孫平化さん(中日友好協会秘書長)が上海バレエ団を率いて東京を訪れました。国交正常化に向けて雰囲気を盛り上げるのが目的でしたが、実際には孫さんは、中国への連絡を強化するための訪日でした。ところが、私たち二人は何から始めたらいいかわからない。中国は「文革」中で、出発時にも上からの具体的な指示がなかったからです。

 そんな折、中国農業代表団がやってきて、代表団秘書長の陳抗さん(外交部日本課長)らが口頭で周総理の指示を伝えました。「高楼万丈平地起 向前、向前、向前」――。つまり私たちの名前をもじって「孫平化は万丈の高楼を平地に起こし、蕭向前は前進、前進、前進だ」というわけです。周総理のユーモアあふれる激励に、その後は自信をもって仕事に当たることができました。

 7月20日には、藤山氏が日中国交回復促進議員連盟の主催で二人の歓迎会を開いた。ホテルニュージャパンの会場には、田中首相以外の閣僚・各党首や各界代表が一堂に会し、その友好ムードの盛り上がりに「中日国交正常化を確信した」と蕭氏は振り返る。

 覚書貿易事務所は実際には「政治」の連絡事務所でした。そして私はその「連絡役」。国交正常化を目標に掲げ、できるだけ多くの有力者と友人になって彼らに訪中してもらうよう働きかけるのが私の役目でした。日本にはまだ「親台派」勢力が強いなどの不安定要素があって、交渉はすべて北京で行われていたからです。

 事務所では多い時には一日十数人と会いました。中国側への報告は暗号などによる電報を使いましたが、あまりせっせとマメにやりすぎると「重要なことだけでよろしい」と上からの指示がありました。暗号を頻繁に使うと、解読されやすかったからなのです(笑)。

藤山愛一郎氏(右端)夫妻と再会した蕭向前氏(右から2番目)夫妻=1973年春、新宿御苑で(蕭向前氏提供)

 大平外相は、もっとも尊敬する政治家の一人でした。歓迎会で小坂善太郎・前外相が大平外相との非公式の会見を打診してくれ、二日後にホテルオークラで外相と孫さん、私が通訳なしで一時間ほど懇談しました。共同声明や台湾問題などすでに議論されてきた内容について話し、その上で「田中首相、大平外相ら日本政府代表団が北京を訪問されるなら、なんでも相談できるでしょう」と私たち二人が強調すると、外相は決然として「齟齬なし」と言われたのです。「一致しないところはない。これで完全に正常化交渉にのぞむことができる」と。その言葉を聞いて、非常に安心しましたね。

 以後、外相とは何度か会ったり、電話で連絡したりしました。また橋本恕・外務省中国課長を日本側の連絡役に抜擢してくれ、ダイレクトに連絡ができた。事務次官や局長に通さないわけですから、非常に速い。日本政府がいかに中国との関係を重視していたかの表れでしょう。こうして8月15日、孫さんと私は田中首相と二階堂進官房長官との会見を果たし、その訪中を確認しました。

 9月29日、『共同声明』調印後に大平外相は北京で記者会見し、「『日華平和条約』(52年4月に台北で調印された『日本国と中華民国との間の平和条約』)は存続の意義を失い、終了したものと認められる」という日本政府の見解を発表した。『共同声明』には明記されていない部分だが、これにより日本は事実上台湾との断交を表明、「台湾は中国の領土の不可分の一部である」という中国側の復交三原則を受け入れたのである。
 
 田中首相も大平外相も「親台派」の反発を予想し、秘書に遺書を託してのぞんだ正常化交渉でした。そうした中で大平外相は、相当な決意をもってあの記者会見を行った。学識と経験が豊かで、親しみやすく、そして何より信頼できる。すぐれた政治家であった大平外相のことは、今でも忘れられません。

 国交正常化が実現した時には、正直言ってホッとしましたね。その時、周総理は「言必信、行必果」(言は必ず信あり、行いは必ず果たす)、田中首相は「信為万事之本」(信は万事の本なり)という題辞をそれぞれ贈り合いました。「信用」が最も重視されたわけで、それで私も正常化を果たした上では「(私の)発言と行いは一致していた。正確な連絡だった」と認められた思いになり、胸をなでおろしたのでした。

 蕭氏は1918年、中国東北地方の遼寧省に生まれた。31年の「九一八事変」(「満州事変」)により日本軍が攻め込み、東北地方にかいらい政権の「満州国」を建設。しだいに反日学生運動に参加するようになった蕭氏は、38年に公費日本留学生試験に合格し、日本で勉学する傍ら共産主義運動に傾倒していく。

 日本留学中は、郷里では手に入らなかった毛沢東主席の『持久戦論』をはじめマルクス、レーニンの著作、日本の『唯物史観講話』(永田廣志著)などをむさぼるように読みました。それから下宿のおじさん、おばさんには本当に世話になった。日本は「反共」の色濃い時代でしたが、特高(特別高等警察)が下宿を訪ねてきても「うちの兄ちゃんは真面目です。友達もみないい人です」と私の活動の実態を伏せてくれたのです。実際には、友達はみな進歩活動家でしたが(笑)。こうして、「普通の日本人と中国人は必ず仲良くなれる」ことを身をもって体験したのです。

 42年に帰国後は、抗日革命組織の一員として活動する。52年、中国共産党中央が「民間外交により対日活動を行う」方針を決定。それにより周恩来総理の指導のもとで廖承志氏を中心とする対日活動事務室が設置され、その一員となる。以来50年、対日関係業務ひとすじに打ち込んできた。

 最近の中日関係は、靖国神社参拝や瀋陽の日本総領事館の問題などでギクシャクしていますが、これは私に言わせれば「コップの中の嵐」と同じ。政治の問題はいろいろありますが、戦争はもはやあり得ないでしょう。大事なのは国民間の友誼と経済利益の補完で、それはもう誰にも引き裂くことができないからです。

 正常化の時に周総理が言った「求大同、存小異」(小異を残して大同を求める)という言葉は、今に生きる格言です。双方にとって何が一番重要か――それを見きわめる努力を怠ってはなりません。

 東南アジア諸国連合(ASEAN)が提唱した「10+3」(ASEAN十カ国プラス中日韓三国)は、関係各国の大きな賛同を得ています。東アジアの地域協力を訴えて注目を集めていますが、そうであるならば日本は、アジアの信頼を勝ち取るためにも、それまでの「脱亜」から「入亜」へと思想を改める必要があるのではないでしょうか? 中国はさらに平和外交を促進し、覇権主義に反対するとともに、大国主義に陥らないよう努力することが大切です。

 今後の中日関係は、やはり経済と青年交流に期待したい。経済は中日韓三国の協力でアジアの復興に努めるべきだし、青年同士交流すれば歴史への理解も深まる。
 正常化は両国関係のスタートでしたが、それだけに満足してはなりません。私たちは『共同声明』と『平和友好条約』(78年)に基づいて、つねに繁栄への道を探るべきだと思います。(2002年9月号より)

  ※この取材にあたっては、鈴木英司・中国国際関係学院外籍教授の協力をいただきました。