道を拓いた帆足計氏

 

 

筆者略歴  元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。

   

 

 
 

三飛労燕両邦春 三飛労燕 両邦の春
咫尺天涯不顧身 咫尺天涯 身を顧みず
莫道春来時尚早 春来に 時 尚早と道う莫れ
花開頼有種花人 花種える 人の頼り有り 花開く

  *労燕=モズとツバメ。「労燕分飛」(人が離ればなれになることのたとえ)ということわざがあることから

  *咫尺天涯=近くても天涯に隔たるように近付けない   

 中日両国の貿易関係団体は1950年代、四次にわたる『民間貿易協定』を締結した。この四次の協定に唯一、一貫してたずさわった人物、それが帆足計氏(1905〜89年)である。

 帆足氏は、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部を卒業。戦前は経済団体に属していたが、戦後は参院議員、衆院議員を歴任し、社会党に加盟した。

 彼の大きな功績のひとつは52年春、日本政府の厳しい規制措置を顧みず、欧州からソ連入りし、モスクワで開かれた国際経済会議に出席したことだ。当時は、東西の冷戦体制がしかれ、ソ連や中国など社会主義国との交流がほとんど閉ざされた時代であった。

 会議に同席したのが、参院議員の高良とみ(1896〜1993年)と衆院議員の宮腰喜助(1905〜66年)両氏、それに中尾和夫氏ら二人の秘書だ。彼らはその後、北京へと飛び、中国国際貿易促進委員会との間で、第一次『中日民間貿易協定』を締結。新中国成立後、はじめて中国を訪れた日本の政治家と中国側による協定の締結であり、それまでの両国の貿易封鎖を、民間サイドで打開した快挙であった。彼らは帰国後、党や民間のさまざまな大会に出席し、中国やソ連の現状について詳しく語った。それは日本で、大きなセンセーションを巻きおこした。

 帆足氏は、講演や文筆活動を得意とし、その話には学識があった(それで、青年たちのあつい支持を受けていたといわれる)。彼の記した『中国ソ連紀行』は、日本版の『中国の赤い星』(エドガー・スノー著、中国版は『西行漫記』)だと称されたものだ。多くの日本人が、同書から新中国の実情にふれたのである。本の表紙には、52年に北京で開かれた「アジア太平洋地域平和会議」のポスターの絵が、つかわれた。バックにピカソの絵を用い、そこに平和のハトを抱いた男の子と女の子を描いた、斬新なデザインだった。

 彼は、日本人ではじめて新中国入りした彼ら三人の政治家ことを、「春を報せるツバメ」になぞらえていた。日中貿易の促進に、力を入れたばかりではない。ソ連や朝鮮、チェコスロバキア、インド、キューバなどとの交流も自ら深めた。音楽や詩歌、ダンスの趣味を持つなど、多芸多才だった。

 私は、貿易交渉でいくどか通訳をつとめたが、貿易封鎖や国旗掲揚、指紋押捺、駐在機構の人数など、双方にとって敏感な問題にさしかかると、交渉が難航した。副団長のひとりだった彼は、しばしば頭を抱えた。が、日本側の立場にありながら、中国側の主張もよく理解していたので、交渉を円滑にすすめる重要な役目を果たした。指紋押捺問題に話がおよんだとき、彼の態度がじつに毅然としていたことを思い出す。「駐日中国代表に、犯罪容疑者と同じ『指紋押捺』を求めるとは、何ごとであるか。まるで、低俗な探偵小説の悪趣味だ」。そう言って、日本政府をたびたび非難した。

 私が駐日中国大使館の任についた80年代前期、中国国慶節(10月1日)のレセプションには毎年、家人に支えられ、杖をついた帆足氏が、いち早く訪れた。すっかり年老いた彼は、話をするのも苦労そうな様子だったが、燃えるような情熱は昔とまったく変わらなかった。そして30年前の、あの『中国ソ連紀行』をくださったのだ。私の胸が、熱くなったことは言うまでもない。いつもホールの傍らで、静かに腰かけていた。客人が去り、ほとんど最後のひとりとなったとき、ようやく大使館を後にした。その心中を察すると、今でも胸がいっぱいになる。

 晩年にはまた、彼の論文のコピーをお送りいただいた。断固として戦争に反対し、平和を守り、軍備を削減し、環境を保護しよう、という訴えがそこには記されていた。

 第二次大戦後の中日関係はまず、帆足氏ら三人の政治家が、地球を半周して一衣帯水の隣国を訪ねたことから伝えなければならない、と人は言う。現在の両国関係は、日になんども飛行機が往来し、貿易額もゼロから八百億米ドルへと急増した大きな発展をとげている。そうした中で、困難にも勇敢に挑んだ、先駆者たちの行いを忘れてはならない! 彼らは「春を報せるツバメ」であり、「氷霜のなかに咲くロウバイ」であった。それは、かつて毛沢東主席が詠んだ漢詩を、思い起こさせるものである。

 待到山花爛漫時、タ(女に也)在叢中笑!
 山の花咲ききそう時いたらば   
 はなむらにありて微笑まん  
  (61年「卜算子 梅を詠ず」)

(2001年8月号より)