【清風茶話 (9)】


茶飲みの風流譚

                        日本在住中国人作家 キン飛


  《プロフィール》
チン・フェイ。北京生まれ。中学教師、記者、編集を経験後、94都市東京へ移駐。朝日文化センター、東京大学などにて教鞭を取り、80年代末、文筆活動を始める。エッセイ集『風月無辺』『桜雪盛世』『北京記憶』など著書多数(中国語)。北京作家協会会員。

 先月、茶を楽しむ友について書いたが、南宋の李清照のことには触れられなかった。

 彼女はすぐれた詞人(「詞」とは、宋代に盛んだった詩の一種)で、18歳の時に、まだ最高学府で学んでいた趙明誠に嫁いだ。夫婦の本籍地はともに山東省である。

 夫の趙に学はあったが、経済的に豊かとは言えなかった。そのため、毎月初めに休暇をとって帰省する際には、手持ちの衣服を質に入れ、換金しなければならなかった。その金で古い拓本と果物を買い、帰宅後に、夫婦で果物を食べながら拓本鑑賞を楽しんだ。そしてのちには、夫婦共同で『金石録』という非常に有名な本を編纂した。

 李の学識が、夫に勝っていたことを表す二つの出来事がある。

 一つは、趙が地方官僚だった時、李が送った詞に関する出来事である。受け取った詞はすばらしく、負けたくないと思った趙は、3日間部屋にこもり、寝食忘れて50首の詞を書きとめた。そして、その50首を妻の詞とともに友達に評価させたところ、友達は、「三句はすばらしい」という。待ちきれずに「どの三句か」と聞くと、友達が挙げたのは、すべて妻の詞だったという。

 その三句を含む詞は、ちょうど重陽節のことに触れているので紹介したい。題目は『酔花陰』である。

 薄霧濃雲 永き昼を愁い、
 瑞脳 金獣より消ゆ。
 佳節はまた重陽、
 玉枕 紗厨、
 半夜にして涼 初めて透る。
 東籬に酒を把る黄昏の後、
 暗ありて香袖に盈つ。
 道う莫かれ 魂消えざるを、
 簾 西風に巻かれ、
 人 黄花に比して痩なり。

李清照の肖像

 (大意……霧が薄くただよい、雲が濃く立ち込めている永い昼の間に、じっと物思いにふけっている。金獣の香炉にたいた瑞脳のかおりも消えてしまった。また9月9日、重陽の節句となった。玉の枕、紗のとばり、身にしみ入る夜半のすずしさ。東のまがきに酒を酌むたそがれののち、暗闇にただよう菊の香りが袖に満ち満ちる。さびしくないなどと言ってはならないと思う。すだれを動かし秋風が吹いて、人は黄菊の花よりも痩せているではないか)(漢詩大系24巻『歴代名詞選』集英社より。一部ひらがなは漢字に直し、仮名遣いは現代仮名遣いとした)

 文化でも文学でも、その真髄に触れる部分は、母語でなくては表現できない。しかし、この内容は、どんなに苦労しても紹介すべきものだと思う。

 趙が李に及ばなかったことを示すもう一つの出来事は、彼らの食事後の喫茶習慣と関係がある。夫婦は喫茶の際、蔵書を指差してゲームをした。ある内容が、「某書籍の某巻某ページ某行に掲載されている」という問題に答えられた者が勝ちで、先にお茶を飲むというゲームだった。この際にも、多くは李が勝って先に飲み、いつも満足そうに笑みを浮かべていた。時には喜びすぎて湯飲み茶碗を倒し、茶を服の上にこぼしてしまったほどだった。

 これこそ、喫茶愛好者の風流といえよう。このような喫茶の友を伴侶とすることは、理想的な人生と言えそうだ。李も、茶を題材にした詩を残している。

 酒闌にして更に団茶の苦きを喜び、
 夢断たれて偏に瑞脳の香を宜しとす。

 (大意……酒宴たけなわの時に飲む苦い団茶はうれしい。朝、夢から覚めた時の竜脳の香りが好き)

 李は、茶だけでなく、酒も香も好きだった。詞にある「瑞脳」とは、香りのもととなる竜脳のことである。

 日本の茶道でも、香を取り入れている。表千家についてはあまり知らないが、武者小路千家の作法では、主人が客人に香合わせ(香りを楽しむ儀式)とロウソクの光を楽しんでもらう。裏千家の作法は少し複雑で、主人が練香(薫物)または香木を香炉に入れた際に、客人が香りを聞きたいと申し出る。その後、客人は通り一辺倒に褒め、主人は謙遜の言葉で返すというように、会話の内容はだいたい決まっている。

 使う香料は、夏は香木、冬は練香が多い。しかし、現在外国人向けに開く茶会では、この手順は省略されているので、とても残念に思う。

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 ここで、中国の茶芸館の現状についても触れておこう。中国の茶芸実演にも香がある。しかし、香炉を置く位置があまりに茶に近く、香りが混在してしまうという問題点がある。また、使われている香が、商店で売られている普通の線香で、質が悪く、これを使ったら逆効果になる。だから思い切って香を使わない方が良いと思う。

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日本の茶道

 日本の茶と香の密接な関係は、室町時代に形成されたと言われている。八代将軍足利義政は、京都東山の銀閣寺で、能阿弥、村田珠光とともに、香、茶、花、庭園、山水、骨董、書画などに触れることで、乱世の喧噪を忘れ、心の平穏を手に入れていた。銀閣寺の四畳半の茶室・同仁斎には、香、ロウソク、花などがある。室町・戦国時代の人たちは、まさにこのような雰囲気で茶を堪能した。

 李と趙の夫婦も、北宋が北方民族に滅ぼされ、南宋が江南を支配していた乱世に生きた。夫婦は、酒、茶、花、香、書、拓本、詞が作り出す精神世界に浸り、一貫して平静な心と高尚な趣味を持ちつづけた。

 誤解してほしくないのは、上述のような人たちの精神世界は、儒教の教えとは関係のないことだ。むしろ、道教や仏教からの影響の方が大きかった。儒教とは違った方法で別の精神生活を求める、私は、茶と香にも同様の意味合いがあると思う。それこそが、私が言いたい喫茶者の風流である。茶や香に惹かれる人を、決して儒教的感覚のような型にはまった価値観で判断してはいけないということだ。

 過去においては儒教の影響力が大きすぎたため、儒教とは違った価値観を持った友を探すのは難しかった。いま、茶を楽しむ友を見つけるのも難しい。そんな友となかなか出会えない根本的な原因は、そこにあるのだろうか?(2002年10月号より)