地下の遺跡をどう保護するか

時間と競争の発掘作業

唐の大明宮の含元殿脇で見つかったレンガを焼いた窯。ここでもっぱら、含元殿のレンガが焼かれた

 2004年、唐の長安城の発掘のバトンは、安家瑶さんから、彼女の教え子であるキョウ国強さんに受け継がれた。彼は2005年に、大明宮の正門である丹鳳門に全部で5つの門道があったことを突き止め、丹鳳門の門道の数に関する論争に終止符を打った。このことは2006年5月号の『人民中国』で詳しく紹介した。

 現在、彼は、さらに重い任務を受け持っている。それはいかにして、今ある遺跡を保護し、破壊に直面している文物を救うかという任務である。

 2006年7月、ある不動産開発会社が西安市に、オフィスビルを建てようとしたとき、唐の長安城の「西市」(西の市場)の遺跡を掘り当てた。この知らせを聞いたケィさんはすぐに北京から西安に駆けつけ、考古隊員を率いて工事現場に行って発掘するとともに、不動産開発業者と協議を行った。その結果、業者はケィさんに一カ月の時間を与え、一カ月以内に発掘調査が終わらなければ、工事の延期によって生じる損失は、考古隊が弁償しなければならないということになった。

 やむなくキョウさんたちは、時間との競争を始めた。7月の西安は、焼け付くような太陽の下、地表の温度は40度以上になる。ケィさんと隊員たちは汗ぐっしょりになりながら現場で忙しく発掘し、整理し、測量し、一瞬たりとも気を抜くことはなかった。

 唐の長安城内には中軸線である朱雀大街の両側にそれぞれ大型の市場があり、「東市」「西市」と呼ばれ、西の方から来た商人の多くは「西市」で商いをした。考古隊は、ここからいくつかの西方の特徴を持つ貨幣や食器を発見するとともに、店舗の基礎、排水溝、石の橋、古井戸などの遺跡を確認した。「西市」の歴史的価値は、考古隊の発掘によってますます重要になったが、発掘期間の終了期限もますます近づいてきていた。

 7月末、安さんがわざわざ西安にやってきて、開発業者と5時間も会談した。西明寺の保存を果たせなかった苦い経験から、彼女は昔の温和な態度を一変させ、厳しい口調でこう言った。

 「あなた方は『新しい西市』を建てようとしているが、それは『本当の西市』を破壊することになります。もし『本当の西市』があなた方の手で破壊されたら、将来、あなた方は安心して眠ることができなくなりますよ」

 現在、双方は、いかにして新しいビルの地下に「西市」の遺跡を保存し、買い物客にその遺跡を見せることができるか、を協議している。

唐の長安城の「西市」の発掘現場

日本から届いた援助の手

 1970年代、唐代の歴史を研究している日本の研究者たちは、中国が唐の長安城を発掘していることを知ると、すぐに西安にやってきた。そして中国の専門家たちと学術交流をし、発掘現場で最新の資料を収集した。

 1993年からは、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が中国と日本の専門家を組織して、数次にわたって大明宮の共同調査を行った。1995年7月、中国と日本、ユネスコの三者は、協議の結果、北京で『唐の大明宮の含元殿遺跡を保護する共同行動計画』に署名し、日本信託基金会が235万ドルを提供し、含元殿遺跡を保護することを決定した。

 「私たちが経費が足りなくて困っているときに、日本の友人たちが巨額の資金を入れてくれた。それで唐の長安城の発掘は順調に進み、含元殿周辺の調査や保存状態も改善されたのです」と安さんは言う。

訪れた日本の考古学者に丹鳳門の発掘状況を説明する唐の長安城考古隊のキョウ国強隊長(左)

 1930年代から、大明宮付近は一面に、土饅頭の墓がでたらめに作られていた。安さんが率いる発掘隊が大明宮の含元殿を発掘するに当たって、その数カ月前に、墓の主の家族に、墓を他所へ移すよう通知した。

 現在、含元殿の周囲の土地は整理され、含元殿前の「御道」の上にあった掘っ立て小屋に住んでいた住民は、新しい家に引っ越して行った。こうして考古隊は思う存分、ここで仕事ができるようになったのである。安さんは「古跡の保護と建設発展を、ウィンウィンの関係にすること、それを私はずっと望んでいました」とうれしそうに言った。

 2002年、日本政府は再び、大明宮の含元殿の修復と保護のため、合計2億8000万円の「文化無償援助資金」を提供した。現在、含元殿の後ろにある大明宮博物館は、この資金の一部で建てられ、大明宮に関する百以上の文物と建築模型が収蔵されている。大明宮の文物保管所の高本憲所長によると、毎年、千人以上の日本の観光客が参観に来るという。

 資金的な支援だけでなく、日本の考古学研究機関は専門家を派遣し、中国側と共同で大明宮を発掘した。日本の奈良文化財研究所の町田章・前所長によると、2001年から毎年、日本側は考古学専門家たちを大明宮遺跡に派遣し、実地で発掘を行い、中日共同で、大明宮の花園であった太液池の中から、当時の築山や竜を彫りこんだ石の欄干、蓮の花の痕跡を探し当て、太液池の地図を描くうえで大きな収穫を得たという。この花園は、昔、玄宗と楊貴妃が手を携えて月を愛で、魚を観たところである。

 しかし、共同作業は初めのうち、一部に意見の違いが生じた。中日双方の考古学の方法に違いがあったからである。町田前所長はこう言っている。

1977年、馬得志さん(右)は、京都市埋蔵文化財研究所の田辺昭三さんと含元殿遺跡の調査を行った (馬得志さん提供)

