木と石と水が語る北京E   歴史学者 阿南・ヴァージニア・史代=文・写真

知られざる紫禁城の浴堂
 
 
武英殿の後ろにある浴堂

 紫禁城内南西の一角を占める武英殿の背後に、「浴徳堂」と呼ばれる浴堂があるが、その起源に関してはいまだ論争中である。武英殿全体については興味深い歴史があるのだが、その古い浴堂について知る人はほとんどいない。これまで信じられてきたように、乾隆帝が寵愛した香妃のために建てたものだろうか、それともそれ以前の元朝皇帝たちの浴堂として建てられたのだろうか?

 浴堂の形は非常にユニークで、内部は白釉をかけた滑らかな磚で覆った包といった趣である。徐々に狭まる丸天井の曲線に合わせて、磚の四隅は焼成前にカットされている。丸いガラスの明り採りが丸天井の上から突き出ていて、空の光を採りいれている。水は壁面の穴から注がれていた。

 浴堂への入り方もまた奇妙で、秘密の通路を通って忍びこむかのようだ。通路は浴室の扉に行きつく前に、2〜3回急角度で曲がる。恐らくそうすることによって浴室の湿度と熱を保ったのだろう。あるいはプライバシーを守るためだったかもしれない。

金水河

 シャワーを浴びたのだろうか、それともこれは一種のサウナだったのだろうか、私は首をひねった。興味深いのは、この暑い夏の日に磚造りの「浴徳堂」は、涼しく爽快であったことだ。

 外に井戸があった。十段ばかり階段を登る特別な亭の内に保護されている。水はそこから、細い大理石の柱に支えられた石の送水管を通って流れる。柱はローマのつぼに似た曲線を持っていた。水は途中で炉を通過して温められた後、いくつかの穴から浴室へ注がれる。 

 中国皇室の慣例では、宮廷の女性たちは一般に後宮内にとどまっていた。例えば、慈禧(西)太后は武英殿に歩み入ることすらしなかった。いわんや浴堂である。武英殿には軍の高官たちが、皇帝への謁見を待機する部屋があった。その他、重要書類の印刷出版所として機能している部屋もあった。ここはまた風水に恵まれている。瑞兆の金水河が建物正面を流れているからだ。水は大理石造りの「断虹橋」の下を通ってうねうねと東に流れ、紫禁城内の主庭園に達している。 
    
 この重要な場所に、カシュガルから来た香妃を愉しませるだけのために浴堂が建てられただろうか?乾隆帝は香妃のホームシックを和らげるために、モスクと「望郷亭」を建てている。真実はともかく、北京っ子たちはこの浴堂と香妃とを結びつける逸話を語り継いでいる。香妃自身は西疆(新疆西部)カシュガルの一族のモスクを最終の地とし、安らかに眠っている。

うるさい猿にそっくりな断虹橋の獅子

 さて逸話はこう伝えている。香妃は毎日後宮から浴堂へ、宦官にかしづかれて通った。従者がいたにもかかわらず、香妃は入浴中、明り採りの窓からのぞくうるさい猿に悩まされたらしい。ついに彼女は乾隆帝から贈られた玉の柄杓を、無作法な「ピーピング・トム(のぞき魔)」目がけて投げつけた。ところが猿は柄杓を、断虹橋上を飾る石獅子の爪の間に隠してしまった。伝承によると、そのとき以来乾隆帝がお出ましになるたびに、一枚の布が獅子の上にかぶせられたという。こうして事件は乾隆帝に知られることはなかった。

 伝説の場面をつらつら考察するに、香妃は並外れた腕力の持ち主であったのか。柄杓を浴室の明り採りまで放り投げて、ガラスを破るほどの力があったのだから。つけ加えると、今も残る断虹橋の獅子の一つは、実際にうるさい猿にそっくりだ。唯一確実に言えるのは、この浴室を定期的に使用したのが誰であれ、その人物は特別な地位にあったということだ。それは最高の贅沢であったに違いない。(訳・小池晴子)(2005年6月号より)

 

 
 
     
 
筆者紹介
阿南・ヴァージニア・史代 1944年米国に生まれ、1970年日本国籍取得、正式名は阿南史代。外交官の夫、阿南惟茂氏(現駐中国日本大使)と2人の子どもと共に日本、パキスタン、オーストラリア、中国、米国に居住した。アジア学(東アジア史・地理学専攻)によって学士号・修士号取得。20余年にわたり北京全域の史跡、古い集落、老樹、聖地遺跡を調査し、写真に収めてきた。写真展への出品は日本、中国で8回におよぶ。
 

  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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