【清風茶話(6)】


ふるさとの茶を日本で楽しむ

                        日本在住中国人作家 キン飛


  《プロフィール》
チン・フェイ。北京生まれ。中学教師、記者、編集を経験後、94都市東京へ移駐。朝日文化センター、東京大学などにて教鞭を取り、80年代末、文筆活動を始める。エッセイ集『風月無辺』『桜雪盛世』『北京記憶』など著書多数(中国語)。北京作家協会会員。

 今年は、京師大学堂(北京大学の前身)の初代総教習(学長に相当)である呉汝綸の日本視察百周年であり、魯迅の日本留学百周年でもある。

 二つの百周年とその背後にある物語に、私は無限の感慨を覚える。日本が中国から学んだ歴史は千年以上になるが、一方で、中国人が本気で日本に注目し始めてからは、わずか百年程度という事情に思い至る。清代の初の駐日外交官は、なんと、通訳を伴わなかったと言われている。おおかた、日本でも中国語が話されていると考えていたのだろう。これは決して笑い話とは思えず、逆に悲しい気持ちになってしまった。

 しかしそれは、喜ばしい中日関係の新しい始まりでもあった。中国には、「なにごとによらず初手は難しい」ということわざがある。それはまた、極めて辛苦な始まりでもあったが。

茶館で使われている茶具

 呉汝綸や魯迅の時代と比較すれば、いま日本に暮らす私たち外国人は、とても便利な生活をしていて、どんな困難にぶつかっても嘆く資格はない。つまり、中日両国は、何千年も隣国であり続けながら、最近の百年で大きな苦難を経験し、ようやくお互いに融合し合える時代を迎えた。ちょうど魯迅の詩にある「渡尽劫波兄弟在、相逢一笑泯恩仇」(大意…今の両国の隔たりは非常に長いが、長い年月をかけて苦難して渡り尽くせば、もとより兄弟である。逢って笑いかければ、深いうらみも消え去るだろう)のとおりだ。事実、多くの先見のある先輩たちが、同様の意見を持っていたことは、近代歴史学の権威・陳寅恪が、多くの詩歌を引用して証明している。

 さて、茶の話題に戻ろう。私がコーナー名に「茶話」とつけたのは、茶を語るときに閑話をはさみやすくするためだった。今月号では、前述のようなきっかけから、魯迅の喫茶について紹介したい。

 私は1月号で、明末清初に日本に滞在した儒学者・朱之瑜(字は舜水)が喫茶愛好者だったと書いた。惜しいことに、当時、日本で中国茶を手に入れることは簡単なことではなかった。魯迅の頃になると、茶葉の入手はそれほど難しくなくなったが、その代わり、両国の喫茶習慣の違いが認識されるようになった。日本には、中国の宋代の作法、儀礼、味が中国以上に保存されていて、非常に格式が高い。しかし、宋代以降の中国では、お茶は時代とともに日常生活の中に入り込み、生活必需品となっていた。

 魯迅の故郷・紹興では、まず、大きな湯飲み茶碗に濃い茶汁を出しておく。そして、大きなスズ製容器に熱湯を満たし、それと濃い茶汁を混ぜ合わせれば、いつでも飲めるようにしている。

 北京の作法は紹興と似ているが、紹興のものは、北京よりずっと合理的で経済的だ。北京の人は、濃いお茶を好み、一番煎じは苦くて渋く、飲み下せないこともあるほどだ。そして、何度かお湯を注いで味が薄くなると、茶葉を換える。飲み慣れていない人がこのような茶を飲めば、「酔う」恐れがある。――そう、お酒ほど強烈ではないが、お茶でも酔っぱらう。

 北京の人はまた、非常に熱いお茶を好む。もし、紹興の人のように、茶汁と熱湯を混ぜ合わせると、温度が低くなってしまうため、北京の人には受け入れられない。

 日本との習慣の違いは、紹興と北京以上に大きい。魯迅も、朱舜水と同様、喫茶では苦労したに違いない。

 魯迅の弟・周作人は、魯迅は、日本に留学していた当時も、ふるさと紹興の習慣を守り続け、いつでもお茶を飲んでいたと回想している。日本の家庭のように、食事や接客の時だけお茶を用意するのではなかった。

 両国の喫茶習慣の違いにより、魯迅は不便な生活をしていた。ちょうど、当時彼が住んでいた部屋では、簡単に熱湯を準備できなかったからだ。そこで彼は、部屋に火鉢を置いた。たとえ酷暑の夏でも、それだけはどうしても欠かせないものだった。外には長方形の木箱があり、鉢の中には炭と鉄三角架を置き、その上にやかんを置く、あれである。やかんももちろん、紹興のスズ製のものではなかった。

紹興の風景(写真・郭実)

 紹興の大きな湯飲み茶碗も、日本にはなかった。それでも日本の急須はあったから、それで代用するしかなかった。しかし、日本のものはあまりに小さすぎる。2、3人が一杯飲める程度しか入らないから、何度も何度もお湯を加えなければならない。そうすると、茶葉はすぐに出がらしになってしまい、換えなくてはならない。

 周作人は、魯迅は茶がらを入れておく、茶碗程度の大きさの陶製の筒を持っていて、普段、一日でいっぱいにしていたという。もし来客があれば、それでも間に合わずに一度捨てに行っていたそうだ。

 魯迅がどれだけお茶好きだったかは、そんな逸話から伝わってくる。俗に、郷に入っては郷に従えと言う。しかし、自分の習慣を変えること、特に生活習慣を異郷の習俗に合わせることは、実際には非常に難しいことだ。そのため、「郷に従える」人も、自分の習慣を堅持する人も、非常に大きな努力を要する。しかし、「郷に従う」のが容易で、しかも、その土地の習俗に従わない人に寛容な土地は、極めて少ないはずだ。

 魯迅は、日本に8年近く生活し、28歳で帰国した。青年時代を日本で過ごした彼の、日本に対する思い入れを感じずにはいられない。

 ちょうどこんなことを考えながら、日本で新発売された缶入りの中国緑茶を飲んでいたところ、どうも落ち着かなくなってしまった。(2002年7月号より)