 「我々から見れば、当時、中国側の考古研究者は、古代の文献の記載に頼りすぎ、新発見がなかったり、考古学的な手がかりが切れたりしたとき、史書の中からヒントを探したいといつも考えた。我々が発掘現場での発見を重視するのとは異なっていた。また、中国側の発掘のやり方はかなり粗雑で、記録も詳しくつけていなかった」

 これに対して安さんの見方はこうだ。

 「唐代の歴史文献は、数え切れないほど多い。その中から考古学の発掘にとって助けになるヒントを探し当てることができれば、時には半分の労力で倍の効果をあげることができます。現場の発掘と文献研究は互いに頼りあい、互いに証明しあうものでなければなりません。日本の考古学者の仕事振りは真面目であり、精緻で、まったく目立たない一片の瓦の破片でさえ、みな詳細に記録する。この点、私は敬服しています。けれども、唐の長安城内から出土する文物はきわめて多く、もしそれをいちいち測量し、記録していては、普通の発掘でもどれだけの時間がかかるかわかりません。だから、私たちはただ重要な、代表的な文物のみを記録しているのです」

 しかし、中日双方が次第に理解し合い、慣れるにつれて、相互の協力はだんだん深まった。唐の長安城考古隊で20年間仕事をしてきた測量製図担当の李振遠さんは、日本の隊員からGPS(全地球測位システム)の技術を学んだ。これによって、たとえ遺跡の地形が変化していても、元の位置を正確につかむことができる。中国側も、日本側に考古発掘の成果とデータを完全に公開することによって、日本側の研究に便宜を与えた。

 町田前所長は言う。「日本の7、8世紀の都城は一般に、中国の唐の長安城の形と構造を模倣して造営された。中でも平城京と藤原宮は、もっとも典型的だ。中国側が行った含元殿の竜尾道の発掘は、平城京の大極殿にどのようにして昇殿したかという問題を解決するのに役立った。日中双方にとって協力は収穫があったといえる」

長安城をどう残すか

日本の専門家を案内して太液池遺跡を調査する第二代考古隊長の安家瑶さん(中央)

 40歳になる張家峰さんは、西安市の文物修復センターですでに10年、働いてきた。「私がもっとも好きなのはやはり唐代の文物です。それは芸術的な表現の面で吸引力があり、人々にさまざまな連想をもたらすからです。私は唐代の文物を修復する際に、唐の人々の美を追求する心を感じます」と彼は言う。

 珍しい文物はもとより、人々の美的感覚を開花させることができるが、遺跡の復元はさらに人々の心を揺さぶる。このため、いかにして唐の長安城の重要な景観をよみがえらせるかは、ずっと大きなテーマとなってきた。

 1996年、ユネスコは西安で、大明宮の保護の方法について討論したが、会議は夜中の12時まで続いた。日本の専門家の武井士魂さんは、含元殿を、日本の平城京の大極殿の方式で、元あったところに再建することを提案した。

 しかし、日本で大極殿を再建するのに200億円以上がかかった。大極殿よりずっと広い含元殿を再建するには、ずっと多くの費用が必要だ。その上、土を固めた建物の基礎は千年以上経っているので、おそらく上に建てられる建物の重みに耐え切れないだろう。このため会議は最終的に、含元殿の遺跡は現在ある建物の基礎を保存し、唐の時代にそうであったように、基礎の外側にレンガを積んで覆うことを決めた。

 2004年9月、唐の大明宮の含元殿の保存修復工事は順調に竣工し、観光客に公開された。現在までに、唐の長安城内の興慶宮、青竜寺、慈恩寺、大雁塔、小雁塔の遺跡はすべて国家の重点保護文物に指定され、観光スポットになっており、有効に保護され、管理されている。

 2005年4月、13億元を投資して、67ヘクタールの「大唐芙蓉園」が完成した。この公園は西安市内の南にある曲江池付近に造られ、桃の花が咲き、柳の緑が映え、小さな紙に書かれた文字の墨の香りが漂う唐代の「曲水の宴」のにぎやかな情景を再現し、毎日、数千人の内外の観光客を迎えている。

日本の奈良文化財研究所の町田章・前所長(写真・林崇珍)

 ここで上演される『夢で大唐に帰る』という大型舞踊劇は大入り満員だ。楊貴妃に扮する22歳の女優、張旋子さんは「観衆のまなざしと拍手から、人々が私たちの演技を楽しんでいるだけでなく、大唐の文化に浸っていることをはっきりと感じます」と言っている。

 「大唐芙蓉園」の成功は、大明宮遺跡の保存と開発にとってヒントになった。西安市文物局の向徳副局長は、一つの計画を打ち明けた。それは――

 将来、大明宮を12平方キロの文化遺跡公園にする。その中に現在ある含元殿や麟徳殿、丹鳳門の遺跡を修復するだけでなく、太液池や「御道」、宮城の城壁を復元する。その他の小さな遺跡は、復元したり、標示板を立てたりして、観光客が大明宮の輝きを肌で感じられるようにする、というものだ。

 さらに向副局長は、唐の長安城の城壁のあったところに沿って樹を植え、緑の林のベルトを造り、これによって空から見ると、唐の長安城の位置がわかるようにする、とも考えている。

 「唐王朝が創り上げた輝かしい文明は、全人類のものです。今日、これを保護するために努力することは、世界に対する、また子孫に対するわれわれの責任です」と向副局長は述べている。 (2006年12月号より)


 
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